カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > ラテン語のミサについて

第27回 荘厳司教ミサ

会場 カトリック東京大司教区カテドラル聖マリア大聖堂

2017年11月11日(土)

13:00〜 開場

13:40〜  諸聖人の連祷(ラテン語グレゴリオ聖歌)

14:00〜  荘厳司教ミサ(
ラテン語グレゴリオ聖歌、通常形式)


主司式:ペトロ岡田武夫大司教

共同司式:駐日ヴァチカン大使 ジョセフ チェノットゥ大司教 他、司祭多数(予定)

ミサの意向:「ファティマの聖母」

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カトリックアクション同志会主催の荘厳司教ミサは「日本では距離的にバチカンのミサに与ることは大変」という事実を前提に始められたという。

そういうことを考えれば、よりバチカンのミサに近づくために、参列者の気持ちが一つの方向に向かうことができればと思う。
グレゴリオ聖歌は、もちろん重要だけれども「聖変化や聖体奉挙のときに跪く」とか、「御聖体を掌ではなく口で直接拝領する」という所作も、バチカンのミサに近づくということでは大切だろう。

「荘厳司教ミサのときはバチカンのミサに所作も倣ってみる。」ということも、荘厳司教ミサが、少しづつ磨かれて進化していくということでは大きな意味を持つと思う。

また、このミサに与るうえで、絶対に外さないほうが良いのが、ミサ前の諸聖人の連祷(ラテン語)で、このイントロによって、グレゴリオ聖歌の世界に引き込まれていく感じがある。
この体験の有無によって、ミサの印象も多少変わるような気がする。

この連祷のことや、かなり多くの人が集まるということもあるので、早めの来場をお勧めしたい。

ヨーロッパでの聖母被昇天ミサでは、閉祭の聖歌は Salve Regina (サルヴェレジナ)が定番らしい。 

少し期待して、所属教会とは違う場所で 被昇天ミサに与ったら、そのとおりだった。 

後で友人に聞くと、他の教会でも Salve Regina を歌ったところは何箇所かあったようだ。

最後に一曲だけグレゴリオ聖歌を歌ったぐらいでは、ラテン語ミサとは言い難いけれども、それでも関西でグレゴリオ聖歌を歌うミサはあまりにも少ないので、このくらいのことでも嬉しい。

ラテン語ミサ通常文のキリアーレの場合だと、聖母の祝日ミサで用いられるのは9番のクム・ユビロ (カトリック聖歌集505番 Cum jubilo)のはずだ。
実は、このクム・ユビロ(Cum jubilo)のラテン語聖母被昇天ミサが、大阪北部の方であって、満員だったそうだ。

Salve Regina にしろ、Cum jubilo にしろ伝統的なグレゴリオ聖歌を唄うミサが、ちょっと増えてきたのだろうか? 

あるいは私が関心を持っているからこういう情報に敏感になるだけなのか?

グレゴリオ聖歌が、もし次々に復興していっているのならば、少し光明がさしてきているような感じがするが、正確にはわからない。 

私の居住地域一帯の教会は、いまだにどこもかしこも完璧にグレゴリオ聖歌を歌わないし、大阪教区京都教区内を転々とした私の教会遍歴の中では、グレゴリオ聖歌を歌う教会は皆無だった。

同じ教区内でも、小教区によって極端な温度差がある。


こういう「どこの教会に行けばグレゴリオ聖歌のミサに与れるのか?」という情報を、インターネットで拾えないのはなんでだろうと思ってきたが、別の教会で典礼委員をしている友人にリアルな話を聞けば、主任司祭というのは、反対意見が出れば実施を躊躇するものらしい。

大阪教区というところは、教区時報に「ラテン語ミサ反対」を公言する聖職者の投稿が掲載される風土だから、グレゴリオ聖歌を続けていることをネットに載せる事で、思わぬ変な横ヤリが入る可能性をデメリットとして危惧する気持ちは、わからないこともない。

ラテン語やグレゴリオ聖歌に反対するということが、そもそも間違っているのにもかかわらず、そういう誤った意見に振り回されて萎縮しているというのはもどかしい限りなのだけれども、それが現実の姿ではある。


