カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > 祈りについて、公教会祈祷文

「祈り」について、 Wikipedia で調べてみた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E3%82%8A

信仰生活において「祈る」ということは、あまり深く考えることもなく慣習として何気なく行っているが、「そもそも『祈り』とはどういうことか?」という視点でわかりやすく説明されている。

Wikipediaによると、祈りとは「賛美、感謝、嘆願、とりなし、静聴、悔改」であり、キリスト教の場合は 単に自分の願いを披露するのではなく、自身の信仰に基づいた決意表明」と定義されていた。

加えて、伝統的教会とプロテスタントとの、祈りについての姿勢の違いについても書かれている。

「私的(個人ないし集団)な祈りの場合、定まった祈祷文をもちいるものと、自由で自発的な祈り(自由祈祷)があり、伝統的教会は祈祷文を奨励し、プロテスタント教会は自由祈祷を奨励する。」とある。

確かにカトリック教会では、
個人的な場から集団の場になればなるほど、自由祈祷はあまりしないような気がする。

自由祈祷というものは、
もしかしたら自己本位な見方 によって 知らず知らずに信仰の中身が教会から 離れてしまう 危険、リスクのようなものがあるかもしれない。 

つまり祈祷文には教会の教えから離反しないように補整する機能があるようなことも想う。

祈祷書 例えば 「祈りの友(カルメル会編)」 の目次を追っていくと、「試練のときの祈り」「友のための祈り」「子供の誕生を待つときの祈り」「死に直面している病人のための祈り」など様々な人生の場面場面での祈祷文がある。

よく「どのように祈ったらいいのか?」というようなことが言われることがあるが、祈祷書があることを前提にすれば、祈りとは、
先ず 祈祷文をありのままに読んで、その一言一句の意味を噛み締め、そのうえで 自分の心の整理し、 神様と対話をしていけば良いのだろう。
祈祷文とは、そのような 自分の心の整理をする ツールと考えればいい。

そんなふうに考えると、祈祷書というのは、神様と対話するためのマニュアルみたいな感じなのかもしれないとも思った。

私の場合は、なんだかんだで下の写真の5種の祈祷書と出会っている。
祈祷書UP

別に
コレクション しているわけではない。
ただもらいものがベースだったところに、自分で求めて購入した左の2冊「祈りの友(カルメル会編)」「カトリックの祈り(サンパウロ編)」が増えたので、ちょっとしたボリュームになってしまった。

「祈りの友 (カルメル会編) は内容的に 非常に充実していてとても気に入っている。
多くの文語の祈りが残され口語も並記。
「文語の祈り」愛好者の気持ちも汲み取った現時点で最も使いやすい祈祷書だと思う。

ただ、「連祷」が不十分なことが欠点だったのであらたにまた「カトリックの祈り(サンパウロ編)」を購入した。 

「カトリックの祈り(サンパウロ編)」は、 文語の祈りにこだわるのならば「祈りの友」より文語数は多いと思う。
「連祷」も「祈りの友」よりも充実。

文語口語併記は、「主の祈り」「アヴェマリア」「栄唱」三つで、日々の祈りを口語に差し替えて、全体的な構造としては、 少し抜粋されてはいるが「公教会祈祷文」(文語のまま)と言ってもいい。 
ただし、文語の使徒信条(つまり使徒信経)は「日々の祈り」の群に含まれたためか載ってない。
祈りの友」と「カトリックの祈り」は、ちょうど相互補完のような関係で、「カトリックの祈り」は祈りの友」の追補版のような存在と思ってもいいかもしれない。

公教会祈祷文は、この2冊の原点のような存在だから、
他の類を見ない存在。祈祷書としてこれはもう別格。 文語の格調の高さの味わいだけでなく、教会がどのような祈りを残してきたかということを知るうえで の資料価値があり、存在感は突出している。

「日々の祈り」は、2005年に編集された比較的新しい祈祷書でカトリック中央協議会が出しているので、現在の
デフォルト、 標準の祈祷書といえるだろう。
ただし祈祷文の数は少なく、全て口語のみ。

「これだけでよい」という割りきりかもしれないが なんとなく味気ない。
この祈りを本を毎日丁寧に祈っている人もいるだろうから、内容が悪いとは言わないけれども
、上の3冊と比べれば、 内容に奥行きがない感じはする。
この
「日々の祈り」の内容は 「祈りの友 「カトリックの祈り」に全部載っているから、この2冊を持っていたら、この 「日々の祈り」は、サイズも変わらないから正直なところいらない。

