カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > ラテン語のミサについて

先週の土日は、11月8日に荘厳司教ミサ、9日にUVJの特別形式ミサ(トリエントミサ)があり、東京でミサに与る地方在住者にとっては、絶妙の滞在スケジュールとなった。

8日と9日の両方ともミサに与かったが、さすがに「ラテン語ミサを二日連続で」というのは、今までにない体験だった。

荘厳司教ミサは、初めて与かったときから、今年は5回目になる。

相変わらず私のラテン語はさっぱりだが、UVJの特別形式ミサも経験してきたことで「ラテン語ミサの雰囲気には慣れた」と言えるかもしれない。

「雰囲気に圧倒される状態」から「
なんとなく雰囲気を味わえる状態」になってきたというところだろうか?

荘厳司教ミサの入堂の時の聖歌は、毎回、「 Veni Creator 」「 Ave Maria 」「 Christus Vincit 」なのだが、この三曲のおかげで、始まりの時点でもうすでに、気持ちがかなり高揚する。

参列者のなかには、立っているのがやっとという感じの、もうかなりのご高齢のご婦人の姿もあった。
この方の傍らには歩くための補助具のようなものが見えたから、介護者に伴われての参列であったのではなかろうか?

私にとっては、寝たきりの状態となっている父の姿や、10年後ぐらいの母の姿として、イメージが重なる。

なんとかようやく立っているという立ち姿そのものが、まるで「 Veni Creator 」を身体で唱うというか、表現している感じで、信仰の一途さを垣間見るようで、いきなり涙腺を刺激する存在感があった。

Veni Creator Spiritus,
Mentes tuorum visita:
Imple superna gratia,

Qui diceris Paraclitus,
Altissimi donum Dei,
Fons vivus,ignis,caritas,
Et spiritalis unctio.


創造主たる聖霊来り給え
御身の信者の心に訪れ給え

超自然の恵みもて、御身の造り給える胸を満たし給え。

御身は、慰め主、いと高き神の賜物、生ける泉、火、愛、
及び霊油を注ぐ御者と呼ばれ給う。


(日本語訳) 

「 Veni Creator 」は、ラテン語の響きが美しいというだけではなく、その訳文を読めば「切々と聖霊の訪れを願う」美しい祈りであることがわかる。

そしてメロディは、大変穏やかで優しい。

上昇する飛翔感というより、静かに何かが舞い降りるような感じがする。 

「聖霊が歌声となって舞い降りる」ような感覚。
あのご婦人もおそらく同じような感覚を体感されたのではなかろうか?

この瞬間を味わうだけで、荘厳司教ミサに与る価値は充分にある。

今回の荘厳司教ミサに与ったことで、私のなかで Veni  Creator 」は、あのご高齢のご婦人の立ち姿のイメージによって一途で無垢な信仰を想う聖歌になった感じがする。

この二日連続のラテン語ミサの体験で、感じることはとても多かった。
次回も、もう少し書き連ねようと思う。


「グレゴリオ聖歌とラテン語による荘厳司教ミサ」が、
来週の土曜日(11月8日)東京カテドラルで行われます。

年に一度の機会になりますので、どうぞお見逃しなく!

___________________________________

第24回荘厳司教ミサ

■場所: 東京大司教区カテドラル関口教会聖マリア大聖堂

■日時: 2014年11月8日土曜日 

 ・開場 14:00〜

 ・連祷 14:40〜 (諸聖人の連祷)

 ・ミサ 15:00〜

■主催: カトリックアクション同志会

■主司式: ペトロ 岡田 武夫 大司教(東京大司教区 教区長)

■共同司式: 駐日ローマ法王庁大使  ジョゼフ・チェノットゥ 大司教他 司祭多数(予定)

■ミサの意向: 東京カテドラル献堂50周年を記念して


今年のミサ通常文聖歌は、
カトリック聖歌集503番(天使ミサ聖歌)です!!



