カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ:九州 > 長崎

五島には52の教会があると聞いた。

長崎教区のホームページで五島の教会数を数えたら50だったが、数に違いがあるのは、教会としては使用せず、しかも同一敷地に新聖堂がない旧聖堂(例えば世界遺産候補の野首天主堂)などがあるから、それで52ということなのかもしれない。

NPO法人長崎巡礼センター発行の巡礼手帳によると、巡礼地は53箇所。
これはキリシタン洞窟などが含まれるためだ。

五島だけで53箇所なのだから、長崎全域の巡礼というのはかなり大変。
2〜3日で回れるようなものではなくお遍路さんと同様の大巡礼なのである。

今回五島で訪ねたのは中通島だけだが、中通島だけで29の教会があるので、五島でも最もカトリック密度の濃い島に行った事になる。

とはいえ、島民のカトリック信徒の人口比率は15%ぐらいらしい。
道路を車で走れば、よくある新興宗教の教会も見かけたし、エホバの証人の教会も車窓からチラッと見えたような・・・
墓地をよく見かけたが、仏教の普通の墓も多い。
カトリックの島というイメージを持っていたが、思っていたよりも「普通」に見える。 

しかし、日本全体のカトリック信徒の人口比率である0.4%と比べれば、30倍である15%という比率はやはり大きな違いで、さほど賑やかではなさそうな集落でも、東京の都心にあるような、そこそこの大きさの教会がある情景というのは驚きだった。

小さな集落の中に、文化財としての価値がある古く立派な煉瓦造り聖堂が、少し目立つような感じで建っている。
こういう情景というのは、他ではなかなか見られない情景で、佇まいが素晴らしく、大変美しい。

五島は、聖フランシスコ・ザビエルの時代の宣教黎明期のキリシタンの子孫というよりも、江戸時代中期に長崎外海から移り住んだ潜伏キリシタンの子孫が多いらしい。
島のなかでも、少し奥まったところに教会が多いのは、外海からの移住者の定住地と関係があっての事かもしれない。

五島でのキリシタン迫害は、明治初期に行われ「五島崩れ」と呼ばれている。
「牢屋の窄」という弾圧事件は大変痛ましい話で、私はとても辛くて書けないので、以下のURLなどをお読みいただけたらと思う。
http://www.city.goto.nagasaki.jp/sekaiisan/goto_churches/rouyanosako/detail.html

五島キリシタンの復活も、やはり大浦天主堂のプチジャン神父の存在がある。
17歳のガスパル与作が舟で長崎に渡り、大浦天主堂に参ったという。
「信徒発見」「浦上四番崩れ」と非常によく似ている。
五島巡礼というのは、建造物としての古い立派な聖堂に出合えるというだけでなく、このような歴史に触れて、その当時の人の生き様や思いを知る旅でもある。


潜伏キリシタン時代のままの「カクレ」の信仰を守っている集落もある。
非常に小さな共同体らしく、今のままの姿での継続は困難な状況に差し掛かっているらしい。
この「カクレ」信仰の集落が存続しているエリアは、やはりカトリックも密度の濃い地域。

ネット検索で、この地域の「隠れキリシタン」についての朝日新聞の特集記事を見つけた。
カトリック側のシスターへのインタビューで「何代前からカトリックに変わられたんですか?」との記者の問いに、シスターは「始め(先祖)からずうっとカトリックです。」と返答している
つまり、禁教時代は、禁教令によって隠れキリシタンの状態にならざるを得なかったということであり、「カクレ」の人たちもまだその状態が続いているが本質的に同じという見方なのである。
「潜伏キリシタン」「カクレ」「カトリック」それぞれの関係性を、この言葉で、私もシンプルに理解出来たように感じた。

潜伏キリシタンであった先祖や「カクレ」の霊的兄弟姉妹との絆の深さを感じる。
殉教者をも生んだ先祖からの信仰を受けついでいる五島カトリックの信仰というのは、骨太で根が深い。
やはり私など足元にも及ばない・・・