一番右端の「カトリック祈祷書(東京教区司祭協議会編)」は、1970年代の典礼も含めたいろいろな刷新が盛んになり始めた頃に編集された祈祷書である。

巻末に聖書抄、詩編抄があって読み物としての良さがあるが、カトリック祈祷書なのであって祈祷書という本の目的と合っていない。

祈祷書の編集の仕方がおかしく迷いがあるような感じがする。
より問題なのは、公教会祈祷文の様々な祈りを、単純に口語化しているだけではなく内容も変えていることだ。
おまけに「〜だ」「〜である」というような
独り言のような変な祈祷文になっているので「ナンダコレハ」というような奇妙な祈祷書になっている。
この祈祷書は、ちょっとあまりよろしくない。
余計な
祈祷文 がないだけ 「日々の祈り」のほうがまだ良くて、中途半端に古い1970年代の祈祷書はやっぱり疑問が多い。
この本は祈祷書としては使えないので、聖書抄、詩編抄と思うことにしているが、こういうところにも教会の刷新に伴う試行錯誤(というより混迷)の来歴がみてとれる。

長崎教区編集のカトリック祈祷書はとても良いという話も聞く。
私は、もうこれ以上はいらないのだけれども、なんとなく欲しくなってしまうのは私の取捨選択の歩みのなかで好奇心が湧くからなのだろう。

ユーザーレビューのようになったが、つまり祈祷書もいろいろ。

拙ブログをお読みいただける読者の皆様方も、自分のスタイルにあった良い祈祷書と出会われることをお祈りしたい。

新しく祈祷書を買った。

個人的には公教会祈祷文に依存はしているのだが、現在の教会に所属していれば、やはり不便ではあって、共唱でも使える個人所有の祈祷書が欲しかった。

買ったのは「カトリック祈祷書 祈りの友」というカルメル会で使用している祈祷書で、カルメロ神父が編集されている。

この祈祷書が良いと思ったのは、口語の祈りだけでなく古い文語の祈りを「伝統的な祈り」として併記しているところだ。

巻頭言のところで、奥村一郎神父が次の言葉を寄せている。

以下引用
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(前略)
第二バチカン公会議後、あらゆる方面で教会も大きく変化しました。
それも新しいものが生み出されるというより、古いもののとりこわしが始まりました。
どんなことでも「とりこわし」は乱暴なもので、早いものです。
教会の中における「祈りの生活」もその例外ではありませんでした。
ミサの形式から祈祷書、その他ロザリオの祈りとか十字架の道行、聖体信心、免償など、かつては熱心に実行されていたものが、急速に忘れられ、すたれていきました。
現代の教会の危機のひとつとして「祈りの喪失」が挙げられるのもそのためです。
しかし「祈りの心」というのは、正しく解すれば「人間の心」と同意語であるはずです。
祈らないというのは死んだのと同然です。
(中略)
今の日本の教会では、なお文語を好まれるかたもあり、他方若い世代には口語体でなければ祈りになじめない人もいます。
したがってこの本では、文語体と口語体、古いものと新しいものを合わせながら、各自が好みに従って選べるようにしてあります。
どんな形、どんなことばにせよ、要は「祈る」こと自体が大切なのですから、祈りやすいようにという配慮からそのように編集されているわけです。
70年代は教会にとってもなお過渡期な時代でしたが、一応その間の成果を総括的にまとめ、80年代からの新しい聖霊の息吹きをまつ心の場をととのえてくれるために、この祈りの小冊子が役立ってくれますならば幸いに思います。

1980年2月 洛南にて                           奥村一郎
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教会の変化に対する奥村師の心情が垣間見えて興味深い。

奥村師が言われているとおりで、心配りがとてもきめ細かい祈祷書で、文語体と口語体併記というだけではなく、検索もとてもしやすい編集になっている。

初版は1980年だが、最新の第13版は、2011年改定の「聖母マリアへの祈り(アヴェマリアめぐみに満ちた方)」も載っている。

お祈りがし易いというだけではなく感心するのは、様々な聖人の祈りなど多彩なお祈りが載っているところで、ミッシェル・クオストという人の「神に聴くすべをしっているなら」という本から「主よ、時間はあります」という祈り?が紹介されていて、この文章が良かった。

「主よ、もしや、あなたの時間設定がまちがっていたのでは、どこか大きな狂いがあったのではありませんか?1時間が短すぎ、1日が短すぎ、一生が短すぎるのではありませんか」というようなドキッとすることを書きながら、最後に「あなたがわたしに下さった時間の中で、あなたがわたしにせよ、とおっしゃったことを、心静かに行うことのできる恵みをただそれだけを、あなたからいただきたいのです。」と結んでいる。 

こういう祈り?というか文章を挿入することも驚きだったが、その次にある祈りが、幼いイエスの聖テレジア「私のいのちはひととき」という言葉で始まる「今日の歌」という祈りになっていて、このような編集のセンスの良さもあって、ついついページをめくる祈祷書となっている。

