カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > カトリックの典礼

復活祭の後の23日の主日ミサは、東京に用事があって上京していたので、四谷の若葉修道院でのUVJが関わる特別形式ミサに久しぶりに与った。

しばらくご無沙汰になっているうちに、ミサに与る人が、また少し若くなっているような気がする。

ネットで告知している効果だと思うが、トリエントミサを経験してみたいと思う人が少しづつ増えていることは素直に喜ばしいことだと思った。

もしトリエントミサの魅力に魅せられたならば、その体験を契機に、よかったら伝統のミサの保護促進を目的とするUVJの運営に参加してもらえたらさらに嬉しい。

かつて「ミサに対する信徒の能動的で意識的な参加」ということが、よく言われて時期があった。
そのときの説明では「昔のミサは、会衆に対し司祭が背中を向けて・・・」
というトリエントミサを否定するネガティブな印象操作的発言が頻繁にされていたことが記憶にある。

実際には、特別形式ミサ(トリエントミサ)は何かと人手が必要になる。

侍者は標準で6名必要。
オルガン、聖歌の係も必要。ミサ前のロザリオの先唱もある。
祭壇まわりのセッティングでも、通常形式から特別形式に変える準備がいろいろ多い
ロウソクも蜜蝋のためメンテがいるし香炉の準備もある。

なかなか忙しい。

しかし、この準備やセッティングで学べることも多い。

バチカンの指針「あがないの秘跡」で言われた「能動的で意識的な参加」の真意は、なにも、珍奇な聖歌を創作したり、何かミサに新しい要素を盛り込むというようなことではなく、受け継がれてきた典礼の意味を細部にわたって学び、その意味を深く知ることではないだろうか?

日本で特別形式ミサに与れるのは、本当に偶然と言ってもいいことで、そこで典礼を学べる幸せがあり、その幸せを共有しているという自覚が、UVJメンバーのモラール(士気)の源泉になっている感じがする。


先日の30日は、2週連続して所属小教区のミサを留守にしてしまうことになったが、いつもとは違うところのミサに与った。

全く想定していなかったのだが、関西方面の小教区ではほとんど滅多にない天使ミサ(カトリック聖歌503番のグレゴリオ聖歌によるミサ)だったので、あまりの偶然に驚いてしまった。
2週連続でラテン語ミサ、しかもそのうち一回は関西で与れたということに、なんとも言えない充実感がある。

場所を書かないのはブログを読んでくださる方には申し訳ないのだけれども、関西、特に大阪教区では、グレゴリオ聖歌排除を公言する聖職者もいてグレゴリオ聖歌を疎んじる風土があり、変な横槍が入って迷惑がかかってはいけないので申し訳ないけれども控えたいと思う。

説教は、エマオへの道、晩餐をテーマに「主に気づいていない弟子たちのほうへ、キリストの方から歩み寄ってきた。」という見方から、弟子たちの存在を私たちに置き換えて考えるという中身の深い濃い話だった。
何回か反芻しているのだが、メモ用紙を持ってくることを忘れてメモをとれなかったのが、ちょっと失敗だった。

しかしこういう場所が、まだ関西にあることを幸せに思う。

私自身、「何を求めているのか?」「何処に行こうとしているのか?」というのは、まだまだ曖昧な旅路ではあるけど、一歩一歩、歩いていくうちに、私の求めた聖域のようなところが一つ二つと見つかり始めた手応え、幸せを、神様の与えてくださったお恵みとして、ぼんやり想った。

前々回掲載した、ヴァチカンの典礼秘跡省長官であるサラ枢機卿のメッセージについて、新しいニュースがでていることを友人から教えてもらったので、ブログにアップしたい。

日本のカトリック教会が、サラ枢機卿のメッセージをどのように受け止めているかは全くわからない。

しかし海外では、目に見える動きが起きているということを、少しでも多くの日本のカトリック信者に知ってもらいたいと思う。

https://www.lifesitenews.com/blogs/dismissing-cardinal-sarahs-advice-imagine-if-the-laity-did-it 



