カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの著名人・キリシタン・外国人宣教師 > 晴佐久昌英神父

前回、話題にさせてもらった統計数理研究所のホームページ「日本人の国民性調査」は、日本の国で共に生きる同胞の意識を知る意味でなかなか面白い。

「宗教観」についての統計(2013年)もある。

「宗教を信じるか?」(あなたは何か信仰とか信心を持っていますか?)という質問は、
もっていない・信じていない」 72%
「もっている・信じている」   28%

「宗教か科学か」という質問では、
「宗教は救いにはならず、科学の進化で救われる」 12%
「宗教と科学が協力し合っていく必要がある」   45%
「科学の進歩は人間の救いとは関係ない。人間を救うのは宗教の力だけである」 3%
「科学が進化しても、宗教の力でも、人間は救われるものではない」      32%
という結果になっている。

「科学でも宗教でも人間は救われない」という回答には、どのような真意があるのだろうか?

あきらめのようなペシミスティックでネガティブな反応もあるだろうけれども、例えば「人は人によって救われる」という考えあるのかもしれないから、この「科学か宗教か」という設定は、ちょっと強引な二択になっている感じはする。

総じてこの調査では、積極的に宗教を信じる人は少数派のような感じだ。

ただし矛盾しているとも言えそうな数字もある。 

「宗教心は大切か?」という別の質問では、
「大切」    66%
「大切でない」 21%

「あの世を信じますか?」という質問は、
「信じない」  33%
「どちらとも」 19%
「信じる」   40%

設問の妙によって、日本人らしいあいまいさが浮き彫りになっている。

どうやら、現代の日本の社会に生きる人々にとっては「宗教」と「宗教心」という微妙な言葉の違いでそれぞれ異なった感覚を持つようで、者の場合は、既存の宗教(団体?)をイメージして近寄りがたいというような感覚を持ち、後者に対しては、個人的な内的信心で自然な心情と受け止めているのではないかと想像した。

「宗教」と「宗教心」の言葉の間に「信じることは難しいが信じたい」という微妙な心情が漂っているようにも感じる。 
つまり「宗教」と「あの世」や「神様」がイコールではなく、「宗教は信じてない(信じている自信がない)があの世はある、あるいは神様(人間を超越する存在)はいるような気がする」ことなのかもしれない。

つきつめれば、この「宗教を信じるか?」という問いは、やはり「苦しさからの救い」において「何を信じるか?」という問いでもある。

苦しみは「問題解決」によって救われる。例えば病気に苦しむ状況にあったとしたら「問題解決の実効性」を求め病院を訪ねる。
しかし病院では、問題解決するすべがないこともある。

やはり人生では解決しない問題が多くあるのである。
 

上述のアンケートにもどれば「宗教か科学か」という質問は、宗教とを科学を並列で比較しているが、人生の苦しみにおいては並列ではなく、科学(医学)では解決できないことを知る苦しみのなかで、その先にある「宗教」の姿が目に止まるのではないか?

解決しそうにないから苦しいし「それでも救われたい」から「救いを信じたい」気持ちへ転嫁する。

私が晴佐久神父を尊敬するのは、その救いを求める気持ちに対し、「あなたは必ず救われる」という「救いの断定」によって、真正面からその願いに応えてくれるところだ。

自分の力ではどうしようもないとき「神様助けてください」と祈り「神様の御業(みわざ)」に縋る。
「救いの断定」とは、「救いの御業を信じること」 であり、いうならば「救いとは『救われる』と信じること」「信じることが救い」ということなのかもしれない。 


宗教」の姿が目に止まるということを書いて、思い浮かんでくるのが画家のカラバッジョの描く「エマオの晩餐」の絵だが、この絵の登場人物である宿屋の主人には、目の前の人物が「復活したキリスト」の姿としては見えていない。