このカルメル会の「祈りの友」は、サッと目を通しただけでも、直感的に良い感じがした。

もう14万5千部になっているらしい。

拙ブログをお読みいただいている皆様にも、是非オススメしたいが、もしかしたら既に持っておられる方も多いかも・・・

中川神父の黙想会の日に、帰路でまた何冊か本を購入してしまった。

書棚の空きが無いし、未読の本が溜まってしまっているので購入は控えていたのだけれども、 河原町教会は、敷地の横にキリスト教専門書店のサンパウロがある。
講話を聞いていろいろ関心が高まっている心理状態では、立ち寄れば買わないでいることのほうが難しかった。
 
購入した本の一冊は「聖人たちの祈り」という薄く小さい300円の中綴じの冊子で、46人の聖人の祈りが載っている祈祷書のような本である。 

「お祈り」が載っているだけで出典の記載や背景の解説が無いのだが、「聖人たちがどのように祈ってきたのか」ということに関心が向いたし、値段がお手頃なのが良かった。


おそらく日記か何かで残された文章から、引用されたものもあるのではないだろうか?
ありのままに綴られた文章で、創られた祈りという感じがしない。

心のままの心情吐露のような文章で、どちらかといえば詩集のようでもある。

特にアヴィラの聖テレジアと聖トマス・アクィナスが印象に残った。

 アヴィラの聖テレジアの祈りは以下の内容になる。

(以下引用)

私の神よ、今、このときまったく自由に、何の留保もなく私の意志をあなたにお献げいたします。

主よ、残念なことに私の意志はいつもみ旨にかなうとは限らないのです。

私が真理を愛するようあなたはお望みです。それなのに、しばしば虚偽を愛してしまうのです。

私が永遠を愛するようにあなたはお望みです。それなのに過ぎ去るもので満足してしまうのです。

私が偉大なものに憧れるようにあなたはお望みです。それなのに取るに足らないものに執着してしまうのです。

主よ、私が心苦しく思うのは、あなたがすべてを超えて愛しているか否かを確実に知るすべがないことです。

私をあらゆる悪より常にお救いください。
み旨が私の内で行われますように。
主よ、あなただけが私の全てであってください。

(引用終わり)

アヴィラの聖テレジアのような、大聖人であっても罪の自覚におののき悩まされている心模様に驚く。

アヴィラの聖テレジアだけではない。
「神学大全」著者の聖トマス・アクィナスも同様に「私を見捨てないでください」と心のままに祈っているのである。


河原町のサンパウロでいっしょに買った「存在の根を探して」という中川神父の本も同時に読み進めているのだが、 この人間の罪の自覚については、創世記のアダムとイブの失楽園の話を題材に説明している。

中川神父は、失楽園の話を「恐らく人間の内面の最も深みにおいて密やかに繰り広げられる出来事で、人間への根深い誘惑と、それによって人間が本来のあり方からずれていく様子が描かれています」とし、「蛇」という「誘惑者」の存在に対して「生きたペルソナ的な力を持った存在であることを教会は経験してきた。」と述べていた。

この「教会は経験してきた。」という箇所は、まさにアヴィラの聖テレジアや聖トマス・アクィナスが祈りで表現せずにはおられなかったという事を指すようで、ピッタリと当てはまるような感じがする。

の恐ろしさは、実は外面的な怖さを持つものだけではなく、囁き声で惑わす「誘惑者」でもあって、退けるためには心のままに祈ることが必要だという事を、やはり聖人から学べるような感じがした。

価値観についての統計だと思うが「あなたの一番大切なものは何ですか?」という質問をされる意識調査がある。

統計数理研究所という研究機関が行っているようで、この調査は内閣府の資料でも引用されている。

直近の2013年の調査結果では
家族」      42% 
「愛情、精神」           18%
「生命、健康、自分」18% 
「子ども」       7%
「お金、財産」             4%

となっている。

「子ども」というのも「家族」だから、「家族(子供含む)」で、49%となりほぼ半数。
単身世帯が増え、晩婚化も言われているのに、統計的には逆にダントツの1位というのは興味深い。

この選択肢の場合、「時間」というのはどこに入るのだろうか?
何番目なのかはちょっとわからない。

「自由」とか「信仰」という回答ならば、「愛情、精神」にまとめられているのかもしれない。

この質問。私はどう答えるだろう?

20代の頃のならば「自由」と答えたかもしれないし、今でも「時間」がとても大切という感じはある。

しかし現在の私が一番目に選ぶものならば、やはり多くの人と同じく「家族」という回答をあまり迷わずに選択する感じがする。


家族という集まりは、親子も夫婦も因縁、縁起によって出会った絆のもとで共に生きている。

そしてまた意味深いのは、夫婦や養子のように、たとえ血縁関係が無くても「家族」という関係は存在する。

話が前々回に戻ってしまうが、結局のところマルティン・ブーバーの「<われーなんじ>の〈関係性〉の世界」「<われーそれ> の〈もの〉の世界」の話を当てはめるならば、家族というのは、一番実感し易い「<われーなんじ>の世界」ということなのではなかろうか?

