今回のブログ記事は事前告知。
一年に一回だけ行なわれるラテン語ミサが二つあり、11月は少し慌ただしい。
「特別形式ミサ」というのは、第二ヴァチカン公会議以前のラテン語のミサで、通称トリエント・ミサとも呼ばれるミサのこと。
一般にトリエント・ミサというのは、現在のミサに切り替わる前のミサと思われがちである。
そもそもそのカトリック聖歌集を処分している教会が少なくないのである。
私の教会遍歴のなかでも 「日本ではラテン語ミサなど無理」というようなことを言う教会役員がいたが、そういう教会では、既にカトリック聖歌集が処分されていて 「天使ミサ」 を排除し消滅させるための一行程となっていた。
もちろん、関西を広く見渡せば、グレゴリオ聖歌を守り続けるグループが存在する小教区もまだあるのだが、少なくとも私がよく知る小教区はどこもかしこもカトリック聖歌集は存在していないのは事実だ。
なにゆえに日本の教会が、かくも「ラテン語、グレゴリオ聖歌の排除、消滅」にエネルギーを注ぐのか、その理由は、全くもって私にはわからない。
取り戻さなければ、おそらくこれ以上、日本で「麦穂」は育たないんじゃないだろうか・・・
フィーリング信徒である私は、そんなことを思う。
一つは東京。目白カテドラル
「荘厳司教ミサ」
「荘厳司教ミサ」
主催は、カトリック・アクション同志会
11月7日(土)13時40分から
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/25thmassinfo.html
ラテン語通常形式で、グレゴリオ聖歌による歌ミサ。
ラテン語通常形式で、グレゴリオ聖歌による歌ミサ。
主司式は岡田大司教様。加えて多数の司祭による共同司式。
このミサには、もう過去5回与っている。
私は、バンドミサに嫌気がさして一時は教会に来なくなったことがあったような人間だから、教会に立ち帰った後は、このミサは私の大きな心の支えになってきた。
このミサには、もう過去5回与っている。
私は、バンドミサに嫌気がさして一時は教会に来なくなったことがあったような人間だから、教会に立ち帰った後は、このミサは私の大きな心の支えになってきた。
もう一つは京都。北白川教会
「ローマ典礼特別形式歌ミサ」
「ローマ典礼特別形式歌ミサ」
主催は、UVJ(ウナ・ヴォーチェジャパン)
11月22日(日)14時から
http://uvj.jp/mass/6304/
初めてこのブログを読まれる方のために、少し補足すると、UVJ (ウナ・ヴォーチェジャパン)は、 「特別形式ミサ」の擁護と促進を目的とする国際団体の日本支部で、信心会として東京教区で活動を認められた2010年設立の比較的新しい信徒団体である。
http://uvj.jp/mass/6304/
初めてこのブログを読まれる方のために、少し補足すると、UVJ (ウナ・ヴォーチェジャパン)は、 「特別形式ミサ」の擁護と促進を目的とする国際団体の日本支部で、信心会として東京教区で活動を認められた2010年設立の比較的新しい信徒団体である。
「特別形式ミサ」というのは、第二ヴァチカン公会議以前のラテン語のミサで、通称トリエント・ミサとも呼ばれるミサのこと。
一般にトリエント・ミサというのは、現在のミサに切り替わる前のミサと思われがちである。
しかし近年になってベネディクト16世教皇様の教令によって、現在のミサは「通常形式ミサ」で、トリエント・ミサは「特別形式ミサ」と位置付けられている。
したがって、いまこのミサを捧げられることがあっても全く問題はないし、UVJは東京教区で信心会として認められている信徒団体であることを、重ねて強調しておきたい。
したがって、いまこのミサを捧げられることがあっても全く問題はないし、UVJは東京教区で信心会として認められている信徒団体であることを、重ねて強調しておきたい。
このUVJ の「特別形式ミサ」は、東京で毎月定例ミサがあるのだが、関西でも、かろうじて一年に一回だけはなんとかあって、それが今年は、上述の「11月22日(日曜日)」になる。
もっとも関西では、カトリック聖歌集で歌うことができる、シンプルで基本的なラテン語ミサである「
天使ミサ」ですら滅多にない。
そもそもそのカトリック聖歌集を処分している教会が少なくないのである。
私の教会遍歴のなかでも 「日本ではラテン語ミサなど無理」というようなことを言う教会役員がいたが、そういう教会では、既にカトリック聖歌集が処分されていて 「天使ミサ」 を排除し消滅させるための一行程となっていた。
もちろん、関西を広く見渡せば、グレゴリオ聖歌を守り続けるグループが存在する小教区もまだあるのだが、少なくとも私がよく知る小教区はどこもかしこもカトリック聖歌集は存在していないのは事実だ。
なにゆえに日本の教会が、かくも「ラテン語、グレゴリオ聖歌の排除、消滅」にエネルギーを注ぐのか、その理由は、全くもって私にはわからない。
しかしこのようにラテン語、グレゴリオ聖歌においては荒廃してしまった関西で、「天使ミサ」どころか「ラテン語特別形式ミサ」が捧げられ、声高らかにグレゴリオ聖歌が歌われるという意義はとても大きい。
少しでも上述のミサに興味を持たれた方で、まだ与ったことのない方には次のことをお伝えしたい。
初めてラテン語ミサに与る際には、ラテン語の祈りやグレゴリオ聖歌を、知識として知っているかどうかは重要ではないということをである。
我々の普段与るミサからラテン語は排除されてきたのだから、わからなくて当たり前で、知識はゼロでいいので躊躇することなくこのミサに与ってほしい。
大切なことは、先ずは、このミサに与ることで、ミサの持つ本来の豊かな姿というものを体感し、日本の教会から失われているものの大きさをわかってもらうことのほうが重要と思うからだ。
ラテン語、グレゴリオ聖歌は、第二ヴァチカン公会議前はもちろん、公会議後もしばらくは、日本の教会には間違いなく存在していた。
NICE( ナイス)などの、「典礼を生き生きとしたものとするために刷新する」 という方針のもとに、伝統は意図的に排除されてきたのである。
初めてラテン語ミサに与る際には、ラテン語の祈りやグレゴリオ聖歌を、知識として知っているかどうかは重要ではないということをである。
我々の普段与るミサからラテン語は排除されてきたのだから、わからなくて当たり前で、知識はゼロでいいので躊躇することなくこのミサに与ってほしい。
大切なことは、先ずは、このミサに与ることで、ミサの持つ本来の豊かな姿というものを体感し、日本の教会から失われているものの大きさをわかってもらうことのほうが重要と思うからだ。
ラテン語、グレゴリオ聖歌は、第二ヴァチカン公会議前はもちろん、公会議後もしばらくは、日本の教会には間違いなく存在していた。
NICE( ナイス)などの、「典礼を生き生きとしたものとするために刷新する」 という方針のもとに、伝統は意図的に排除されてきたのである。
現在の日本のカトリック教会のミサは、日本への文化的適合(とされているが単純化平易化である)によって、古代から受け継がれ育まれてきたカトリック教会の伝統的なミサの持つ美しさ豊かさがあまりにも薄められてしまっている。
取り戻さなければ、おそらくこれ以上、日本で「麦穂」は育たないんじゃないだろうか・・・
フィーリング信徒である私は、そんなことを思う。