カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > 所作について


「君が教会を理解するのは、そこで跪いたときだと思う。」

ラインホルト・シュナイダー

YOUCATより引用


ラインホルト・シュナイダーという人は、近代ドイツの反ナチズムの作家、思想家らしい。

YOUCATは、2年前の2013年に発行された青年向けのカテキズムだが、上述の言葉以外にも、跪きの意味ついての 記述がある。

シュナイダー氏の言葉を受け止めるならば「跪かない信仰では、教会を理解できない」ことになるが、日本のカトリック教会では、本年12月の待降節からミサでの跪きは行わないことになりそうだ。

シュナイダー氏や、その言葉を引用するYOUCATが間違っているのか?

もし、本当に12月からミサでの跪きを控えることになるのならば、信徒のこの疑問への答えが必要だと思うが・・・


前々回の「跪くということ」という記事でもコメント欄で話題となったが、日本のカトリック教会のミサについて定める「ローマ・ミサ典礼の総則」の新しい改訂版に基づく「変更箇所」が、本年12月待降節から実施されることとなった。

このところ、その内容がずっと気になっている。

気になる「変更箇所」というのは「諸民族の特性と伝統への適応に関する基準」による「日本における適応」の部分で、要は一言で言えば「ミサ中の跪きの廃止」の説明・・・

総則の本文ではないが、付帯の説明において「・・・聖別のとき、ひざまずくのではなく立ったまま・・・」と明瞭に書かれている。

いったいぜんたい、なにゆえに、日本の司教団は、「跪きを排除」ることに、かくもこだわり続けるのだろうか・・・その理由が私には全くわからない。

「跪く人」のほうがこだわっているというのはわかる。
というのは、おそらく、現時点での多くの日本の教会のミサでは、跪いている人は極めて少数だと思われるからだ。(名古屋の某教会の夜ミサで皆が跪いていたのを見たことがあるが、レアケースだろう。)

私がミサに与っている教会でも「聖変化」で跪く人は、私を含め3人ぐらいまで・・・
周辺の教会も一人いるかいないか。

ある意味、さして影響力もない意固地で偏屈で絶滅危惧品種のような変わり者(私のこと) など、ほっといてくれればいいようなものだが、司教団はそれでは収まらないようだ。

そういう少数の信徒を狙い打ちするような「変更」をあえて加える・・・

司教団のほうも「日本の教会から『跪き』を完全に排除」することにこだわっているのである。



いったいなぜ日本の教会では「跪きを完全に排除」 しなければならないのか?

「ミサ中の所作を一致させる」というようなことは今回の説明でも書かれている。
しかしバラバラの所作を一致させるという理由なら、より丁寧な「跪き」の方に統一する方が自然だ。

「日本の伝統には『跪き』はないから」という理由を聞いたことがあったような気もする。
確かに、神道や仏教における所作ではないかもしれないが、しかしそれほど奇異で特殊な所作とも思えない。いかにも取って付けたような話だ。

「日本のの特性と伝統への適応」というならば、まじめな話、隠れキリシタンの典礼ならば、特性と伝統に値するだろう。ただ立っているだけの所作が「日本のの特性と伝統への適応」というのは腑に落ちない。


これから待降節に向けて、納得のいく説明があればいいのだが、現時点では推測するしかない。

おそらく「今の日本の社会における適合させるための『現代的な教会』には相応しくない古くバタ臭い所作」 という見方なのではなかろうか・・・

古臭いとかバタ臭いとか、そういう見方があっても自由だが、素朴な信心の姿を、
強制的に止めさせる、排除するというのは「良心の自由に対する 介入であり著しい侵害」ではないのか?

