カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

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キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > 聖人について


教会の起源をテーマにした「使徒たちについて」のベネディクト16世一般謁見講話の話を続けたい。
ベネディクト16世は、聖書の内容をながい教会の歴史のなかで、その時々の先人達がどのように受け止めてきたかを例示し話されるので、知らなかったことを知ることも多くとても刺激になる。

最後の晩餐に引き続いて、復活した主イエズスとトマスとの対話について話されている。
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【以下引用 】
(前略 )
この出来事は復活の八日後に起こりました。
最初、トマスは、イエスが自分のいないときに現れたことを信じずに、こういいました。

「あのかたの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20.25)

深く考えると、このことばには次の確信が示されています。すなわち、わたしたちはイエスのその顔によってではなく、傷によって知るのだということです。

トマスは、イエスがどのようなかたであるかを示すしるしは、何よりもその傷であると考えました。

この傷のうちに、イエスがどれほどわたしたちを愛してくださったかが現されたからです。
使徒トマスは、この事を見誤ることがありませんでした。

ご存じのように、八日の後、イエスは再び弟子たちに現れました。

今回はトマスもそこにいました。

そしてイエスはトマスに呼びかけました。

「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20.27)

トマスは、新約聖書の中でもっともすばらしい信仰告白をもって、これに答えます。

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20.28)

このことについて、聖アウグスチヌス(354〜430年)はこう解説しています。

トマスは「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである。」(アウグスティヌスの福音書講解説教)
福音書記者ヨハネは、続けて、イエスがトマスに述べた最後のことばを記します。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20.29)

このことばは、現代でもいうことができます。「見ないで信じ人は、幸いである」
いずれにせよ、イエスは、トマスに続くキリスト信者、わたしたちすべてにとっての基本原則をここで述べています。

興味深いのは、もう一人のトマス、すなわち中世の偉大な神学者トマス・アクィナス(1224/1225〜1274年)が、この幸いと、ルカによって一見すると逆のしかたで述べられた、もう一つの幸いとを、結びつけていることです。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」
(ルカ10.23)

しかし、トマスはこう解説します。

「見ているのに信じない者よりも、見ないで信じる者のほうがはるかに価値がある」(ヨハネ福音書注解)
実際、ヘブライ人への手紙は、約束されたものが実現されるのを見ないで神を信じた、聖書の多くの太祖たちを思い起こすことによって、信仰を次のように定義します。

「望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11.1)

使徒トマスの例は、少なくとも次の三つの理由から、わたしたちにとって重要です。
第一に、それはわたしたちが不安なときに力づけてくれるからです。
第二に、それはどのような疑いも、最後は迷いを超えて明らかにされうることを、わたしたちに示してくれるからです。
最後に、イエスがトマスに語ったことばは、成熟した信仰の真の意味を思い起こさせ、困難があっても、イエスに忠実に歩み続けるようにわたしたちを励ますからです。

(後略)
【引用終わり 】
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復活祭の福音書朗読では、ヨハネ福音書20章が9節まで読まれたが、厳密にはここの箇所ではキリストが復活したという事は書かれていない。
正確には「墓を塞いでいた岩が動かされていて、亡骸が見当たらなくなっていた」という内容で、弟子たちもキリストの復活を実感していない。

トマス以外の弟子たちも、すぐには何が起きたのか理解できずにいたので、何もトマスだけが疑い深かったわけではない。

トマスという人は、ストレートな人だけれども自分の心に偽りがなく率直で、こういう人がいないと聖書も面白くない。

しかしトマスの不信は「しるし」が示されたことで確信に変わった。

現代に生きる私たちも、トマスのように「しるし」を見ることができるのか?
現代における「しるし」とは、何なのか?
現代の「しるし」を、実はもう、私は既に見ていて気づいていないのか?

そんなことを想ってしまう。

「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである。」という聖アウグスティヌスの言葉は、とても気になる。

ところで、聖トマスが確信した際に口から出た「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、ミサの聖変化のときに、呟いてもいいとされている。

聖トマスに倣い、私はいつも小さい声で呟いている。

昨日は、仕事を早く終えることができたので、所属教会とは異なるところで、聖金曜日の「主の受難の祭儀」になんとか与ることができた。

聖金曜日に祭儀に与れると、やはり復活徹夜祭が自分にとって、より良いものになる感じがする。


ブログ更新のタイミングを逸してしまったが、ちょうどいま読んでいるベネディクト16世の一般謁見講話で、「最後の晩餐」についてのとても印象深い話があったのでブログに書きとめたい。

