カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:本・雑誌・映画について > 映画/TVドラマ

印象に残ったマルティン・ブーバーの「二つの世界説」に対する興味が、少しズレて飛び火してしまったのかもしれない。
複数の世界が交錯する「インセプション」というハリウッド映画を観たくなった。

封切りの時は、私は気づかなかったが、公開から既に5〜6年経過している映画らしい。
ただ古過ぎるというほどでもないので、レンタルDVD店でも棚にある。

このところ気持ちが疲弊しているのもあって、手軽な気分転換に映画はちょうど良かった。

ひとことで、どういう映画だったかというと「夢」の話である。

将来に対する願望とか願いという意味の「夢」ではない。
睡眠のときの「夢」の話で、特殊な装置(心電図の計測機のような感じ)をつければ、複数の人間で同じ「夢」を共有できるという、現実ではない 空想の話、SFである。

そもそも「他人の夢の中に入り込む」「同じ夢を共有する」ということが「それはあり得ないだろう」というツッコミどころなのだけれども、まあSFなんだからと、その前提を許容してしまえば、演出の巧さもあるので話の展開にグイグイと引き込まれる。

(ネタバレ注意  以下の文は、ストーリーの内容について触れています。)

しかし、なにせ夢の話なので、映像としての「夢」の描写は奇想天外で面白い。
パリの「街」がねじ曲がってひっくり返る(3DCGで本当にひっくり返っているように見える)場面があり、こういうところはハリウッドらしい特撮の見せ所になっている。
話の設定が特撮映画向きの話なのである。

あらすじは、 夢の世界を設計したり夢の世界の中で自在に変身できる、複数の夢のスペシャリストがチームを組んで、ターゲットとされる人物の夢に侵入し、潜在意識に一つの思い込みを「植え付ける」、いわば「夢」でマインドコントロールをするという話。

夢の中での事象は、感情がメタファーとして形象化されるというのも面白い。
「金庫の扉」は、誰にも見られたくない自己意識の深層の扉であり「銃を持ったボディガード」もまた、侵入者から自己意識を守るための防衛隊である。

最終的に「夢」に侵入するチームは、雪山にそびえる鉄壁の要塞の防衛隊と激しい銃撃戦になるが、「人の夢の世界に侵入するような不埒な輩だから、激しい抵抗に合うよなぁ」とついつい思ってしまった。

もう一つ面白かったのは、夢の中でまた眠り「夢の夢」をみる、つまり「夢」の第二層が存在するというところだ。
映画では、夢の中で眠りについて、さらにまた次の階層へと進んでいく。

階層が進めば進むほど、描写が過剰になり、時間の経過が長くなる。
現実世界の10時間が、夢の階層に移ると 1週間の永さになるというような具合だ。

この映画は、ターゲットの夢の中での戦いというアクションの場面とともに、侵入チームのリーダー、コブ(レオナルド・ディカプリオが名演)のシリアスなサブプロットが展開し絡んでくるのだが、こちらの話は少し重い。

コブは、夢の世界の設計において過去に大きな過ちをおかしている。
夢の世界では、記憶を元に情景を作ってしまうと現実世界との区別がつかなくなるのにもかかわらず、かつて妻のモルと二人で、非現実の別世界を作ってしまい、その世界で50年も過ごしてしまう(50年の経過というのは、夢の階層が深いほど時間の経過が長いため)のである。

意のままに世界を動かすことは、究極の欲望なのだと思うが、モルは、
夢と現実の違いがわからなくなってしまってついに逆転し「夢」の世界に引き篭ろうとしてしまう。
コブは、この「夢」によって現実世界のモルを失ってしまうのである。

この、コブとモルが「夢」で、暮らした街は、誰も住まなくなった人の気配が全くしない、大都会の廃墟として描かれる。
とても人が住みたくなるような街ではないから、現実世界のモルが命を断ったことで変化を受けた情景かもしれないが、不完全である人間が欲望のもとに創造する世界というのは根本的にどこかに欠陥があり、不完全で、破滅感に満ちているということを、制作者は映像で可視化したかったんじゃないかとも思った。