July 21, 2016 (LifeSiteNews) – Cardinal Robert Sarah’s encouragement of priests to face the tabernacle with the faithful during Mass and for the faithful to receive Holy Communion kneeling created quite the stir! The Vatican, which is famous for silence or ‘reacting in centuries’ in the face of some of the most severe scandals even concerning Cardinals, this time reacted with lightning speed.
The very next business day after Cardinal Sarah returned from his trip where he made his suggestion for traditional worship, Vatican spokesman Fr. Federico Lombardi put out a press release. The day after that the US Bishops Conference put out their own release referring to the Vatican telling priests, there is no “new mandate for the celebrant to face away from the assembly.”
Cardinal Sarah never said it was mandated mind you. He asked humbly for his brother priests and bishops to implement the practice, suggesting Nov. 27 – the first Sunday of Advent – as a possible start date. He didn’t insist on it, even though he is the Church’s chief liturgist.
Imagine if Catholics only did what we were mandated to do in the Church. How much poorer a church would we be if Catholics only attended Mass on Sundays, which is the minimum mandate? What if we only went to confession once a year as we’re mandated? What if we only received Holy Communion once a year during the Easter season?
There would be no one to flip pancakes and cook the bacon and sausages at those Church breakfasts, because there’s no mandate for that. Hey, there would be no breakfasts or church suppers at all!  No fundraisers for the poor, no potlucks to benefit children’s charities and hospitals. There would be no Knights of Columbus or Catholic Women’s groups.  The good ladies who volunteer with bake sales and taking care of vestments would vanish. Forget the prayer groups, the soup kitchens, the Catechism classes, and even Catholic schools.                                              No one is mandated to become a priest – so of course that would become a thing of the past.
We are all called to do things beyond what is mandated.  We are called to be generous with Our Lord. So as we the faithful pledge to be generous with our gifts and talents in the service of the Church despite the stigma the world attaches to that, courageous priests and bishops have done the same and are willing to sacrifice the admiration of the world to honour Our Lord.
It’s up to the faithful to encourage their own priests and bishops to adopt Cardinal Sarah’s suggestions for liturgy.  Some of their own brother priests and bishops who prefer the 1970s-style liturgy will likely look down on them for taking the step.   But we can encourage them with the words of the head of the Church’s congregation in charge of liturgy. Cardinal Sarah said this practice should be implemented with “a pastor’s confidence that this is something good for the Church, something good for our people.”
 “Dear Fathers,” he said, “we should listen again to the lament of God proclaimed by the prophet Jeremiah: “they have turned their back to me” (2:27). Let us turn again towards the Lord!”
One Bishop in France has already accepted Cardinal Sarah’s challenge.
French Bishop Dominique Rey of the diocese of Frejus-Toulon announced that he would celebrate Mass “ad orientem” at the last Sunday of Advent “and on other occasions where appropriate.” “Before Advent,” he added, “I shall address a letter to my priests and people on this question to explain my action. I shall encourage them to follow my example.”
May God bless you Bishop Rey! And may God bless all of you!