同じ絵の登場人物であるキリストの死を落胆していた二人の愛弟子には、目の前の「
復活の奇跡、神秘」に気づき驚く。

私にとって「宗教(教会)」は「神様の御業(みわざ)」を願い祈り信じる場であり、そのために必要なのは「神秘」、つきつめれば「ミサ・御聖体」ということなのだろう。

エマオの晩餐

晴佐久神父の多摩教会からの異動が発表された。 


「福音の村」ブログで、毎週の説教を欠かさず読んでいたから、 この教会での司祭と信徒の絆の深さがわかるので、多摩教会の信徒の皆さんにとってはこれは辛いだろうなあと思った。

もちろん、司祭の異動は定期的にあるから、いつかは転任があると覚悟はしていたと思うが、思っているのと現実に起きるのとでは違う。

多摩教会ではショックを受けた人が多いとは思うのだが、晴佐久神父を心のよすがにしている人は多摩教会にとどまらないので、地方の人が晴佐久神父のミサに与るという事でも、また晴佐久神父が地方に出かけるという事でも、新しい赴任先は、とても便利な場所ではある。

岡田大司教も、チラッとそういうことを意識されたのかもしれない。

かく言う私も、関西在住なので、東京に出た時に立ち寄り易い場所というのは少し嬉しい。


毎週の主日の晴佐久神父の傑出した説教は、多摩教会の信徒以外は、「福音の村」という素晴らしいブログによって、「毎回のすべての説教をもれなく克明に欠かすことなく」知ることができた。

ただ単に書き起こすだけでもかなり面倒な作業にもかかわらず、この説教ブログは、背景も理解できるようにと、大変細かい注釈まである。
この注釈は本当に徹底していて様子がとてもよくわかった。

このブログを読むことで、晴佐久神父を身近に感じた読者も少なくはないのではなかろうか?

晴佐久神父は「半径3m以内の事で福音を語る」という言い方をしていたことがあったように思うが、「福音の村」ブログは、晴佐久神父が半径3m以内にいる気にさせてくれるのである。

異動先の新教会の説教も、小教区を越えて、ぜひ
「福音の村」ブログスタッフで続けて欲しいとついつい思ってしまうが、それほどにこのブログは職人仕事というか・・・
プロも顔負けという徹底ぶりに敬服する。

晴佐久神父の説教を本当に大切にされているのだろう

晴佐久神父の説教の中身の素晴らしさを讃えるだけでなく、書き起こしてくれた多摩教会の「福音の村」スタッフに、本当に感謝したいと思う。

晴佐久神父の説教が魅力に溢れているという事は、説教集が本になり評判にもなっているし、拙ブログでもリンクさせてもらっている「福音の村」ブログ http://www.fukuinnomura.com/ を読んでもらえたら、共感する人も多いと思う。

洗礼を授けた人が、積み重ねで850人を超えているらしい。

目に見える「実績」が、「優れた宣教者」証明になっていると言っていい。

しかし、晴佐久神父の傑出しているところは、実はそれだけではないと私は思っている。

「優れた宣教者」の魅力に加えて、あと二点。


ひとつは、神父としての一番基本的な役割で、教会(小教区)という共同体で最も期待される、「良き司牧者」であるということ。

この司牧者としての魅力は、現実の多摩教会の姿が証明する。

晴佐久神父という人が、おそらく「具体的な行動で実践してかたちにして示す人」なのだろう。 
霊的指導というものが、多摩教会の姿に現れているように感じるのである。

ホームページにもその片鱗はあるが、実際に訪ねたら、活き活きとしている様や新しい人をお招きしてもてなす姿勢というものが、インフォメーション、心地良さそうな歓談スペースなど随所に現れている。 聖堂に連なるエントランスに受付係がいるという教会(小教区)も、他に見た事がない。全体的に教会もキレイだ。
「お客さんに来てもらいたい」という気持ちの現れだろうか? 