もっとも、島のカトリックの29教会のほうも、大きい教会ばかりではなく、民家を改装した非常に小さな教会もある。
「カクレ」集落存続地域からもそれ程遠くない、この民家改装教会のマリア様の御像は、信徒の手彫りによるもの。
手本であるヨーロッパ製の御像を見ながら彫ったにもかかわらず、日本人のふくよかな母親の顔になってしまったということが、語り草になっているらしい。
拝観したが、確かに、なんとも言えないふくよかさ、優しさに満ちていて、とても存在感がある。
奇抜さはない。一目でマリア様とわかるオーソドックス御像なのだが、確かに微妙に顔立ちが 違う。
この「微妙さ」が神秘的で、そこが五島らしさということなのかもしれない。
大変、印象の残るマリア様だった。


当然、世界遺産候補の頭ヶ島教会を始め、鉄川与助さんの手掛けた、青砂ヶ浦、大曽、冷水、旧鯛ノ浦などの文化財としての価値がある教会は訪ねたが、このような小さな共同体の小さな教会を訪問出来たことも良かった。

実は、文化財教会の方も、こちらはこちらで大変になっている。

話があっちこっちに飛び跳ねてしまうが、次回は、この話について書こうと思う。

Wikipediaによれば、聖地巡礼には、2種類の型があるという。

一つは、一箇所の目的地を真っ直ぐ目指す直線型

もう一つは、複数の巡礼地を順番にまわる四国のお遍路さんのような巡回型。 

カトリックの場合は、ローマやエルサレムを念頭におけば「直線型」のようにもみえるが、ルルドなど他の聖地もいろいろあるからどうなのだろうか?

もっとも、カトリックの巡礼は、外国に行かなくても日本国内でもできる。
日本のカトリックは信者数も少ないし存在感も弱いが、歴史的に見れば、世界史にも残る程の過酷なキリシタン弾圧迫害があったので、日本国内の殉教地は巡礼地に相応しい。

殉教者数は、実ははっきりしない。
4万とも、10万とも、30万とも言われる。
この人数に天草島原の乱の死者数が、含まれるか含まれないかということでも説が分かれる。
天草島原の乱の死者数も、2万7000とも、3万8000とも・・・


殉教については、キリシタン史の中心にある長崎もまた殉教地である。

26聖人が殉教した西阪の丘は、JR長崎駅の近くで、展示内容が非常に充実している26聖人記念館がある。
そしてまた、日本人のカトリック信徒であるならば、キリシタンの時代と明治の再宣教の時代を結ぶ源流として大浦、浦上の二つの天主堂は訪ねなければならない場所だと思う。 
26聖人記念館、浦上天主堂、大浦天主堂をまっすぐ目指せば「直線型」の巡礼になるのかもしれない。

一方、五島列島にあるような再宣教の直後に建てられた教会群は、潜伏キリシタンが、キンシタン禁教令の撤廃後に、大変な苦労のもとにそれぞれの地域、土地に「信仰の証」として建てられたもの。
いわば、聖フランシスコザビエルが日本に直接蒔いた種から育った麦穂で、「本流の血筋」と書く表現が軽いが、450年の歴史の重みとともに、どっしりとその地に根を生やしている重みがある。
こちらは、それぞれの教会を一つ一つ回わりながらその苦難の歴史に想いを寄せ、その心を受けついで いく「巡回型」の巡礼になるのかもしれない。

関西からは遠いので、なかなか長崎や五島までは行けないのだが、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録が確定されてしまえば、「巡礼」よりも「観光」で、騒々しくなってしまいそうで、少なくとも五島にはとにかく行きたいという想いもあり、 ついにこの夏休みにおもいきって五島と長崎市内を訪ねた。

本当は、西海外海、平戸生月、島原、天草(熊本県)も周りたいところだが、そこは、日程的にも予算的にも無理があり仕方が無い・・・

しかし、限られた場所と時間であったにもかかわらず、長崎、五島という濃密なカトリックの聖地の空気を直接吸って得られた経験というのはやはりとてつもなく大きかった。

少しづつ次回から、ブログで書きとめていきたいと思う。

どの話から書き出そうか・・・

多過ぎて迷う・・・


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