そもそも「夢を設計し意のままに動かす」という発想が、根本的にに誤っているような感じはする。
制作者は、この欲望のもとに作られた夢世界を破滅させるしか、ストーリーの展開が描けなくなったのかもしれない。

この映画は難しいので、ネット上でいろいろな解説があるのだが、この大都会の廃墟の世界は「limbo」という名になっているらしい。

少しゾッとした・・・

廃墟になってもチラチラ現れるモルの姿は、コブの想念が夢で描いているモルの姿だと思っていたが、逆にモルがいる「limbo(死後の世界である辺獄のこと)」に、コブが迷い込んでいたのかもしれないとも思えたからだ。

「閉ざされた破滅感のただよう世界」のイメージを、見事に表現した映像だった。

印象的には、もしかしたら、このサブプロットが、メインプロットだったのかもしれない。

コブとモルの話は、「失楽園」のアダムとイブの話を想像させる。
「夢の中で夢を見る」という重層的な世界は、現代版のダンテの「神曲」の世界を見ているようでもあった。

「limbo=辺獄」と「煉獄」の違いが何だったかも気になり出し、見終わったあとにも余韻が残り、「神曲」を読み返しながら何度も見たくなる映画のような感じがした。

コブの願いは現実世界?に於いて成就し、救いのあるラストになったことが、見終わったあとでも後味の悪さがなく、この映画のいいところになっている。

音楽は、エディット・ピアフの古い
(少し調子外れの)シャンソンが夢から覚めるための合図として効果的に使われ、印象を深めている。

この変なメロディが頭から離れない。


ところで、聖書で書かれている夢の話といえば、ヤコブの「天国の階段の夢」が有名で、この夢では、天国と繋がっている階段を、神の御使いが登ったり降りたりしている。

夢は、自分ではわからない不思議な情景がある方が、夢らしい。

話のディティールが気になって、「天国の階段」でネット検索したら、韓流ドラマの「天国の階段」に関する項目がドバッと出てきてしまった。
「確かキム・テヒさんが悪役で存在感を出したドラマだったけ・・・」と以前書いたブログのことも思い出して、まだ見てなかったこの韓ドラも見たくなってきた・・・

好奇心が疼き、転がりだすと忙しい・・・

寒いので休日も引き籠りがちになってしまう。

そんなこともあって、年末にレンタルビデオ店の店頭で見かけてしまい、観ようか止めようか迷っていた映画を見た。

「第七の封印」 イングマール・ベルイマン監督の1957年製作のスウェーデン映画。

モノクロ映画なので地味で画面も暗い。

しかも「神の沈黙」がテーマで、死神と対面するという不気味な映画である。 

こういう芸術映画は避けたほうが無難なのだが、それでもやはり好奇心が勝ってしまう。

(以下、ネタバレあり)


中世ヨーロッパが舞台。

十字軍の戦役から故郷へもどった騎士アントニウスだが、 故郷では黒死病が蔓延し、民衆の間では「最後の審判」が噂され、死を間近に感じる空気が満ちている。
騎士は旅の途上で死神と出会い、自らの生命を賭けたチェスの勝負を死神と始めるのだが、勝負はつかない。
チェスの合間に旅芸人の家族など様々な人たちと出会い合流しながら騎士の館へと向かうが、死神とのチェスの勝負はその一行を巻き込んでいく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%83%E3%81%AE%E5%B0%81%E5%8D%B0_%28%E6%98%A0%E7%94%BB%29


騎士は、終始、神の沈黙に悩んでいる。そして神の存在に疑いを持ってしまうことに悩み続けている。

死神が骸骨がマントを被ったような不気味な姿なのは、騎士の不安な心が映し出されているからだろう。


ニヒリストである従者ヨンスは、死神の誘いを前にして必死に神に祈る騎士アントニウスに対し「いかに嘆き神の慈悲にすがろうとも、そこはだれもいない漆黒の闇だ。」と突き放してしまう。