極めて長い残響音7秒の東京カテドラルにおいて、

5〜600年前から唱い続けられてきたラテン語聖歌
を、

100名を越える聖歌隊、約1000名の参列者と共に唱い、

その素晴しさを体感できる貴重なミサになります。


皆様 どうぞふるってご参加ください!!

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)では、聖体拝領前に、次のような祈りを唱える。

DOMINE,non sum dignus,ut intres sub tectum meum
:sed tantum dic verbo,et sanabitur anima mea.

日本語訳
「主よ、私は主をわが家にむかえ奉るだに足らぬものである。
ただ一言を語り給え。そうすれば私の霊魂はいやされるであろう。」


これを三回繰り返す。

新約聖書 ルカ7章 マテオ8章にあるカファルナウムの百人隊長の言葉である。


これに対し現在の通常形式ミサの日本固有版での聖体拝領前の祈りは、
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところにいきましょう」
となっている。
こちらは 新約聖書 ヨハネ6章からの引用のようだ。

日本固有版と ラテン語規範版では、少し ニュアンスが違う。

日本固有版は「誓いの言葉」になっているのに対し、ラテン語規範版のほうは、もしかしたら「懇願」
あるいは
「哀願」とも言えるのではないだろうか?

主の憐れみに全面的に
依存して「癒しを願う祈り」になっている


この
ただ一言を語り給え。」 という哀願の「一言」とはいったい何を指すのだろうか?

「安心して行きなさい」
(ルカ7章)を連想したりもするが、聖体拝領という秘跡を前にしての祈りなので、この「一言」というのは、キリストの具体的な言葉ではなく秘跡、聖体拝領を意味するのかもしれない。

私の場合、自分の人生のなかで起きた様々な出来事、特に「偶然」とも思える出来事を思いおこしつつ、感傷に浸る言葉になっている感じがする。

ただ一言を語り給え。」 というのは、プリミティブで 自然な祈りなのだろう。



ドミネ ノン スム ディニュス ウト イントレス スブ テク
トゥム メウム セド タン トゥム ディク ヴェルボー エット  サナビトゥル アニマ メア

ドミネ ノン スム ディニュス ウト イントレス スブ テク
トゥム メウム セド タン トゥム ディク ヴェルボー エット  サナビトゥル アニマ  メア

ドミネ ノン スム ディニュス ウト イントレス スブ テク トゥム メウム セド タン トゥム ディク ヴェルボー エット  サナビトゥル アニマ  メア


私の場合、ラテン語の発音というのがよくわからないので、カタカナ読みになるが、 特別形式ミサのなかでは 三回も繰り返される為なのか非常に印象に残る祈りとなっている

この繰り返しはとてもいい。

なぜ良いのか自分でも説明できないので、私にとって理屈ではなく
、これは「質感」・・・
クオリアを意識する体験・・・

聖書のあの箇所

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」
「私の服に触れたのはだれか?」
(マルコ福音書第5章)

を思い出してしまう。

前回のブログ記事で、特別形式ミサ(トリエント・ミサ)が、関西で行われることについて述べた。

もうウナ・ボーチェ・ジャパンの公式ホームページに告知、公開されており、来週に迫ってきているので再度お知らせしたい。

やはり関西では1年に1回しかない貴重な機会。
このタイミングを逸しては、1年先になるので、御ミサに与りたい方はご留意願いたい。


ウナ・ボーチェ・ジャパンの公式ホームページから、以下、要点を抜粋し転記させていただく

■主催 ウナ・ボーチェ・ジャパン 

■日時 10月5日 14:00〜

■司式 ラファエル植田勝行神父

■場所 カトリック聖ヴィアトール北白川教会

(カトリック聖ヴィアトール北白川教会への問い合わせはご遠慮ください。)

北白川教会の場所は京都大学グランドのすぐ北側。

地図等の、詳しい情報は、公式ホームページにGoogleマップのリンクがあるのでをご参照いただけたらと思う。

公式ホームページでは未記載だが、四ッ谷の若葉修道院でのウナ・ボーチェ主催ミサでは「聖母の連祷(ラテン語)」が、ミサ直前に行われているので、今回もあるかもしれない。
ギリギリではなく少し早めに余裕をもってお出かけされることをお薦めしたい