サラ枢機卿のアドバイスは反故 ― 仮に信者がそうしたらと想像して
2016年7月21日(LifeSiteNews)- ロベール・サラ枢機卿が推奨した、ミサ中に司祭が信者と共にご聖櫃に向かうこと、そして信者が聖体拝領でひざまずくことへの奨励は、大きな覚醒を呼び起こしました。通常バチカンは、枢機卿のシビアなスキャンダルには沈黙するか、もしくは‘幾世紀をかける’対応ぶりですが、今回は電光石火の対処でした。
サラ枢機卿が伝統的ミサ提言の会議から戻ったまさにその翌日、バチカン広報局委員Federico Lombardi司祭は公式に声明を発表しました。また後日US司教協議会は、バチカンの司祭への指導に言及し、「司式司祭が会衆に背を向ける新しい義務」はないと、独自の発表を行いました。
しかしサラ枢機卿は決してあなた方に義務を課すとは述べられませんでした。彼は謙遜のうちに、兄弟の司教司祭に、可能であれば待降節の最初の日曜、11月27日に訓練実行を始めることを奨めたのです。サラ枢機卿は典礼秘跡庁長官ではありますが、東向きのミサに固執しているのではありません。
もしカトリック信者が教会で義務だけを行なえば、と想像してみてください。もし信者が最小限の義務である日曜のミサだけに与かるならば、教会はどれほど貧しいものとなるでしょう。もし義務通り、年一度だけ赦しの秘跡を受けたら? また年一度の復活祭だけに聖体拝領したなら?
そうです。教会には、朝食用パンケーキやベーコン、ソーセージを調理するために信者がいるのではありません。なぜならそれが義務ではないからです。教会には朝食も夕食もなく、貧しい人への資金集めも、子供のための慈善事業も、病院への持ち寄り料理もなく、コロンブスの騎士会やカトリック婦人会もありません。もし義務であるなら、ボランティアでケーキを焼いて販売し、祭服に気を使う善良な婦人たちはいなくなってしまうでしょう。祈りのグループ、食糧配給、要理クラス、教会学校さえも義務ではありません。
司祭になることが誰の義務でもないのと同様に、今回のことも、義務ではないのですから、いずれ過去のものになるでしょう。
では私たちは何を義務として呼ばれているのでしょうか。それは主と共にある寛容です。教会での奉仕において、各々の才能をもって寛容にそれらを執り行う約束をしているのですから、世界の方向性を見極めれば、勇気ある司教司祭は枢機卿の奨めに従い、主の栄光を讃えるために、聖痕を受けるがごとく喜んで、自分への称賛を犠牲にすることでしょう。
司教司祭たちがサラ枢機卿に従うことを提案するのは信仰深い人々次第です。が、彼ら自身の兄弟である司教司祭は、1970年以降のスタイルを好み、東向きのミサを見下ろす一歩を踏み出そうとしています。
しかし彼らを勇気付けるのもまた、典礼秘跡庁長官サラ枢機卿が司教司祭に向けた次の言葉です。
「この訓練は、司牧者の自信と信頼、教会と信者の向上と共にあるよう実施されるべきです。
親愛なる父たちよ。我々は神が預言者エレミヤに示された嘆きをもう一度聴かねばなりません。
“彼らは私に背を向けた。(エレミヤ2・:27)。”  さあ、もう一度主に向き直りましょう!」

フランスの司教はサラ枢機卿の提言を既に受け入れました。
フランスFrejus-Toulon教区のDominique Rey司教は、東向きのミサを待降節の最後の日曜、また他の適切な機会にも祝うことを告知して、このように付け加えました。「待降節前に、私は教区の司祭と信者に、私の行動について説明する手紙を書き、私に付き従うよう勧めます。」 
神がRey司教を、そしてあなたがたすべてを祝福してくださいますように!

バチカン典礼秘跡省の長官であるサラ枢機卿が、典礼について重要かつ重大なメッセージを出された事が、世界で話題となっている。
NewsCatholic Churchにあった記事の訳文を、友人からいただいたので紹介したい。

https://www.lifesitenews.com/news/vatican-liturgy-chief-asks-all-priests-and-bishops-to-face-east-for-mass-fa

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【以下訳文】

バチカンの典礼長官は、ミサにおいて全ての司教司祭が東方に向くこと、信者が聖体拝領でひざまずくことを求める。

ロンドン2016年7月5日付LifeSiteNews – 昨日ロンドンでの典礼会議演説で、教皇フランシスコ下カトリック教会最高権威の一人であるRobert Sarah枢機卿が、すべての司教司祭に、ミサ聖祭で会衆に向かうより、ご聖櫃に向かう古来の姿勢に適応していくよう呼びかけ、それが今年11月27日に始まる待降節までに実施されるよう要請した。彼は話の中で教皇フランシスコが、バチカンの典礼長官である彼に、「典礼に関してベネディクト16世が始めた働きを続行すること」を求めたと明らかにした。

その告知は直ちにCatholic Herald deputy編集者Dan Hitchensに、「これは2007年に発布されたベネディクト16世名誉教皇の自発教令Summorum Pontificumで司祭に与えられた、伝統的ラテン語ミサを祝う大いなる自由以来の、さらなる偉大な告知である。」と絶賛された。

バチカン研究家は特に、リベラル派と多々みなされる教皇フランシスコ自らが典礼において、より伝統に近づくよう奨励したことに驚いているが、Sarah枢機卿は「われらの聖なる父である教皇聖下は、ベネディクト名誉教皇の典礼における洞察と方策に、最大の敬意を抱いておられるのです。」と述べた。