私は、死神を前にしてでさえ達観できる従者ヨンスよりも、動揺を隠さない騎士アントニウスの方が自然な反応のような感じがした。

しかし動揺する騎士にしても、達観できる従者にしても、いずれにしろ神様を感じることができない。

その騎士アントニウス、従者ヨンスとの対照を成すのが旅芸人のヨフであろう。

冒頭で青い衣を着て冠を被った貴婦人が幼子を連れている姿(の幻)を見たヨフは、その姿を聖母マリア幼子イエズスであると疑わず、すぐさまその喜びを主イエズスを讃える歌にしてあらわすような人物。

ヨフには、妻と幼子がいて、騎士もその母子の姿を見て癒されるのだが、ヨフが見た聖母マリア幼子イエズスと、騎士が見るヨフの妻子の姿は、映画を観る観客にとっては、その姿が重なり合って見える描写になっている。

救いようもなく暗く不気味なこの映画にとっては、ヨフの家族だけが救いになっている。

思っていたより虚無的な映画ではなかったが、やはり私は、この映画のような感覚で、死を捉えたくないという気持ちはどうしても残った。



ところで「死神」と言えば、アイドルグループの「嵐」の大野智さんが主演をしたドラマで「死神くん」というテレビドラマがあった。

大野くんの「死神くん」は、チャップリンのような出で立ちで「おめでとうございます。お迎えにあがりました」と現れるので、全く怖くない。

大層な舞台設定ではない日常的過ぎる日常の中で現れる「死神くん」は、新しい旅への優しい同伴者で、死神というより、お迎えに来た人という感じがした。

しかしコメディーであってもテーマはシリアスで少し考えてしまうところはある。

「第七の封印」には「死神くん」を合わせて観るとちょうどいいのだろう。

このところ、ブログでは五島長崎旅行の旅行記を続けているが今回は少し中休み。 
邦画で、本当に久しぶりにとても良い映画に出合ったので今回はその話題にしたい。

(ネタバレ注意。ストーリーの内容に少しふれます。)


9月からビデオレンタルが始まった「くちびるに歌を」という五島を舞台にした映画の話である。

この映画が今年の2月には映画館で封切りされていたことを、私は全く知らなかったのだが、五島旅行でポスターを見て知って、少し気になっていた。

気分のうえでは、旅行の余韻がいまだに続いているので、美しい五島の海を映像でまた見れればと思ってレンタルビデオを借りて観てみた。

これが想像していた以上にいい映画で、わたし的には大当たりだったのである。 

中学校の合唱部を舞台にした、生徒と新任教師の心の触れ合いを描いた物語である。

美しい五島という舞台のなかで、ストーリーが見事に溶けあっている。

苦しみや悲しみ、重荷といったものまでもが、美しい海の風景、教会の佇まいによって優しく包み込まれ癒されいくような感じというか・・・


監督の三木孝浩さんの演出だろうか?
原作、脚本が良いのだろうか?
ディティールの演出が細かく丁寧である。

海を背景に教会がランドマークになっているような眺め、あるいは主人公の家に「カトリックの家庭祭壇」が、ちょこんとあったりするような、生活のなかにカトリックが溶け込んでいる設定というのがある意味珍しい。
珍しいのはカトリックが日本の宗教別人口比で極めて少数だからなのだが、しかし描き方はさりげなくて自然である。
「教会に入るときに指先に聖水をつける所作」などのディティールが出鱈目ではなく、カトリック目線で見ても違和感はなかった。

主人公の自閉症の兄が「柿の種とナッツをキレイにテーブルに並べ」その傍らで、父親がビールを飲むというようなシーンがあるが、こういうなんていうことの無い描写が場面の印象を強めている。

あるいは「合唱部の練習の仕方」などの描写も細かい。
「ア・エ・イ・エ・ウ・オ・ア〜」という声出しがいまでも耳に残る。

船の汽笛の音も重要な意味を持つ。

そしてベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」が流れるタイミングが大変ドラマティックで、主人公の音楽教師の心が入れ替わる転換点となる。


