カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:人間を考える > 労苦と共に生きる

カルメル会宇治修道院の中川博道神父の講話の資料を手に入れたのでご紹介したい。

中川神父が東京から京都に異動されたのは2〜3年前だったと思う。
関西にいることは知っていたが、いままで話を聞く機会をなかなか持てないでいた。

説教の評判については聞いていたが、実際に読んでみると、ぐいぐいと話に引き込まれる。
言葉の運び方の上手さもあるが、誰もが悩み、教えを乞いたいと思うテーマを選ばれていることもあるのだろう。

教会で聞きたい話というのは、こういう話だ。

読むだけではなく、いつかは、直接、話を聞きたい。

今回の講話では、聖ヨハネ・パウロ二世の「サルヴィフィチ・ドローリス」という書簡がテーマにとりあげられている。

「苦しみの意味」についての講話で、以下はその内容である。
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「苦しむものとともに苦しむ神   〜サルヴィフィチ・ドローリスより苦しみのキリスト教的意味を探る〜」

■苦しみの中から生まれた書簡
「サルヴィフィチ・ドローリス」はヨハネ・パウロ二世が二度にわたる暗殺未遂事件によって心身ともに深く傷つかれた中で書かれた 圧倒的な迫力を持った書簡です。この中でヨハネ・パウロ二世は、苦しみは人間に付随する普遍的テーマであり、人間は苦しむ者である、そしてそれはどこにいてもどの時代にも変わらない現実であると言っています。

■本当の自分へ呼ばれる
苦しみの意味を探し求めることの中に、自分が自分になってきたプロセスがあります。苦しみの中で本当の自分へと呼ばれていくのです。ヨハネ・パウロ二世は、わたしたちの苦しみはキリストの苦しみに結ばれて、人の贖い、救いに必ず結びつくということを示しています。
自分が苦しむこと、乗り越えようとしてもがき続けることが、それがどんな苦しみであったとしても、主において受け止めて生きていくということが、人の救いに結びついていくのです。

■苦しみの二つの側面
苦しみには二つの側面があります。苦しみには人間的な意味として、自己を超越させながら本当の自分になっていく道が隠れていると同時に、超自然的な(神の)意味として、キリストとともに苦しむことによって人の贖い、救い、神との出会いの回復がなされていきます。
この書簡の中から見える苦しみについてのモティーフ(動機)は、二つのポイントがあります。
苦しみによってわたしたちは本当の自分へと抜け出ていくこと、そしてこの苦しみは、キリストとともに苦しむときに、人が神と出会っていくこと、贖いを実現していくことです。

■人生の振り返りと意識化の必要
 苦しむというテーマが人間のテーマであるとするならば、人間そのもののテーマを考えるとき、神との関係性なしに人間のことはわかりません。苦しみの意味がわかるということは、人間の意味がわかるということ、そして神の本質がわかるということであり、つまり神のもとにいけば苦しみの意味がわかるのです。自分は何を苦しんできたのか、という人生の振り返りをすすめます。苦しみの意味を考えることは、自分の人生を考えることと重なるからです。意識化して整理することによって、「なんとなくの不安」がすっきりします。不安をかきたてられたり、先が見えなくて苦しみを募らせていくようななかで、いくつかの言葉が自分を支えてくれることがあります。

■苦しむものとともに苦しむ神
イエス・キリストは苦しみへの究極の答えです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)という聖書の箇所から、わたしという存在は、父と子と聖霊の交わりの神が、独り子を失ってでも失いたくないと思った存在なのです。またキリストの十字架の出来事を通して、キリストのおかげでわたしたちが苦しむことの中に意味が生まれました。ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは、誰のために苦しんだのか、ということを絶えず明らかにしています。自分を愛してくださった究極の相手である神のために苦しむということなしに、究極の苦しみは耐え得ないのです。ヨハネ・パウロ二世ははっきりと、苦しみは試練だと言います。これは「善きサマリア人」につながることですが、善きサマリア人はキリストの生き方にわたしたちが招かれるということです。「追いはぎにあった遭った人」、つまりひどい目にあって立ち上がれないくらいに傷ついている人、奪われた人、そのような人はまわりにたくさんいます。ヨハネ・パウロ二世がすすめることは、そのような人に近づいていって、自分の一日を捧げてでも、自分に痛みが伴うことでも、寄り添うことです。そうしていくことで人は必ずこの苦しみが自分の救いになり、また人の救いにつながっていきます。苦しみの救いの働きの意味はこのようなところにあるのです。