スパッと別れずに混沌と入り混じっているような感じがすることが多いこの「二つの世界」説だが、「家族」の関わりというのは 、もう〈関係性〉のかたまりで、関わらないことができない世界 なのである。

一番大切なものだから
関わらないことができないのか、関わらないことができない世界 だから 一番大切なのかはよくわからない。

そういう存在だから家族についての悩みごとというのは、ひときわ辛い。


公教会祈祷文では家族の祈りとして「父母のためにする祈り」「子女(こども)のためにする祈り」「聖家族に対しておのが家族のためにする祈り」がある。

「子女(こども)のためにする祈り」は次の内容になる。

「天にましますわれらの父よ。われは主の御恵み(おんめぐみ)によりて賜りたるこの子女(こども)を、謹みて主の御保護のもとに託せ(まかせ)奉る。願わくは御(おん)みずからかれらの父となり給え。われらの愛子(あいし)が世の腐敗に勝ち、内外の悪しきいざないを防がんために、御慈悲をもって、かれらを強め、悪魔の謀計より救い給え。なおその心に聖寵を注ぎ、聖霊の賜物を与え給いて、イエズス・キリストを認め愛せしめ、日々御旨(みむね)に適わしめ、この世においては、熱心に主に仕え、後の世においては、主の御前(みまえ)に喜ぶを得しめ給わんことを、われらの主イエズス・キリストによりて願い奉る。アーメン」


抜粋は望ましくないのかもしれないが、

天にましますわれらの父よ。われは主の御恵み(おんめぐみ)によりて賜りたるこの子女(こども)を、 謹みて主の御保護のもとに託せ(まかせ)奉る。願わくは御(おん)みずからかれらの父となり給え。

というここの部分は、祈祷書がなくてもいつでもどこでも祈れるように、記憶し覚えておきたいと思った。



地蔵盆というのは、特に関西地方で盛んなようで、子供の頃、関西にいなかった私にとっては、こちら(関西)に住むまでは未知のお祭りでした。

7月24日の前後に行われます。

お地蔵さんというのは普段はあまり意識してないのですが、意外に多いんですよね。
2〜300mごとにある感じでしょうか?

地蔵盆があることで、お地蔵さんの場所がわかります。

小さな小さな町内会単位の子どものためのお祭り。

夜店がでるような規模ではないので、町内会をやってくれてるおっちゃんおばちゃん、じいちゃんばあちゃんが、地蔵盆も仕切ってくれてます。

線香花火をやったり、金魚すくいをしたり、お菓子を配ってくれたり・・・

マンションのみたいな集合住宅も多いし、今はもう昔みたいな濃密な地域社会というわけではないんですよね。

それでも「あんたどこの子?」なんていうのはなくて、「子供ならば誰でもいい。おおいに歓迎」というおおらかさがあります。

うちの子は、あっちこっちの地蔵盆をハシゴしてました(笑)



お地蔵さんは子供をまもる仏様で、両親よりも先に亡くなった子供たちが、賽の河原で父母の為に小石を積むのを、鬼に虐められて邪魔されているのを地蔵菩薩が助けてくれます。
地蔵盆はその加護を祈る習わしとなっているようです。

どこで聞いたか全く覚えていないですが「一つ積んでは父のため。一つ積んでは母のため。」という言葉が頭の中にありますが、調べたらこれは地蔵和讃というお祈りでした。

地蔵和讃によると、お地蔵さんは「娑婆の親には会えぬとぞ、今日より後は我をこそ冥土の親と思うべし」という言葉で、亡くなった子供を慰めるそうです。

地蔵和讃は、地域によっていろいろ違いがあるようです。



このところ子供が巻き込まれる、事件事故が続きました。
中東の戦争では子供が犠牲になっています。

子供を失った親の苦しみは、もう、その気持ちを想像するだけで、とても辛い。

地蔵和讃は読むととても悲しいお祈りですが、よく調べたら、地蔵菩薩は「代受苦」「獄苦代受」(他人の代わりに苦しみを受ける)という苦しみを担う菩薩さまでした。

カトリックの場合は、公教会祈祷文を見ると「死者のための祈り」に幼児の場合の祈りがあり
「この世を去りたる後、ただちに終わりなき命を与え給う」
「主はこの幼児をあわれみて、かれの霊魂を天国に招き給いたれば、願わくはわれらの上にも御あわれみを垂れ給え」

という言葉がありました。

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