主人公の三人。
父親が出奔した少女、自閉症の兄を持つ少年。恋人の死によってピアノが弾けなくなった新任音楽教師。それぞれに、心の重荷を背負っている。

教会のなかに出入りして、十字を切る姿から、おそらく三人ともカトリックだが、少し残酷にも思える彼らの重荷は

「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」
(マルコ8-34,マテオ16-24)と

「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう」
(マテオ11-28)

の聖句を思い起こさせる。

五島というところは、やはり本当に美しいところで、「主のもとで休ませてもらえる、癒される」場所としてピッタリの場所なのだろう。

多くの人に、ぜひこの映画で、五島の雰囲気を感じていただけたらと思う。


人も情景もキレイなキレイな映画である。

すこし作られすぎたキレイさだろうか?

いや、チラッとそう思ってしまうのは、現代社会の日常で、やはり病んでいる部分、汚れている部分が目立ちすぎているのかも知れない。


新垣結衣さんが主演。

傑作と言ってもいい。

いや、この映画は、本当に・・・良い。

太鼓判!!


少しタイミングを逸してしまっているが、2月初旬まで公開されていた、映画「サン・オブ・ゴッド」について話題にしたい。

ちょうどタイミング良く四旬節の前だったので、クリスチャンで観た方も多いと思う。

イエズス・キリストの生涯を描いた映画は多数あるが、「ナザレのイエス」はルカ福音書、「奇跡の丘」はマタイ福音書に基づいているらしい。

「サン・オブ・ゴッド」はヨハネ福音書をベースにしている。

キリストの受難の場面は「パッション」を思わせるような激しさがある。

実は私はイエズス・キリストを主人公にした映画をいままであまり観てこなかった。

「パッション」と「偉大な生涯の物語」は観たが、それ以上観ようとしなかったのは、主イエズスの姿やイメージが、映画によって刷り込まれて固まってしまうのが嫌だったのである。

しかし、今までのそういう認識は少し間違っていたのかもしれない。

イメージを固定化させないためには、むしろ逆に、もっと積極的に様々な「イエズスの生涯」の映画を観て、様々な描かれ方を知ったほうがいいということに今回気がついた。

例えば「偉大な生涯の物語」でのイエズスは、神秘的な姿を強調して描かれていたようにも思うが、今回の「サン・オブ・ゴッド」では優しさがにじみ出てくるような姿であって、そこがとても新鮮だった。

事前に読んだ映画批評では、「革命家としてのイエスの姿が強調されている」という記事もあったのだが、必ずしもそうではなかった。

イメージが固まるのではなくむしろ拡がって、想像する余地が生まれたような気がする。


(以下、ネタバレあり。ご注意 )


イエズス受難の場面は、大変心が動く。
動揺すると言ってもいい。

しかしそれ以外にも感動する場面は多い。


「マタイの召命」の場面が、かなり印象に残った。

以下のようなシーンである。


道端で質問を受けたイエズスが「ファリサイ人と徴税人の祈りのたとえ話」(ルカ福音書18章)を話している。

そのイエズスの話を、マタイが徴税作業しながらさりげなく聞いている。

聞いているうちに話に惹きこまれていき、マタイの目からは、みるみると涙が溢れ始める。

イエズスを見つめながら、マタイの唇がわずかに動き、小さな小さな声で

「主よ私を憐れんでください」
と呟く。

もちろんイエズスは、マタイの小さな声を聞き逃さなかった。


「ファリサイ人と徴税人の祈りのたとえ話」(ルカ福音書18章)と「マタイの召命」(マテオ福音書9章)の話を一つに合体させた、とてもドラマティックな描かれ方になった。

「マタイの召命」はカラバッジョの絵のイメージで固まっていたが、新しい別のイメージが加わり拡がった。


この場面には大変感動してしまい、私はもう胸がつまって・・・・・


DVDが発売されたら、購入してもう一度観たい。

【ネタバレ注意】
以下の文章は、上映中の映画「神は死んだのか?」のストーリーに少しふれます。映画を観るまでストーリーを知りたくない場合はご注意ください。

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「神は死んだのか?」(原題 GOD`S NOT DEAD )というアメリカ映画を観た。


原題は、GOD`S NOT DEAD で「神は死んでいない」という題名なのに、「のか?」という疑問文の表現になっている。
現代の日本人社会の曖昧な宗教観が、配給会社に於ける映画名決定のプロセスでも現われているのだろうか?