「ミシュランに教会部門があるとしたら三ツ星を目指したい」というジョークが晴佐久神父のエッセイにあった。

良い宿、良いレストランかどうかは一泊、一食すればわかるように、良い教会もまた、一度訪ねれば、わかることも多いかもしれない。

要は「教会が『常に新しい人を迎える』という、社会に対し開かれた姿勢」に満ちているということだ。

晴佐久神父は、「居心地の良さ」という表現をしていた様に思う。
意味的には「ホスピタリティ」「おもてなし」という言葉でもいいかもしれない。

初めて来た人にも、所属している人にも「居心地の良い」ところ。

自然に人が集まるという事に、あたりまえの理がある。

私の場合も実際に、第一印象がイマイチで、掲示物と配布物が散らかっているような「汚ないな〜」と感じた教会は、いつの間にか御縁が無くなっている。
こういう教会に限って、お題目だけは「開かれた教会」とか言って、アホなイベントで聖堂を使っていたりするのである。

「居心地の良さ」という事は一面的な事にすぎず、それで司牧者としての全てを語るのは無理があるとか、本質的な事ではなく表面的な事と思う人もいるかもしれないが、司牧の結果のひとつの「現れ」であると私は受け止めたい。

おそらく「究極に『居心地の良い』ところは、天国」ということを、晴佐久神父は言いたいのだろう。


最後はミサという祭儀を行う「祭司」としての魅力。

晴佐久神父のミサは、説教のインパクトが強いのでそちらのほうが話題になりやすいのだが、実は大変丁寧な司式で、これもかなり印象的なのである。

一言一句、一挙手一投足の全てに想いがこもっているような・・・

そしてミサの入祭のときに十字架と祭壇へする一礼が本当に長い。

20秒ぐらいは礼をしたまま・・・

この所作で、ミサに与る全員の集中力が高まる。

丁寧な動きと静かな間。 

私の所属教会では「どんなミサでも自然と気持ちが引き込まれる」という具合には、なかなかならない。
秘跡の有効性は変わらなくても、淡々とこなすような進行に感じるミサも少なくない。
私の方が、かなり意識してモチベーションと集中力を高めて緊張感を保つ事が必要な場合も多いのである。

仮に、説教が下手で司牧がちゃんとできていなくても、この丁寧なミサに与れるだけでもよいと思ってしまうぐらい・・・



「優れた宣教者」 「良き司牧者」 「祭司」どの面でも傑出している。

多摩教会の信徒は、かなり幸せと言えるかもしれない。

正直な話、独り占めはズルい。

晴佐久神父は、もはや突出して凄い神父になってきているのかもしれず、もしかしたら教会(教区)はもっと大きな役割を与えることになるのかもしれない。


このところ、気持ちの波動というか浮き沈みというか、復活祭が近づいていたのに気分が塞いでました。

ブログそのものが、やはり日記なんでボヤキ、グチになりやすいんですが、すみませんが書かさせてください。

気分が塞いでいたのは、やはり悩み事が原因です。

アレコレいろいろ悩みはあるのですが、今回は新しい悩み事が教会で起きたということがいまいましい。
たいしたことではないのですが「本来、救われたいところのになんで・・・」という感じ。

そんな教会での悩み事というのはズバリ「人間関係」だったりします。

やはり人の集まりなんでそういう事は浮き世の悩み事とたいして変わらないのです。

正直、苦手な人がいる。 

少し間合いをとれていたら別にいいんですが、接点を持たないといけない状況になってしまうときがあるんですね。
そして案の定、対話をしても気持ちがつながらない。
「そんなんじゃダメですよ」と非難したくなる感情がわいてくる。

しかしこの人の状態をよく見ると、実は自分のイヤな部分と似ています。

「イヤな部分を見たくない」というような忌避感情と、そういう感情を持つ自分に対する自己嫌悪で、少し後になってもまだ尾を引いて気が滅入ります。

聖週間は平日もミサがあり、聖金曜日も行きましたが、そんな事があったので何か気持ちが高まりませんでした。

このところ、晴佐久神父の説教集を読み続けていたのですが、晴佐久神父は何度も「ミサにはパーフェクトな救いがある」と語ります。

しかしその言葉に半信半疑になるというか、そういうテンションの低下にまたイライラし、土曜になってもまだ最低の気分が続いてた。

そんな状態のままで、昨晩、復活徹夜祭のミサのために教会に向いました。


しかし・・・

復活徹夜祭のミサは良い意味でやはり普通のミサと違う。

偶然ですが、まず司式司祭のローテーションが私にとって良かった。

日本に来て日が浅くまだ若いアジア人の神父様の司式ですが、私の教会においては日本人司祭よりアジア人の神父様のミサのほうが、あらゆるところが丁寧なので私は好きなのです。
アジア人神父様も普段以上に気合い(という言葉でいいのかな?)が入ってました。