この一般謁見講話は、教会の起源をテーマに「使徒たちについて」語られている講話である。
ベネディクト16世は、テーマをしっかり定めて、一つのシリーズとして成り立つ連続した講話をされるので、知識が深まるし、想像するイメージが面的な広がりがでてくるような感じがする。

ちょうど聖週間のこのタイミングで読めたことはよかった。

以下引用したい。 (※最後の晩餐における主イエズスとトマスとの会話について)
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【以下引用 】
(前略 )
このとき、イエスは、ご自分が間もなく去っていくことを予告しながら、こう言います。

わたしは弟子たちのために場所を用意しに行く。
それは、わたしのいるところに、彼らもいるようにするためである。

そしてイエスははっきりと言います。

「私がどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14.4)

するとトマスがイエスを遮って、こう言います。

「主よ、何処に行かれるのか、私たちにはわかりません」(ヨハネ14.5)

現実に、トマスはこの言葉で、自分が極めて低い理解しかしていないことを示します。
けれども、トマスのこの言葉は、イエスが次のような有名な宣言を行うきっかけを与えました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14.6)

したがって、この啓示はまずトマスに示されました。
しかし、それは、わたしたちすべてと、すべての時代に当てはまります。
わたしたちはこの言葉を聞いたり、読んだりするたびに、自分たちがトマスのそばにいると考えることができます。
そして、主は、トマスに語られたように、私たちにも語っておられると想像することができるのです。

同時に、トマスの問いかけは、私たちに、いわば、イエスに説明を求める権利も与えます。
私たちはしばしばイエスのいうことがわかりません。
私たちはイエスに次のように言う勇気を持たなければなりません。

主よ、私たちはあなたの仰せになることがわかりません。わたしに耳を傾け、私が理解できるように助けてください。

こうして、私たちは包み隠さずにイエスに語りかけます。

これが真の祈り方です。

こうして、私たちは、自分たちの理解力が乏しいことを明らかにします。

しかし、同時に私たちは、光と力の与え主が光と力を与えてくださることを期待する者の、信頼に満ちた態度をとることになるのです。

(後略)
【引用終わり 】
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「ああ、そういうふうに読んだらよかったのか」と素直に感心してしまう。

何げない会話から、どういう意味を見いだせるのかは、まさに信仰のセンスによるものなのだろう。

「主よ、何処に行かれるのか、私たちにはわかりません」というこの理解力の乏しさの話から、ベネディクト16世の講話は、この後、有名な「トマスの不信」の話に展開していく。

トマスは、ある意味とても人間的というか、等身大な感じがする人物だが、もっとも生々しく主の復活を直視することになった。

引用が少し長くなるので次回もこの話を続けたい。

ベネディクト16世は「トマスの不信」の話から私たちが何を学んだらよいかを示唆してくれるのである。

(つづく)


書名は忘れたが、以前読んだ曽野綾子さんの本で、「聖書のヨハネ福音書21章の『愛』という言葉は、本来のギリシア語の聖書では「アガペー」と「フィリア」という二つの言葉で書き分けられている。」というようなことが書かれてあった。

曽野さんの解説では、「アガペー」というのは「理性的な愛」で、「フィリア」は「好き」というような感情的な愛というような感じだったように思う。

ヨハネ福音書21章は、師と弟子の会話が、かみあわないというか微妙にずれる場面だが、そのとき持った私の印象は、師の言葉にこめられた想いに対するペトロの理解力が足りなかかったのが原因(最近の注目ワードを使えば「忖度」できなかった?)と思ったことを記憶している。

ところが、このヨハネ福音書21章ついて、ベネディクト16世名誉教皇の2006年5月24日の講話を知って、どうやら理解力が足りなかったのは私のほうだったことに気づかされた。

サン・ピエトロ大聖堂での一般謁見での講話である。
https://www.cbcj.catholic.jp/2006/05/24/2718/

以下一部を引用する。
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【以下引用】

(前略)
完全な忠実を約束していたペトロは、主を否んだことの辛さと恥ずかしさを味わいました。
高ぶる者は、その代償として、辱めを味わいます。

ペトロも、自分が弱く、ゆるしを必要とする者であることを学ばなければなりませんでした。
ついに仮面がはがされ、信じる者であると同時に罪人である、自分の真の意味での心の弱さを知ったとき、ペトロはひたすら後悔の涙を流しました。
この涙の後、ペトロはようやく自分の使命を果たす準備ができたのです。