年に一度であっても、関西で、こういうラテン語の特別形式ミサに与れるというのは夢のようだ。

植田神父様、すべてのご関係者、会場ご提供の北白川教会に本当に感謝したい。



わたしには、幼児洗礼を受けながらも全く御ミサに与らなくなってしまっていた時期があり、しかも長かったということは、このブログで何回も述べた。

そういうなかで、私にとって「谷川の水」となったのがラテン語のミサであり、私は通常のミサとは違う引力を感じている。

今回の関西での特別形式ミサが、以前の私のような教会を離れてしまっている人の目にもとまり、復帰されるためのトリガーの一つになることを願いたい。


そういう方のために、最後に聖句(詩篇42)を書いておきたい。

「私の魂よ、なぜ打ちしおれるのか。なぜ嘆くのか。神に希望をおけ、私はふたたび神をたたえるだろう。私の顔の救い、私の神を」(詩篇42)


ただし、この詩篇42の情景を思い浮かべると、もう典礼聖歌の「谷川の水をもとめて」のメロディーが頭の中で流れてくるのが皮肉といえば皮肉だ・・・

グレゴリアンではなくても、典礼聖歌の「谷川の水をもとめて」も、とてもいい曲である。

良くないものは消え、良いものは残っていくのだろう。

聖ヨハネ二十三世教皇と聖ヨハネ・パウロ二世の、ヴァチカンでの列聖式ミサをYoutubeで見ました。

http://www.youtube.com/watch?v=QrPcJovQJi4&list=UU7E-LYc1wivk33iyt5bR5zQ

こういった特別なヴァチカンのミサは、荘厳さといい、規模といい、もう桁違いでモノ凄いというか・・・

様々な国旗を持つ信徒が映っていて世界中から人が集まっていることがわかります。
今回は聖ヨハネ・パウロ二世の出身国のポーランド国旗がやはり多い。

晴佐久神父をはじめ日本人の信者さんも行ってるんですよね。

私も「一度でいいから、ヴァチカンでミサに与ってみたい!!」なんてことをどうしても思います。
日程の確保も費用もままならないですが、素朴な願望として多くのカトリック信者が持つ共通の思いでしょう。

人種や民族を越えて一つのミサに与れる素晴しさをあらためて感じます。

「求心力としてヴァチカンがある」ということを実感です。


ミサ通常文聖歌は、一番なじみ深いグレゴリアンのキリアーレ8番でした。
こういうミサでは(あたりまえですが)やはり聖歌はグレゴリオ聖歌。
グレゴリオ聖歌は世界中の信徒と共に唱えるスタンダードであることがわかります。

ヴァチカンと共にあり世界と共にあるグレゴリオ聖歌を、日本では一年をとおして一回も唱わない教会がある(おそらく多い)という現状は、やはり歪な状態です。

現在の日本のカトリック教会のミサで通常使われる典礼聖歌は、日本人の作曲なので日本以外では知られてないだろうし、歌詞も日本語がわからないと理解できない。
典礼聖歌集は日本ぐらいでしか使えない外国では通用しない聖歌集です。
小教区でも外国籍の信者は増えていますが、よく我慢してくれていると思います。

私の所属教会にはもう存在してないですが、グレゴリオ聖歌が載っている昔からのカトリック聖歌集ならば、旅行カバンに入れて渡航すれば「ヴァチカンの列聖式ミサに与っても、聖歌が唱える!」ことになるわけで、これって何げなく凄いことなんじゃないかと思ってしまいました。

やはりグレゴリオ聖歌、カトリック聖歌集は大切です。

拙ブログにおいても「せめて、年に数回でいいので、全ての小教区教会でカトリック聖歌集のアンジェリスミサ(キリアーレ8番)を!!」と、あらためてお願い?させてもらいます。

しかしヴァチカンのミサをネットで見れるって全くたいしたもんだというか・・・

「ありがたい時代になったものだなあ」とお年寄りみたいに感慨にふけってしまいました。

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