カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ:カトリック神父・著名人・キリシタン・外国人宣教師 > 酒井俊弘司教

コロナ感染対策の影響で、ミサになかなか与れない。
教会との接点が少なくなっているなか、気持ちをつなぐ何かが欲しい感じがしている。

酒井司教の説教集を読んでいるが、ちょっとササるようなくだりがあった。
「永遠のいのち」というテーマについてのベネディクト16世教皇の回勅「希望による救い」を引用されての話だ。

(青字は回勅「希望による救い」)
「わたしたちは本当にこの『永遠のいのち』を望んでいるんでしょうか。もしかすると、現代の多くの人が信仰を受け入れないのは、彼らにとって『永遠のいのち』が望ましくないものに思えるからかもしれません。現代人が望むのは、この現在であって、永遠のいのちなどではありません。そして、この現在にとって、永遠のいのちへの信仰は邪魔になるのです。」

「『永遠のいのち』とは、まことのいのちです。それは欠けることも失われることもない、完全で純粋ないのちです。」

「真の意味でのいのちとは、関係だからです。」

 
意味深くも難解な感じがするが、コロナ自粛で「ミサに行けない」ではなく「ミサに行かなくてもいい」という気持ちもチラついている心に「わたしたちは本当にこの『永遠のいのち』を望んでいるんでしょうか。」という言葉がグサッとささる。


酒井司教は、この難解な教皇メッセージを、極めて判りやすく説教で紐解いてくれている。
この説教集は「雇われ羊飼いの言いたい放題」という本で、関心を持たれた人には、是非お勧めしたい。


また、この説教集の別の説教で、聖ヨハネ・マリア・ビアンネの話があって、この話も印象に残った。
 
聖ヨハネ・マリア・ビアンネはアルスの村の教会に赴任されたとき、最初にしたことが、祭壇、祭器、祭服をできるだけ華麗にすることだったらしい。
自身は、粗食に耐え、厳しすぎるほどに清貧の生活に生きたのにもかかわらず、この点に関しては違っていて、商人の目からは奇妙な対照となっていたようだ。

ミサについての想いを「いのちとは関係」という言葉に重ねるならば、この聖ヨハネ・マリア・ビアンネの話も、教皇ベネディクト16世の回勅の話とメッセージが繫がってくるような感じがした。


酒井司教の話は、ご自身の体験に基づく話も、とても印象深い。
まだ、読み終わってはいないが、少しづつ読み進めていきたい。


 

前回の酒井司教の説教を続けて引用したい。

(以下青字部引用)

しかし神様のみ旨に対する確信と信頼があれば、疑いはなくなる。これが神様のみ旨だと。
十二人の使徒の 一人である聖ヨハネは、その手紙の中で断言しています。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。(1ヨハネ5・14)」 

私たちはまだなかなかそういう確信がないですね。
やっぱり神様のみ旨とちょっとずれているかな、と思いながらも、やっぱり自分の望みを私たちは願ってしまいます。

では、このような確信、イエス様に対する疑いのない信仰を養っていくにはどうしたらよいのでしょうか。

そういう信仰を強めるために欠かせないことは、信仰に基づいた、信仰のこもった行いを繰り返す以外ないわけです。

ちょうどちっちゃな子どもにお祈りを教えるように、繰り返し繰り返し、最初はそんなに心がこもっていなくても、心を込めるようにお祈りを繰り返すことによって、私たちの信仰は強まっていきます。

だから、よく祈る人は、信仰が強くなるんです。
今日はまとめとして、このイエス様への祈りを強めることをお勧めしたいと思います。

ミサに与りにくくなってしまっているからこそ「家で祈る」ということを大事にしないといけないと思った。
 

コロナで大変な時に、重なるように大雨による大災害が起きてしまっている。

特に人吉は、私の両親が一時期住んでいてどういうところか話を聞いたことがあって、地名に親しみがあったので、災害によって悲嘆する人が多くでてしまった現実に心が沈む。

読んでなかった酒井司教の説教集を読んでみた。

「エマオへの道」について語られているところがある。

聖書世界の初代教会の弟子たちにおいても「見えない」「気づかない」という描写されていることに、自分自身の姿を弟子たちに重ね合わせることができるような気になるところが「エマオへの道」の話に惹きつけられる理由なのかもしれない。

酒井司教は、疑うということについて率直に踏み込んで語っている。


(以下青字部引用)
 それにしても、よく知っているイエス様を、なぜこの二人は最初にはわからなかったんでしょうか。そこのところが、このお話から私たちが学ぶべき最初の点だと思います。なぜ二人には、目の前にいるのに、一番見るべき人だったのに、見えなかったのか。
この疑問に対して、6世紀の教皇様、グレゴリウス1世は、こう解説しています。

「主は、ご自分が主であるとわかるような姿を示されなかった。それは、主が外見上彼らの目に示された姿は、ちょうど彼らの心の状態に似ていたのである。 (略)主は、ご自分について語り合っている人のそばにおられたが、主について疑っている人には、主と認めることのできるような姿を隠された」

弟子たちの心がそのまま反映されていた、投影されていたということなんですね。だから、疑っているものですから、イエス様の姿とは見えなかった。 (略)
このことは私たちにも耳の痛い ことです。なぜ私たちは、山を動かすような信仰(マタイ17/20)が持てないのか。それはひとえに、山が動くということに疑いがあるからです。
(つづく)



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