NHKのeテレに「こころの時代」という対談番組がある。
心の修養についての対談番組なので、お気楽な番組とは言い難いが、人生経験や体験談を先輩諸兄から会話を通じて聞いているようで、講演よりは身近でリラックスして観れる感じはする。
この番組はゲストが宗教者になることが多い。
というか、ほとんどそうなっていると言ってもいい。
選りすぐられた人選だとは思うのだが、興味関心の方向が違うことも少なくないから、正直なところ当たり外れはある。
ただし、たいして興味を持っていたテーマではなかったにもかかわらず、いつの間にかじわじわと引き込まれていき、印象に残る話や、琴線に触れるような金言を得られることもある。
先日、志慶眞文雄(しげまふみお)さんという方の回があった。
この回は大当たりだった。
志慶眞さんは、沖縄在住の小児科医で「まなざし仏教塾」という私塾をされている。
ポイントはいろいろあるが、一番印象に残ったのは、近代ドイツのユダヤ人哲学者のマルティン・ブーバーという人の「我と汝・対話」という本の話だった。
志慶眞さんの解説と共に、ブーバー氏の本の話を少し引用しようと思う。
以下のURLの志慶眞さんのホームページを見ると、もっと詳しい解説がある。
ブーバーの「我と汝・対話」は、いきなり衝撃的な内容で始まる。
【以下引用、ブーバー氏は青字、志慶眞さんの解説は紫字】
世界は、人間のとる二つの態度によって二つとなる。
人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。
根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。
この場合〈それ〉のかわりに〈彼〉と〈彼女〉のいずれかに置きかえても、根源語には変化はない。
〈われ―それ〉の〈それ〉は対象化、分別化、分断化、固定化、物質化された「もの」である。
したがって人間の〈われ〉も二つとなる。
なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。
なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。
〈われ―なんじ〉の世界を生きる〈われ〉と、〈われ―それ〉の世界を生きる〈われ〉とは、まったく異なる〈われ〉である。だから〈われ〉は二つあると。
〈われ〉が二つあるということは、〈われ〉が生きる世界が二つあるということである。
〈われ〉が二つあるということは、〈われ〉が生きる世界が二つあるということである。
根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。
根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。
〈われ〉はそれ自体では存在しない。根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉と、根源語〈われーそれ〉の〈われ〉があるだけである。
【引用終り】
一般的には、世界というのは一つであり、「私〈われ〉」と、私以外のもの(「あなた〈なんじ〉」と〈それ〉)は、私のとる態度などに関係無く、それぞれ単独で存在していると考えている。
それに対しブーバーは、「世界は、人間のとる二つの態度によって二つとなる」「根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだから、人間の〈われ〉も二つとなる。」と語り
「二つ世界、二人の私」が存在するという説を述べているのである。
志慶眞さんは、「〈われ―なんじ〉は〈関係性〉の世界」「〈われ―それ〉は〈もの〉の世界」とも説明されている。
哲学を学んだ事がない私が、誤った理解かどうかをおそれながらも、私なりの咀嚼を試みるとするならば、ブーバーの説というのは、
「私が〈あなた〉と呼びかけたとき、私は〈関係性の世界〉で存在し、私が〈それ〉として見たとき、私は〈それ〉として存在する」
つまり一人称である「私」は単独では存在せず二人称である「あなた」と共に初めて存在するか、三人称化した「それ」として存在するということらしい。
この難解な禅問答のような話を、志慶眞さんは、仏法の「諸行無常・諸法無我」という教えとも整合を試みる。
「諸行無常」とは、すべての現象は変化し続けており、永遠に不変なものは存在しないということであり「諸法無我」とは、すべてのものは因縁によって生じたものであって実体がなく、独立して成立するものはないので「我」は存在しないということである。
「〈われ―なんじ〉の〈関係性〉の世界」「〈われ―それ〉の〈もの〉の世界」というのは、現実には、スパッと別れずに混沌と入り混じっているような感じがする。
ただカトリックの私が、このブーバーの説に引き込まれてくるのは、一つは「御聖体」、もう一つは「神の国」というキーワードが頭に浮かぶからなのだろう。
ことに「御聖体」におけるミサの聖変化のというのは、紛れもなく「二つの世界が切り替わる瞬間の可視化」のようにも思えてくる。
「御聖体」を〈あなた〉と思い呼びかけるか、〈それ〉として見るか・・・
〈あなた〉と呼び掛けたときに、〈関係性〉の世界の〈私〉が新しく誕生し、 〈それ〉として見続けてしまったとき、私自身も〈もの〉の世界の 〈それ〉としてそこに留まってしまうということになる。
また、キリスト教禁教時代の、潜伏キリシタンの信仰を思うとき、やはりこの世の中に対比する存在としての「神の国」というキーワードが頭をよぎる。
カトリック教会の教えは教会を離れたところには存在しないし、グノーシス的な考えになってはいけないが、ブーバーの説は、とても刺激的だった。