しかしこの映画は、やはり「神は死んでいない」という題名の方が内容と合っていると思う。

というのは、この映画は、神の存在についての議論にポイントがあるのではなく、どちらといえば神に向かう心の動きを描くヒューマンドラマであり、且つかなり護教的な内容だからである。

「のか?」という題名から感じるようなスリリングな討論を期待してこの映画を観た人は、かなり違和感を感じたのではないだろうか?


全体を通して、人と人とが異なる意見をぶつけ合う場面がとても多い。

特殊ではなく一般的なアメリカの市民社会を舞台にしているように思うので、日本人的な民族性とは異なるアメリカ人気質のようなものを感じる。
アメリカ人的な「白か黒か決着をつけたい」という戦う姿勢の強さだろうか? 

登場人物たちはカトリックではなくプロテスタントのようだったが、信じなければ救われないと迫ってくる姿勢や強さにたじろかされる。 

しかしそういう姿勢を持つだけに、日常的に聖書をよく読み、生活の中で活かしている感じがした。
そして聖句の引用も巧みである。

サブプロットのストーリーで、ビジネスにおいて成功をおさめた息子(ただし生き方は傲慢の極みで全く福音的ではない)が、厚い信仰を持ちながら認知症で自分の息子も解らなくなった老いた母親に向かって「このザマはなんだ」という酷い悪態を吐くシーンがある。
もはや母親は息子の悪態を理解できない。
しかしここで、なんと母親が、突然、聖句を呟く。
その聖句が、「門が閉ざされる」というような、神に背を向ける息子に対してピタっと合っていてたしなめる(というより突き離す)ような厳しい聖句なのである。
聖句を呟いた後、母親は、すぐにいつもの認知症の状態に戻るのだが、母親の聖句の呟きは、一瞬だけ我に返った母親自身の言葉なのか、それとももしかして・・・・・
と思わせる緊張感のあるシーンだった。
大変ミステリアスで、この映画の印象を強める名場面になっている。

題材の選び方は新鮮で、オムニバス形式で同時並行させるストーリー展開も凝っている。
人物描写は、ややステレオタイプ的ではあるが、話を解りやすくさせている。

様々な登場人物達が少しづつ神の存在に気づき始め、発見と共に歩み始める。
満たされない想いを満たしたいという想いから・・・
あるいは小さな灯火が少しづつ大きくなっている自分への気づきから・・・
あるいは哀しみ苦しみへのもがきから・・・

オムニバス形式ならではの上手い演出で、そこは素直に感動した。 

最後の何千人もが集まるロックコンサートのようなイベントのシーンは、プロテスタントメガチャーチの伝道集会の光景かも知れないが、私には未知の光景だったのでちょっと新鮮。
しかし、この場面では共感はしない。
連帯の強要のような感じがイヤだし、ああいうものが、現代のカトリック教会の変な(例えばバンドミサみたいな)ミサに影響しているかもと思ってしまうと、やはりチョット・・・という感じだ。

ラストが伝道集会でまとめてしまったので、やはりキリスト教のプロパガンダ映画に、結局なってしまっているのかもしれない。
ノンクリスチャンの方であれば、拒否感を感じる人もいるだろう。 

場面場面で緊張したり感動したり白けたりで忙しい。

この映画は、感動した共感したとも言えるし、とても違和感があったとも言える(???) 

名作映画とは言いがたいが、印象には残る怪作?である。

まだ上映中だが12月から封切しているのでそろそろ終了するかもしれない。
ご興味を持たれた方には、ぜひご覧になられることをお勧めします。

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