今風の言い方をすれば、ある種のパワハラ。。。

子羊に対する愛がない・・・

カトリック教会では、第二ヴァチカン公会議の折に使われた言葉で「アジョルナメント(現代に適合すること)」という言葉があるが 、またしても「悪しきアジョルナメント」が暴走している。

真に「アジョルナメント」が必要なことは、「一致」の名のもとに所作を強制する「全体主義」 ではなく、近代社会が共通善として培ってきた「個の尊重」であろう。


前回も紹介したが、「カトリック的」さんが、より精緻な考察をされている。
拙ブログをお読みいただいている方にも、是非お勧めしたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/agnus_d_vir/64728972.html#64731641

しばらく私も、視点を変えながら、この「跪きの排除」の問題にふれていきたい。

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(以下、コメントを受けて加筆)

上記文中で、「日本の教会のミサでは、跪いている人は極めて少数だと思われる」と書いてしまったが
1万人以上の所属信徒がいる東京四ツ谷のイグナチオ教会(麹町教会)など、「聖変化」での跪きが定着している教会もまだまだあるというコメントをいただいた。

推測による私の認識ミスを自覚するとともに、この問題の大きさをを理解した。
以後もこの話題は続けていきたい。

拙ブログのリンク集に新たに登録させていただいた「護教の盾」さんのブログをご紹介したい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htm

「護教の盾」さんは、聖体拝領のときに「跪いて」拝領しようとしたところ、司祭から聖体授与を拒否されたという経験を持つ。
不当で理不尽な仕打ちにめげず、直接、司教(教区長)に訴え、その結果「教区内ではどこの教会でも跪いて聖体拝領を受けられる許可」をもらったという逸話の人物。

その情熱と信念、行動力は素晴らしい。

大変研究熱心で、バチカンの文書や各国のカトリック教会の関連記事を
引用したうえで考証し、ご自身の考えを述べている。

「護教の盾」ブログは、「聖体拝領時の跪き」等の典礼関連のカテゴリーの内容で、共感する部分がとても多い。

引用記事で、名誉教皇ベネディクト16世のラティンガー枢機卿時代の「典礼の精神」という書籍の引用記事があった。

日本のカトリック教会において、とても重要な内容なので、拙ブログでもご紹介したいと思う。

他にも、学ばされる記事の紹介が大変多い。
詳しくは「護教の盾」ブログをご参照いただきたい。
http://www.maroon.dti.ne.jp/gokyo/index.htm

以下引用
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少なからぬ影響力を持つグループが、私たちに「ひざまずく」ことを止めさせようと試みてきます。
「私たちの文化に合わない」と言います(一体、どの文化に?)。
「まっすぐに立って、神に向かって歩く成人には似つかわしくない」あるいは、「救われた人はキリストによって自由となり、もはやひざまずく必要がないので、ふさわしくない」と言います。(中略)

(しかし)実際、キリスト者の「ひざまずき」は、すでに成立していた何らかの慣習を文化受容した一形式ではなく、それとは全く反対に、キリスト教文化の表現であり、それまでの文化を、神についての新しく深い認識と体験によって変容させるものです。
「ひざまずく」ことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書と聖書が伝える神の認識からきたものです。
pp.200-201
砂漠の教父たちの教えに由来する物語があります。
それによると、アポロンとかいう修道院長の前に、悪魔が神に強いられて姿を現したとき、その容姿は黒く、 おぞましく見え、恐ろしいほどやせた肢体を持ち、そしてとりわけ悪魔にはひざがなかったのです。
ひざまずくことができないのは、あからさまに悪魔の本性と して著されています。(中略)

ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。
その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前では ひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。
信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。
ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。
それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。
p.210
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このメッセージから、核心にあるポイントを、さらに抜粋すれば
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信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。
そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。

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のところだろうか。


高倉健さんに続いて菅原文太さんも追うようにして亡くなった。

文太さんは、NHK大河ドラマ「獅子の時代」で、時代に翻弄される会津士族役が印象に残っている。

ストーリーは戊辰戦争で始まり自由民権運動で終わるが、大河ドラマにしては裏面史のようなストーリーで、権力から虐げられながらも徹底的に反骨精神を貫く逞しさが、文太さんのキャラクターにピッタリ合っていた。