会議に出席していたフランスFrejus-Toulon教区のDominique Rey司教は、Sarah枢機卿の要請を躊躇なく受け入れ、少なくとも待降節までに彼の教区で変更を実施すると明言し、Sarah枢機卿に、「貴殿の要請に応え、私は今、私の教区教会で必ずこの待降節最終主日に、また他の適切な機会においても、そこにまします主に向かって聖体祭儀を挙げることを約束したい。」と申し入れ、「待降節前に教区の司祭たちに手紙を書き、私の計画を説き、つき従うよう奨励いたします。」と付け加えた。

Sarah枢機卿は、敬虔かつ神に栄光を帰する典礼祭儀に感謝を表しながらもこのように嘆いた。「この数十年、教会では多くの典礼の破壊が起こりました。そこでは神を除外するかのように人間の個性や地位が高められています。」
Sarah司教は人々の理解を深めるために彼のアフリカの伝統を用いた。「私はアフリカ人ですが、はっきり申しますと、典礼は私の文化を推進する場所ではなく、むしろ私の文化が洗礼を受け、神へ導かれる場所でした。」

Sarah枢機卿は、第二バチカン公会議の父たちが、信心深い者をより多くミサに呼ぶために典礼を刷新する必要があったと示したが、殆どの努力は失敗に終わったと言う。「兄弟姉妹の皆さん、どこに公会議の父たちが話した信心深い者がいますか。」

枢機卿は続けた。「敬虔な者は今や不敬虔に陥り、典礼に来ない信者もいます。ヨハネ・パウロ2世の言葉を借りれば、多くのキリスト者は『静かな背教』のうちにあり、『神が存在しないかのように生きています。』(2003年6月28日欧州の使徒的勧告)。一体どこに公会議が勝ち取ると望んだ一致があるのでしょうか?そこにはまだ届いていません。我々は、人間全体が教会の家族と呼べる真の進歩を成し遂げたでしょうか?いいえ、逆に我々は典礼を損なってしまいました。」

彼は、『今日教会の至る所に見られる典礼の破壊』に『深い悲しみ』を表し、「ご聖体の余りある偉大さは、その解釈の曖昧さや価値の軽視を許すための贈り物ではありません。」と提議した。

彼の述べる破壊の一つは、司祭たちが「奉仕者にご聖体を配らせるために脇に寄る」その時である。司祭にとってそれはミサに与る平信徒に実質許可されていると考えられている。しかし、とSarah枢機卿は言う。「それは寧ろ間違いです。それは司祭職の否定と同時に平信徒の聖職者化を擁しているからであります。」
「形成は大変誤った方向に向かっており、それを正す必要があります。」彼は付け加えた。

彼は伝統的ラテン語ミサの寛大な受け入れと、ベネディクト16世が予てから提唱する伝統ミサの実施を奨励した。ラテン語の使用、聖体拝領でのひざまずき、グレゴリオ聖歌も然り。「我々は、単に宗教的ではなく、まして俗歌ではなく、神聖なミサ曲を歌うべきです。公会議は、ローマ式典礼が、各自国語のみで行われることを意図したのでは決してあらず、朗読において特に自国語の使用を増やせるよう取り計らったのです。」と彼は言った。

聖体拝領のひざまずきについて、バチカンの典礼長官である彼は司祭たちに、信心深い人々の拝領時のひざまずきを否定してはならないことを再認識させ、さらに信者には可能な場所ではひざまずいて聖体を受けることを奨励している。「病気でないのであれば、聖変化でのひざまずきは必須であります。西側では、それは神のみ前に我々を低くする身体的礼拝行為であり、それ自体が祈りの行動です。ひざまずきと片ひざまずきが典礼から消えてしまった場所では、特に聖体拝領で、祝された我らの主を受ける際に、それらが復興される必要があります。」