重度の自閉症の診断を受けた東田直樹さんの本を読んでいる。

会話が出来ない東田さんは、子供の頃にお母さんの工夫による文字盤ポインティングという方法でコミュニケーションが出来るようになり、パソコンを使うことで自分の気持ちを表現する「作家」となった。

絵の才能を認められる人はいても、東田さんのように自閉症で文筆活動を行える人は少ないらしい。

自閉症に対し、特性を端的に表現するために「人の気持ちがわからない」という表現をする場合がある。

自閉症者は、まるで「愛がわからない、感情がない、心がない」とでも言いたげな、この突き放すような酷い言葉を、一般の素人だけではなく、専門機関、医療関係者でさえ使ってきた。

この鈍感で心ない言葉によって、どれだけ多くの誤解を生み、自閉症者やその家族が傷つけられてきたかは想像するに難くない。

東田さんの本は、自閉症という症状を持つ人たちの苦労や気持ちを代弁する本になっているが、それだけではなく詩的な表現の文章力にも引き込まれる。

東田さんの「跳びはねる思考」という自分の気持ちを綴ったエッセイに次の言葉がある。

「僕の気持ちをほんの一部でもわかってくれたら、嬉しくなります。人は話をする時、相手に対して言葉以上のものを受け取ってほしいと、常に願っているのではないでしょうか?

そのために思いが伝わっていないと感じたとたん、心に不満や葛藤が生まれます。
気持ちが十分伝わったと思えたなら、ひと言だけでも満足するはずです。

母は僕が泣くと『つらかったね』『悲しかったね』と言って、よしよししながら抱きしめてくれました。父や姉から、泣くなと注意されたこともありません。母の腕の中で泣きたいだけ泣くことができたのは、本当に幸せでした。

僕の望みは、気持ちを代弁してくれる言葉かけと、人としての触れ合いだったと思います。
どんな自分も受け止めてもらえるという体験ができたからこそ、僕は壊れずに生きてこられたのでしょう」


自閉症の特性は「人の気持ちがわからない」ではなく「コミューケーションがうまくできない」と表現するべきで、コミュニケーションの努力をすべきなのは健常者のほうなのである。


東田さんの存在が、世の中に広く知られるようになったのは、2014年放映のNHKの「君が僕の息子に教えてくれたこと」というドキュメンタリー番組らしいが、なんと東田さんは10年ぐらい前から本を書いている。

12歳の時に書かれた「この地球(ほし)にすんでる僕の仲間たちへ」という本のまえがきには、次の言葉がある。

この本を出そうと思ったきっかけは、僕と同じような障害を持っている子供の気持ちを、少しでもみんなに分かって欲しかったからです。

僕たちはいつも困っていてひとりぼっちなのです。
僕たちを笑わないでください。
僕たちをのけ者にしないでください。
僕たちを助けてください。

この本を読んで僕たちの仲間になってくれたら、僕はとてもうれしいです。
この地球にすんでいる僕の仲間たちへ。
たとえ今がつらくても、生きることをあきらめないでください。
みんなが僕らの仲間になってくれたら、僕らだってこの世界の中で生きていけます。

みんなが分かってくれるように、僕が頑張ります。


「跳びはねる思考」の中のインタビューに

「必要とされることが人にとっての幸せだと考えています。そのために人は人の役に立ちたいのです」


という言葉があったが、12歳の時の決意の延長に今の東田さんの姿があるということがわかった。

電車の中で読んでしまって、不覚にも涙目全開になってしまった・・・

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