復活徹夜祭では、復活のロウソクをかかげての入場があったり聖書朗読も何回もあって、荘厳さが増します。

そしてこのミサでは洗礼式がある。

晴佐久神父の本では「秘跡は、神の愛の、目に見えるしるし」と書かれてますが、
目の前で行われる洗礼式の場に立ち会うと、洗礼は単なる入信式ではなく、1人の人の人生を変えてしまう秘跡であることを実感してきます。

2007年の晴佐久神父の高円寺教会。
復活徹夜祭で84人の受洗者が並んだ洗礼式の情景というのはどんな情景だったんでしょうか・・・
一度に84人というのは、普通の教会どころかカテドラルでもほとんどありえない大人数。
「目に見えるしるし」という言葉が現実のものとして感じる迫力があったんじゃないでしょうか?

しかし人数が少なくても洗礼式は感動します。

やはり洗礼式に伴う連祷!

この連祷で私の塞いでいた気持ちも変わった。

そして聖歌も滅多に唱わないラテン語聖歌!

ラテン語聖歌はクリスマスと復活祭ぐらいしかないですが、やはり私にとってラテン語聖歌は大きな癒しです。

典礼暦のなかで、一年で一番力強いミサともいえる復活徹夜祭ミサで、小さな私の躓き、スランプも解消されたような・・・

「ミサにはパーフェクトな救いがある」という言葉が頭をよぎる夜でした。

みなさん

主のご復活おめでとうございます!!


拙ブログをお読みのクリスチャンの方にお尋ねしたいですが、 よく「毎週日曜日に教会に行くの大変じゃないの?」とクリスチャンではない人から尋ねられたことはありませんか?

そういう場合に決まり文句で「いや、いい話が聞けるんですよ!」と言いたいところですが、残念ながら私は、うちの教会についてとてもそんなこと言える自信がない。

私の教会の主任司祭の説教は・・・ホントにつまらない・・・
(ブログではどこの教会かわからないから許してくださいね。m(_ _)m )

「説教がつまらない」なんて書くと少しえらそうな感じですが、批評したいわけじゃない。

毎週日曜日に教会に行きミサに与りながら、ほとんど話(説教)が印象に残らないのはやはり寂しいということを言いたいわけです。

ノンクリ友人に対し「うちの教会のミサへ来てみない?ただし説教は晴佐久神父の説教ブログ『福音の村』がとてもいいですからそちらを読んでみて」と言うのも変だし・・・

もっともわが教会の主任司祭の話を「余計な事を言わないからいい」という人もいます。

また晴佐久神父の説教は「救い」の解釈について問題視する人もいます。

信徒によっても説教に求めるものに違いがあるようだし、私が主任司祭の説教がつまらないと思うのは、教義理解のレベルや感性の問題があるかもしれません。

ただ私は素直に、やはりいい話を聴いて感動したいし、まったく教会に足を運んだ事がない市井の人々でも、心に響くような説教であってほしいと思う。

福音宣教にとって、やはり説教はとても大切なポイントじゃないでしょうか。


ここで冒頭の「毎週日曜日に教会に行くの大変じゃないの?」という質問に戻ります。

ほとんど説教にあまり期待できない私は、いったいどうして毎週日曜日に教会に行くのか?

事実、全く教会に行かなくなっていた事が以前あったわけです。

もちろん公教要理「公教会の六つの掟」 「第一、主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭にあずかるべし。」というのはあります。

ただ「掟だから」というだけで、イヤイヤ行ってるわけじゃない。

何でかよくわかりません。

いや、説教にあまり期待できない分、自問自答できる私はもしかして幸せなのか?

『エウカリスチア 聖体の秘跡』そのものによって心が引き寄せられる、呼び寄せられているんじゃないか?」と思うことができるからです・・・


今回は、神父様に、説教うんぬんでちょっと余計な事を書いてしまいました。
しかし毎週主日ミサを捧げる神父様方には感謝しています!

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