彼は話の中で長時間にわたり、司教司祭たちを「東方」に向かわせ、人々が我らの主に向かうミサに招くことに専心した。ここに鍵となる引用を置く:
「私が典礼秘跡省長官として勤めているにせよ、ひざまずきが教会のあらゆる場所で、熟考と内省、学識の向上、良い典礼の実施を促進させるという望みをもって、司教司祭としての謙遜のうちに私は主のみ前にひざまずきます。」
「全司祭に要請します・・・可及的速やかに、典礼式で我々が神に呼びかける際に、司祭と信者が共に同じ方向、東方、少なくとも主のまします祭壇の後ろに向かう共通の姿勢に戻ること。これが大変重要であると私は信じています。」
「そしてまた、親愛なる司祭たちよ、あなた方の注意深い教理指導をもって、それが教会と人々にとって良いものだと信頼した上で、可能である限り何処でもこの行いを実施することを求めます。」
「あなた方司祭の裁量で、いつどのように実施するか決定できますが、この待降節の第一主日に始めること・・・が時期的には良いでしょう。親愛なる司祭たちよ、我々は再度、神の嘆きであるエレミヤの預言、「彼らは私に背を向けた(エレミヤ2:27)。」を聞くべきです。さあ、もう一度、主に向かいましょう!」

「そして司教兄弟たち、あなたの司祭と信者を、教区教会で、特に大祝日において主に向かうよう導いてください。どうか神学生たちにも、我々が司祭職に招かれているのは、我々自身が典礼の中央にいるためではなく、信者たちを自分と同じキリスト者の仲間として神に導くためであると動機づけてください。どうかこの単純な、しかし深遠な改編を、あなた方の教区教会において、教区民と神学生で手助けしてくださいますように。」

Sarah枢機卿はご聖体に関する司祭の重責を終始強調した。「司教司祭は、重大な責任を担っています。我々の良い見本が、どれほど良い典礼を造り上げ、逆に我々の不注意や間違いが、どれほど教会と神聖な典礼を損なうことでしょうか。」
彼は司祭仲間に警告した。「典礼における怠慢の誘惑に気をつけましょう。なぜならそれは悪魔の誘惑だからです。」

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解釈の余地のない明瞭な指針をバチカンの典礼秘跡省長官が出されたことに感謝したい。

日本のカトリック教会が、フランシスコ教皇とサラ枢機卿の意向を誠実に受け、正しい典礼への刷新がなされるように願う。


若葉修道院のUVJの特別形式ミサ(トリエント・ミサ)に与り始めたころ、ミサ後の懇親会で「どうして特別形式ミサに与ろうと思ったの?」と尋ねられ、「好奇心からです」と返答をしてしまった事があった。

特別形式ミサの希少性を思えば仕方がないのだが、あまりにも素直すぎる返答だったかもしれない。

しかし「一度体験したから、もうそれで充分」とはならなかったのは、一度与っただけではわからなかったことが、あまりにも多かったからなのだろう。

同時にまた、当時の所属小教区教会の刷新系のミサに、心の奥底では満たされない気持ちがくすぶり続けていたから、東京に上京する機会を利用しながら、若葉修道院のミサに度々与ったことで、なんとなく深みに嵌ってしまった。


特別形式ミサの持つ、ラテン語典礼の荘厳さ豊かさというものに惹きつけられるというのは確かにある。

しかしそれだけが理由ではない感じがしている。


所作によって、祈りの深さを感じる構造になっているような感じがする。

例えば
DOMINE,non sum dignus,ut intres sub tectum meum sed tantum dic verbo,et sanabitur anima mea.

という聖体拝領の直前の祈りの時。

跪きながら我が身を小さく屈め胸を叩くとき
、ご聖体を前にして、もう子供のように主に縋りつくしかないと思っている私がいる。

年齢と共に抱え込む重荷が益々重たくなっていて、悩みが深くなってきている。
自分の限界もわかってきた。
もうミサに全面的に依存したい。
当たり前のことかもしれないが、悩みが深ければ深いほど、
ミサが必要になってきているのである。

特別形式ミサは、悩める中年男性が、憚ることなく我が身を小さく屈めることで、貧しい素直な心になれるわかり易いミサなのかもしれない。

存在し得ないミサになるが、もしかしたらラテン語ではなく日本語(文語)で、同じ形式のミサがあったとしても、特別形式ミサらしい良さというのはかなり体感できるのかもしれない。

