カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:人間を考える > 心はどこにある?

2045年問題、あるいはシンギュラリティという言葉が話題になっている。
人工知能(AI)が人間の知能を超えるというのが2045年らしい。
確かに、チェスや将棋の勝負では、名人でもコンピュータに負け始めているというニュースを耳にしたような気がするし、自動車の自動運転技術についての話題も増えた。

自動運転については、今年の秋にも高速道路でトラックによる社会実験があるらしい。
宅急便のヤマト運輸がAmazonの配送量の増加で業務オーバーになっているという直近の問題をふまえれば、自動化に適する高速道路での長距離輸送は自動運転に任せて、宅配の方に人員をシフトしていくというような事は思っている以上に早く進むような気もする。

医療の世界も劇的に変わると言われている。
外科手術のような職人的な技が活きる部分はともかくとして、診察などではビッグデータにつながることで大幅に診療の精度が高まることが期待されている。

AIに判断してもらった方が正確で正しい、あるいは効率も良く生産性も高いとなれば、いままで人間が担ってきた多くの仕事がAIへ移行していくことは避けることはできないような気もして、社会が根底から変わる予感がする。

裁判官のような法曹関係の仕事も、判例がビッグデータ化されることで、AI化が可能という説もある。

いくらビッグデータ化されても、それは無理だろうと思ったら、IBMのワトソンというAIは、ディープラーニングという手法で、インプットされた情報を自ら解析して判断を下すということを繰り返しながら、その経験の蓄積によって「学ぶ」らしい。

AIが、自ら学んで人間の知能を超えたとされたとき、はたしてAIのワトソンは、意思を持っているのか?意識があるのか?愛がわかるのか?心を持つのか?というところは気になるところだ。

「愛とはなんですか?あなたは愛を持ってますか?」とワトソンに問いかけたとき、なんと答えるのだろう。

やはり「わかりません。私にはありません」と答えるのか。

それとも、予想もしない答えをするのか?


スピルバーグの「A.I」という映画や「アンドリューndr114」「アイ,ロボット」といった、
心を持つ
AI(人型ロボット)を描いたSF映画は既にある。
どれも面白そうな映画だが、人間自身が「心はどこにあるのか?」という心脳問題に決着がつけられない(おそらく永遠に決着しない)なかで、先走って「AIも心を持つ」と結論づけているような気もする。

神の被造物である人間ですら 「塵にすぎないお前は塵に返る(創世記3章)という儚い存在であって、 その人間が創ったAIなのだから、いくら桁違いの知能を持つ存在となっても、やっぱり「心」は持てないじゃないかと、私はなんとなく思ってしまうが、果たしてAIのワトソン君はなんと答えるのだろうか?


「悪魔は一生に1〜2度ではなく、一日に何回も訪れる。」ということを晴佐久神父が「福音の村」ブログで言われていた記憶があります。

悪魔はグロテスクな化物の姿で描かれる場合が多くて、もうこれは脳にビジュアルイメージが刷り込まれてしまっていますが、もし晴佐久神父が言われるように毎日現れているのだとすると、化物の姿というのは無理があります。

マタイ福音書第4章に登場する悪魔も「誘惑者」としての存在。

むしろ化物のビジュアルイメージを払拭したほうが、悪魔の存在をリアルに感じる事ができるのかもしれません。

ファウストの前に現れた悪魔メフェストフェレスは「魂をもらう代わりに、この世の人生での願いをかなえる」という条件をだします。

毎日我々の前に現れる「悪魔??」は、そこまでドラマティックな条件をだしてきてはいないような・・・

いくらなんでも「まるごと魂をくれ」と要求されたらお断り。

しかし悪魔のささやきによって、門前のラザロを見棄てるような事はゴマンとしてきたような気がします。

そもそもいったい悪魔とは何なのか?

利他的な心の対極。動物的で利己的な自己防衛本能や生存本能でしょうか?