 ある春の朝、復活したイエスによって、この使命がペトロに委ねられます。
イエスとの出会いはティベリアス湖畔で行われました。

このときイエスとペトロの間で交わされた対話について述べているのは、福音書記者ヨハネです。そこではきわめて意味深いことば遣いが行われていることに気づきます。

ギリシア語で「フィレオー(愛する)」は友愛を表します。
この愛は優しい愛ですが、完全な愛ではありません。これに対して、「アガパオー(愛する)」は、制約のない、完全で無条件の愛を表します。

 イエスは最初、ペトロにこう尋ねます。「シモン、・・・・わたしを愛しているか(アガパース・メ)」。すなわち、完全かつ無条件に愛しているかと(ヨハネ21・15参照)。

裏切りを経験していなければ、使徒ペトロは、もちろんこう答えたことでしょう。

「わたしはあなたを――無条件に――愛しています(アガパオー・セ)」。

今、ペトロは、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみを知っています。そこで彼は謙遜にこう答えます。

「主よ、わたしはあなたを愛しています(フィロー・セ)」。

すなわち、「わたしはわたしの人間としての貧しい愛をもってあなたを愛しています」。

キリストはなおも尋ねます。
「シモン、わたしが望むこの完全な愛をもってわたしを愛しているか」。

ペトロは、人間としての謙遜な愛をもって愛していますと答えます。

「キュリエ・フィロー・セ」。

すなわち、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

 三度目にイエスはシモンにただこう尋ねます。

「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)」。

シモンは理解しました。イエスにとっては、自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだということを。

にもかかわらずシモンは、主がこのようないいかたをしなければならなかったことを悲しく思いました。それでシモンはこう答えました。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していること(フィロー・セ)を、あなたはよく知っておられます」。

 イエスは、ペトロが自分をイエスに合わせようとした以上に、ご自分をペトロに合わせようとしたように思われます。このように、神がご自分を人に合わせてくださったことが、忠実に従わなかった苦しみを知るこの弟子に希望を与えました。そこから信頼が生まれ、この信頼によって、この弟子は最後までイエスに従うことができました。 

(後略)
【引用終わり 】
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「ペトロの『フィロー・セ』という返答には、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみがある。」

3度目の「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)」という主イエスの問いかけによって、「『自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだ』ということをシモン(ペトロ)は理解した。」


かみ合っていない会話と思っていた会話は
、かみ合わないどころか極めて意味の深い会話だったのである。

こういう感動的な深い解釈があるということに、私は気づかなかった。

「人間としての謙遜な愛」「人間としての貧しい愛」という解釈によって「フィリア」という言葉の味わい深さを感じたような気がした。


「アガペー」の愛は、キリストの教えの根にあるものだけれども「わけへだてなく愛する」という教えに対し、時に困難さをおぼえることは少なくない。

度々、罪をおかす自分の未熟さも実感する。

しかしそういう不完全な貧しい愛(フィリア)であっても、主は受け入れてくださるというところは、キリスト教の良さだろう。


この「二つの愛」という概念は、曖昧な日本人の感覚では理解が難しいところで、キリスト教の宣教においては、ポイントになるところなのかもしれない。

列福式も終わり、2週連続の特別形式ミサも終わって、大きな行事の後の寂しさもあって、昨年末の待降節の黙想会で関心を持った「十字架の聖ヨハネ」について買っていた本を読み始めた。

しかしどうも黙想会の時の話と内容が一致しない。

何かおかしい。変だ変だと思っていたら、なんと私が買った本は「十字架の聖パウロ」についての本で、別の聖人と間違えて買っていた。

とはいえ、こうした買い間違いも不思議な出会いで、十字架の聖パウロが御受難修道会の創立者であることを知った。

「主イエス・キリストの御受難(を想うこと)は、霊的完徳に達する最短の道」
「十字架に釘付けられたイエスの足跡をたどるべきことをしっかりと肝に銘じておきなさい」

という感じの、どちらかというと厳しい話が続く。

十字架の聖パウロは、幼い頃に十字架につけられたイエスの絵の意味について母親に尋ねたとき「神様があなたをとても愛していらっしゃるから、私たちのために苦しみを受け死んでくださった。」という答えを受けた。
その答えによって「神のものに全くなりきってしまいたいという強い願望を生じさせ、自分はいつでもこのこと記憶していた」と語っている。

十字架の聖パウロは「わたしの望みはイエスと共に十字架に釘付けられること」という言葉をしるし、御受難とは現実の全てを見る光として近づく。

「十字架の聖パウロ」は、18世紀の聖人であって教会の歴史のうえではそれほど昔の人ではない。

十字架の聖パウロを魅了した「磔刑のキリストの御絵」だが、最近の新しい教会(聖堂)では、「磔刑のキリスト像」が少しづつ消えていて「復活のキリスト像」になってきている。

このことについて、仲間と話題になったとき、「磔刑のキリスト像の酷たらしい姿を見るだけで拒絶してしまう人がいるかららしい」という話を聞いた。

そういう変化は、教会のながい歴史の中でも近年というか現在になってからの変化で、かつその変化の大きさというのは、とても大きな変化であるということを感じた。
「磔刑のキリスト像」を「復活のキリスト像」に変えていくというのもアジョルナメント(現代化)の一つなのだろうか?