所作によって言葉の深さを体感するミサであり、言葉に対する感性が鈍ってしまっている時には、通常形式よりもやはり心に残る。

毎週日曜日に、淡々と時間が経過するような感覚でミサに与っていては、教会に行く意味が薄れてしまう。

「どうしてミサに与るのか?」 自問自答は続いている。

前々回の「跪くということ」という記事でもコメント欄で話題となったが、日本のカトリック教会のミサについて定める「ローマ・ミサ典礼の総則」の新しい改訂版に基づく「変更箇所」が、本年12月待降節から実施されることとなった。

このところ、その内容がずっと気になっている。

気になる「変更箇所」というのは「諸民族の特性と伝統への適応に関する基準」による「日本における適応」の部分で、要は一言で言えば「ミサ中の跪きの廃止」の説明・・・

総則の本文ではないが、付帯の説明において「・・・聖別のとき、ひざまずくのではなく立ったまま・・・」と明瞭に書かれている。

いったいぜんたい、なにゆえに、日本の司教団は、「跪きを排除」ることに、かくもこだわり続けるのだろうか・・・その理由が私には全くわからない。

「跪く人」のほうがこだわっているというのはわかる。
というのは、おそらく、現時点での多くの日本の教会のミサでは、跪いている人は極めて少数だと思われるからだ。(名古屋の某教会の夜ミサで皆が跪いていたのを見たことがあるが、レアケースだろう。)

私がミサに与っている教会でも「聖変化」で跪く人は、私を含め3人ぐらいまで・・・
周辺の教会も一人いるかいないか。

ある意味、さして影響力もない意固地で偏屈で絶滅危惧品種のような変わり者(私のこと) など、ほっといてくれればいいようなものだが、司教団はそれでは収まらないようだ。

そういう少数の信徒を狙い打ちするような「変更」をあえて加える・・・

司教団のほうも「日本の教会から『跪き』を完全に排除」することにこだわっているのである。



いったいなぜ日本の教会では「跪きを完全に排除」 しなければならないのか?

「ミサ中の所作を一致させる」というようなことは今回の説明でも書かれている。
しかしバラバラの所作を一致させるという理由なら、より丁寧な「跪き」の方に統一する方が自然だ。

「日本の伝統には『跪き』はないから」という理由を聞いたことがあったような気もする。
確かに、神道や仏教における所作ではないかもしれないが、しかしそれほど奇異で特殊な所作とも思えない。いかにも取って付けたような話だ。

「日本のの特性と伝統への適応」というならば、まじめな話、隠れキリシタンの典礼ならば、特性と伝統に値するだろう。ただ立っているだけの所作が「日本のの特性と伝統への適応」というのは腑に落ちない。


これから待降節に向けて、納得のいく説明があればいいのだが、現時点では推測するしかない。

おそらく「今の日本の社会における適合させるための『現代的な教会』には相応しくない古くバタ臭い所作」 という見方なのではなかろうか・・・

古臭いとかバタ臭いとか、そういう見方があっても自由だが、素朴な信心の姿を、
強制的に止めさせる、排除するというのは「良心の自由に対する 介入であり著しい侵害」ではないのか?

今風の言い方をすれば、ある種のパワハラ。。。

子羊に対する愛がない・・・

カトリック教会では、第二ヴァチカン公会議の折に使われた言葉で「アジョルナメント(現代に適合すること)」という言葉があるが 、またしても「悪しきアジョルナメント」が暴走している。

真に「アジョルナメント」が必要なことは、「一致」の名のもとに所作を強制する「全体主義」 ではなく、近代社会が共通善として培ってきた「個の尊重」であろう。


前回も紹介したが、「カトリック的」さんが、より精緻な考察をされている。
拙ブログをお読みいただいている方にも、是非お勧めしたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html#64731641

しばらく私も、視点を変えながら、この「跪きの排除」の問題にふれていきたい。

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(以下、コメントを受けて加筆)

上記文中で、「日本の教会のミサでは、跪いている人は極めて少数だと思われる」と書いてしまったが
1万人以上の所属信徒がいる東京四ツ谷のイグナチオ教会(麹町教会)など、「聖変化」での跪きが定着している教会もまだまだあるというコメントをいただいた。

推測による私の認識ミスを自覚するとともに、この問題の大きさをを理解した。
以後もこの話題は続けていきたい。

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