利己的遺伝子という見方があるようです。

利己的遺伝子に常に行動が支配されていくとするならば、魂が薄まるような、神から離れていくような感じがする。

「悪魔と取引をして魂を失う」というのは案外リアリティがあるようにも思います。

一度に失うのではなく、少しづつ削り取るように魂が失われていくとしたら怖いですね。

前々回「クオリア」の話に絡んで

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」(マルコ福音書第5章)

という箇所を例にあげました。

少し控えめな感じが日本人的で、心のDNAというか琴線に触れる感じがしますが、マルコ福音書第5章のこの箇所に、私はとても共感します。

人生を振り返れば、自分も同じような心境になったことが、何回もあるからです。

自分の力ではどうしようもない時。必死で神様を求める。

聖書では、触れた瞬間に、 「病気が治ったと感じ」そしてキリストも「私の服に触れたのはだれか」と気づきます。

苦しむ人が「気づいてもらった」ことによって苦しみから解放される。

奇跡とは「感じる」「気づく」ことで奇跡とわかるということなのかもしれません。

「気づく」という意味では「エマオの晩餐」も 「二人の目が開きそれがイエズスであったと悟った」(ルカ福音書24章)という記述なので、やはり「気づき」です。

エマオの晩餐


「しるしに気づく」ということが、クオリアの作用と考えるならば、ミサに荘厳さを望んだり、神秘的なところに気持ちが引っぱられるのも「しるしに気づきたい」気持ちのあらわれなのかもしれません。

はたして私に「しるしに気づく」クオリアがあるのか?

いやあるはずなのだが、「『しるしに気づく』クオリアが私にもある」ということに気づいていないのか???

「神様を感じる」ということに少し信仰の重心があるのも、少しアニミズム的というか、これまた日本人的な宗教観なのでしょうか?

なんだか自分でもよくわかりませんが、最近、私の興味関心はこのことになってきました・・・

クオリアについては、茂木健一郎さんが既にいろいろ書かれていて、世間での関心事に、いま私も巻き込まれたということがわかりました。

「体と心」「脳と心」の話は「心脳問題」というみたいですが、やはり面白い!

ハマってしまうと本を何冊も買いたくなってしまうので出費的には危険な興味です(笑)

素人向けに比較的わかりやすい本を書かれている茂木さんの本ですら一冊も読んでいないなかで、全く知見もないのに、クオリアについてブログでテーマアップしてしまった・・・
観てもいない映画の感想を述べるような暴挙をしてしまっていますが、個人の日記のブログということで、どうぞ許してください(汗)

「心脳問題」で面白いと思うポイントは、「心は脳が生み出している」という説と「脳の器官の中に【自己意識の座】【意識の中枢】【思惟の主体】【情動の主体】つまり心が見つからない」という対極の説が、結論づけられないために並立しているところです。

やはり「心とは何か?」ということを解明しようとすることは大変難しいということなのでしょう。

それでも、いまこうしてブログを書いている「私」があり「心」があります。
ただし「心」が何なのか、どこにあるのかがわからない。

クオリアが面白いと思ったのは「質感」という表現で説明されたりするから「可視世界と自己意識の中枢である心の世界」をつなぐ接点のようなイメージがあるからなんでしょうね。

「心の世界へのドアのノブ」みたいな感じでしょうか?
(妄想をふくらませて果たしてこんなことまでイメージで語って良いのやら・・・)

もう少し具体的にクオリアをイメージしてみます。
例えば運動会でグランドにちらばった児童のなかから、我が子を探し当てたときの瞬間というのはどうか。
自分にとって意味をもたない情報の識別は大変苦労しますが「我が子の顔」は選別抽出できたりするんです。
見つかった瞬間の「いたあー!」と嬉しくなるような感覚。もしかしてそういう感じも「クオリア」?

それとも「質感」というぐらいだから、「触覚」で考えたほうがわかりやすいだろうか?

そういうことでは、聖書では「触れる」話がけっこう多く書かれているような。

前回引用のヨハネ福音書20章は、まさに「神に触れる」話でした。
傷跡に触れた瞬間、トマスは「我が主よ我が神よ」とキリストを賛美します。
トマスは何を感じたのでしょうか?
事実の確証を得るというだけではない「神に触れる」神秘さを感じます。
このヨハネ福音書20章には有名な「ノリ・メ・タンゲレ( 我に触れるな)」という箇所もありますが、バルバロ訳では「私を引き止めるな」になってますね。

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」「私の服に触れたのはだれか?」(マルコ福音書第5章)というのもあります。

もしかして聖書は「触れる」クオリアだらけ???

バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画「天地創造」も人祖アダムが神に触れようとする瞬間が描かれているんですよね。これはもう緊張感に溢れてます。

God2-Sistine_Chapel


カトリックのミサではどうか。

聖体奉挙で司祭が「聖体」に触れます。

聖体拝領で「聖体」を食べます。

聖体奉挙や聖体拝領を、視覚情報、触覚情報として脳で認識するだけじゃなくて、クオリア(質感)を感じて、【自己意識の座】【意識の中枢】【思惟の主体】【情動の主体】に届いているか?という事を意識する事がとても重要に感じてきました。

霊魂を信じることを前提にするならば、つまり脳に心はないのだから、視覚情報として脳で認識するだけでは心に届いていないわけです。

トリエント・ミサは、ラテン語なので難しいとされてますが(もちろんラテン語は難しいですが)「重要さを所作でわかりやすく示している」という見方もできます。

わかりやすさという点ではベネディクションも然りです。

聖体奉挙のときに跪くのも然りです。

聖体拝領のときに口で直接いただくのも然りです。
仮に手で拝領するならば、「神」に触れるという意識を持ち、おしいただく謙虚さをもってその感覚、クオリアを体感したほうが良いと思う。

そもそも「荘厳さ」というものが、クオリアを強める高めるためのものであったという事を理解しました。

私が「バンドミサで離れ、トリエントミサで立帰った」理由を、今ようやく納得した。

クオリアの話がなんか局部的な事象に集中してしまいました・・・・

ところで
「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」

ってここの箇所いいですね。ほんとにいい・・・

クオリアという言葉を最近になって知りました。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えると、意識として何らかの質感が経験される。その質感のことをクオリアと呼ぶらしい。
例えば「赤」という光の波長を「赤いという色」として感じる感覚みたいな・・・
ただ外部からの刺激(情報)を客観的な情報として認知する感覚というだけでなく、その認知に伴う主観的な情動の動きはたらきを含めるニュアンスがありそうで、「クオリア」とは何かということが、科学と哲学の両面でテーマになっているようです。

「認知」の状態から「意識」や「心」というものを探り考えるときに「クオリア」は鍵となる言葉になります。

Wikipediaで「クオリア」の意味を調べましたが、難しくてわかったようなわからないような感じで、はたして私の教養や知見で理解することができるのかというのはあるのですが、ただ私の場合、信仰というものがかなり感覚的なので、クオリアという言葉がどうしても非常に気になってくるわけです。

「クオリア」という言葉はアウグスティヌスの著作「神の国」にもでてくるらしい。

先日の復活節第二主日の福音書朗読はヨハネ福音書20節でした。

「私はその手に釘の跡を見、私の指をその釘の跡に入れ、私の手をその脇に入れるまで信じない」

「あなたの指をここに出して私の手を見なさい・・・」

「あなたは私を見たから信じたが私を見ずに信じる人は幸いである」

という聖書のなかでも有名な箇所ですが「クオリア」の概念を頭に入れて読み返すととても含みのある文章に感じてきます。


立花隆さんの「臨死体験」を読んでから「心はどこにある?」ということが気になっていますが、「クオリア」というものに対する好奇心もまた、その関連のなかにあります。

こんなことをアレコレ考えていたら(アレコレ考えてもしかたないんですが・・・)慶応大学の前野隆司教授という方が「脳はなぜ心を作ったのか?」「脳の中の私はなぜ見つからないのか?」という本を書かれているという話を聞きました。

この本はストレートに「自己意識の座」というか「情動の主体」というか「クオリア」が関係してきます。

前野教授は、キャノンでヒューマンロボット研究をしていくなかで脳と心の構造に興味を持ったという非常にユニークな脳研究者。

にわか読書で果たしてどこまで理解できるのかというのはありますが、おそらく「脳の働き(脳の部位)に心が見つからない」という内容であれば、そこのところまではおそらく共感できるような気がします。

ただし「意識は幻想であり、無数の知覚情報を事後的に承認し、それを記憶として保持する際に生起している感覚でしかない」という話になってくるらしく、もうそうなるともう宗教観の違いが明らかになってくる。

私は「意識は幻想」と断定してしまうと、説明できないつじつまが合わないということが多くでてくるような気がします。

ひとこと「霊魂」という言葉をおけば「幻想」ではなくなるのに・・・と思ったり。

しかし極端な主張であるがゆえに、問題提起になってます。

子供のような素直さで「しるし」を見たい気持ちもまた、神を求める情熱の現れのようにも思いますが脳研究者の「心」というものを解明しようという気持ちもまた「しるし」を求める気持ちなんでしょうか?

はたして本当に「心」は幻想なんでしょうか?

クオリアっていったい何なんだ???どこにある???

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