ところで、少しここで話が逸れてしまうが、「十字架の聖パウロ」で、ネット検索を続けていたら「聖パウロ」繋がり検索結果で、予期せぬホームページに出会えた。

教会関係ではちょっと珍しい(?)おしゃれで美しい魅力的なホームページで、話題にイマドキ感があって見て読んで楽しくおもしろい。

管理人の聖パウロ修道院の修道士TomaPさんの素直でやさしい人柄も伝わってくる。
http://www.tomap.info/

良いホームページだと思った。

上記の「磔刑のキリスト像」のような話や、典礼についてのことでは疑問に思うアジョルナメントも、TomaPさんのイマドキのおしゃれなHPを見て、宣教においては重要で必要なことのようにも思う。

アジョルナメントが必要なところが、現在の日本の教会は少しズレているのかもしれない。

中川神父の黙想会の日に、帰路でまた何冊か本を購入してしまった。

書棚の空きが無いし、未読の本が溜まってしまっているので購入は控えていたのだけれども、 河原町教会は、敷地の横にキリスト教専門書店のサンパウロがある。
講話を聞いていろいろ関心が高まっている心理状態では、立ち寄れば買わないでいることのほうが難しかった。
 
購入した本の一冊は「聖人たちの祈り」という薄く小さい300円の中綴じの冊子で、46人の聖人の祈りが載っている祈祷書のような本である。 

「お祈り」が載っているだけで出典の記載や背景の解説が無いのだが、「聖人たちがどのように祈ってきたのか」ということに関心が向いたし、値段がお手頃なのが良かった。


おそらく日記か何かで残された文章から、引用されたものもあるのではないだろうか?
ありのままに綴られた文章で、創られた祈りという感じがしない。

心のままの心情吐露のような文章で、どちらかといえば詩集のようでもある。

特にアヴィラの聖テレジアと聖トマス・アクィナスが印象に残った。

 アヴィラの聖テレジアの祈りは以下の内容になる。

(以下引用)

私の神よ、今、このときまったく自由に、何の留保もなく私の意志をあなたにお献げいたします。

主よ、残念なことに私の意志はいつもみ旨にかなうとは限らないのです。

私が真理を愛するようあなたはお望みです。それなのに、しばしば虚偽を愛してしまうのです。

私が永遠を愛するようにあなたはお望みです。それなのに過ぎ去るもので満足してしまうのです。

私が偉大なものに憧れるようにあなたはお望みです。それなのに取るに足らないものに執着してしまうのです。

主よ、私が心苦しく思うのは、あなたがすべてを超えて愛しているか否かを確実に知るすべがないことです。

私をあらゆる悪より常にお救いください。
み旨が私の内で行われますように。
主よ、あなただけが私の全てであってください。

(引用終わり)

アヴィラの聖テレジアのような、大聖人であっても罪の自覚におののき悩まされている心模様に驚く。

アヴィラの聖テレジアだけではない。
「神学大全」著者の聖トマス・アクィナスも同様に「私を見捨てないでください」と心のままに祈っているのである。


河原町のサンパウロでいっしょに買った「存在の根を探して」という中川神父の本も同時に読み進めているのだが、 この人間の罪の自覚については、創世記のアダムとイブの失楽園の話を題材に説明している。

中川神父は、失楽園の話を「恐らく人間の内面の最も深みにおいて密やかに繰り広げられる出来事で、人間への根深い誘惑と、それによって人間が本来のあり方からずれていく様子が描かれています」とし、「蛇」という「誘惑者」の存在に対して「生きたペルソナ的な力を持った存在であることを教会は経験してきた。」と述べていた。

この「教会は経験してきた。」という箇所は、まさにアヴィラの聖テレジアや聖トマス・アクィナスが祈りで表現せずにはおられなかったという事を指すようで、ピッタリと当てはまるような感じがする。

の恐ろしさは、実は外面的な怖さを持つものだけではなく、囁き声で惑わす「誘惑者」でもあって、退けるためには心のままに祈ることが必要だという事を、やはり聖人から学べるような感じがした。

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