正統派の大河ドラマ「武田信玄」での板垣信方役もとても良かった。

その文太さんだが、色紙にサインをせがまれたときは「仁義」という言葉を選び書かれていたらしい。

もちろん「仁義なき戦い」の主人公を演じたというゆえのサービス精神だと思うが、晩年は、いろいろな社会活動をされている。
儒教の教えである「仁義(「仁」は、広く他人やものを思いやり、いつくしみの気持ちをもつこと。「義」は、行いが道徳・倫理にかなっていること。道徳上守るべき筋道。)」を大切に思う気持ちもあったかもしれない。

ご冥福をお祈りしたい。



ところで一般には「仁義」というと、やはり「仁義を切る」という、博徒、渡世人の初対面の挨拶が思い浮かぶ。

「仁義を切る」で検索すると、ウィキペディアには詳しい説明が載っている。

「相互扶助の為に作り出した習慣の一つであり、厳格な所作は同業の者であると確認するための目安」
ということであり、口上や所作で真贋の見極めがなされるのである。

「昭和残侠伝 破れ傘 (1972年) - 池部良が仁義を切るシーンがある」とあるので、さらにググってみたら、YouTube で「軒下の仁義」という動画が見つかった。
https://www.youtube.com/watch?v=S0wo7FWculg

「御当家 軒下の仁義 失礼ですが お控えくだすって」
「ありがとうござんす。軒下の仁義は失礼さんにござんすが、手前控えさせていただきやす」
「御当家三尺三寸借り受けまして稼業、仁義を発します」

という具合に始まる。

これが、ゾクゾクするほどいい・・・

「仁義を切る」というと、ドーランを塗った演歌歌手が三度笠に雨合羽姿で、「おひかえなすって〜」上ずった素っ頓狂な声を出すイメージがあったが、これが吹っ飛んだ。

池部良さんの仁義は、見た目は洋装だし男前なのでスマートな印象があるのにもかかわらず、声はドスがきいているのである。

「筋目が良い仁義」という感じだろうか。

もしご興味を感じられたら「軒下の仁義」をぜひご覧あれ。


今回は、カトリックの話題とは、かなりかけ離れてしまった。

なぜだかわからないが、私は「特徴がある言葉や所作による表現の仕方」に引きつけられてしまうようだ。

不思議な引力があるんだが、どうもその魅力をうまく表現できない・・・

主日のミサは、基本は日曜日の午前中に行われるが、教会によっては、前日土曜日の夜にもミサがある。

土曜日でも日没後は主日になるので、日曜日に仕事がある人への配慮だろう。


先日、久しぶりに土曜の夜ミサに与った。

夜なので雰囲気が違う。

ロウソクの煌めきがいい。

参列者も少ないし、静かでゆったりした感じがある。

少し驚いたのは、聖体拝領で口拝領の人が多かったことだ。

20〜25人ぐらいのミサで5〜6人はいたような・・・

以前、名古屋の布池カテドラルで、ミサに与ったときに口拝領の人が多さに驚いたことがあったが、あのときも、土曜の夜ミサだった。

もしかしたら、同じ小教区のなかでも、日曜日と土曜日では、文化?が違うのかもしれない。


正直言って小教区では、ミサに対する想いや緊張感というのは信徒によって個人差があるし、教会行事はミサだけではないので、ミサ以外の事に気持ちが向いているとしか思えない人も少なからずいるのである。

どうやらミサに対する信徒の想いの強さというのは、ミサの雰囲気に現れるようで、もしかしたら土曜日の方が、その波動が強いのかもしれない。

やはり「良いミサ」に与りたいという気持ちは自然な事で、その気持ちが通じ合うところでは喜びがある。

土曜日のミサの方が、私には合っているように感じた。


ところで、最近になって、カトリックアクションやウナ・ボーチェとは別のところで、ラテン語ミサが起きようとしていることを知って正直驚いている。

「良いミサ」を求める人が多いということなのだろう。

ラテン語ミサというものは「良いミサがありますよ」という旗振り、シンボルになっているような気もする。

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