上記のような話を聞くことができたのは、先週末に信徒団体の集まりがあったからだが、他の小教区の状況を知るという意味でも、信徒団体の目的に沿ってラテン語グレゴリオ聖歌によるミサの実現を共に目指すという事においても、小教区を越えた「絆」を持つ意義は大きいとあらためて思った。

ラテン語ミサに与るためには、自分一人で探すよりも、同じ想いの人の集まりに参加する方が話は早い。
信徒団体に加わることから事は始まるということが言えるのかもしれない。


ラテン語ミサの有無というだけでなく、跪きを止めるなど、少しづつ少しづつ、ミサ典礼から荘厳さが失われてしまって久しい。

典礼で何かが変わるごとに何かを失ってきたと思われる方、グレゴリオ聖歌のミサを探しておられる方に、是非、UVJのような信徒団体に加わることをお勧めしたい。

復活祭の後の23日の主日ミサは、東京に用事があって上京していたので、四谷の若葉修道院でのUVJが関わる特別形式ミサに久しぶりに与った。

しばらくご無沙汰になっているうちに、ミサに与る人が、また少し若くなっているような気がする。

ネットで告知している効果だと思うが、トリエントミサを経験してみたいと思う人が少しづつ増えていることは素直に喜ばしいことだと思った。

もしトリエントミサの魅力に魅せられたならば、その体験を契機に、よかったら伝統のミサの保護促進を目的とするUVJの運営に参加してもらえたらさらに嬉しい。

かつて「ミサに対する信徒の能動的で意識的な参加」ということが、よく言われて時期があった。
そのときの説明では「昔のミサは、会衆に対し司祭が背中を向けて・・・」
というトリエントミサを否定するネガティブな印象操作的発言が頻繁にされていたことが記憶にある。

実際には、特別形式ミサ(トリエントミサ)は何かと人手が必要になる。

侍者は標準で6名必要。
オルガン、聖歌の係も必要。ミサ前のロザリオの先唱もある。
祭壇まわりのセッティングでも、通常形式から特別形式に変える準備がいろいろ多い
ロウソクも蜜蝋のためメンテがいるし香炉の準備もある。

なかなか忙しい。

しかし、この準備やセッティングで学べることも多い。

バチカンの指針「あがないの秘跡」で言われた「能動的で意識的な参加」の真意は、なにも、珍奇な聖歌を創作したり、何かミサに新しい要素を盛り込むというようなことではなく、受け継がれてきた典礼の意味を細部にわたって学び、その意味を深く知ることではないだろうか?

日本で特別形式ミサに与れるのは、本当に偶然と言ってもいいことで、そこで典礼を学べる幸せがあり、その幸せを共有しているという自覚が、UVJメンバーのモラール(士気)の源泉になっている感じがする。


先日の30日は、2週連続して所属小教区のミサを留守にしてしまうことになったが、いつもとは違うところのミサに与った。

全く想定していなかったのだが、関西方面の小教区ではほとんど滅多にない天使ミサ(カトリック聖歌503番のグレゴリオ聖歌によるミサ)だったので、あまりの偶然に驚いてしまった。
2週連続でラテン語ミサ、しかもそのうち一回は関西で与れたということに、なんとも言えない充実感がある。

場所を書かないのはブログを読んでくださる方には申し訳ないのだけれども、関西、特に大阪教区では、グレゴリオ聖歌排除を公言する聖職者もいてグレゴリオ聖歌を疎んじる風土があり、変な横槍が入って迷惑がかかってはいけないので申し訳ないけれども控えたいと思う。

説教は、エマオへの道、晩餐をテーマに「主に気づいていない弟子たちのほうへ、キリストの方から歩み寄ってきた。」という見方から、弟子たちの存在を私たちに置き換えて考えるという中身の深い濃い話だった。
何回か反芻しているのだが、メモ用紙を持ってくることを忘れてメモをとれなかったのが、ちょっと失敗だった。

しかしこういう場所が、まだ関西にあることを幸せに思う。

私自身、「何を求めているのか?」「何処に行こうとしているのか?」というのは、まだまだ曖昧な旅路ではあるけど、一歩一歩、歩いていくうちに、私の求めた聖域のようなところが一つ二つと見つかり始めた手応え、幸せを、神様の与えてくださったお恵みとして、ぼんやり想った。

2月7日の列福式において高山右近が福者として認められた事を喜びたい。

(ほんの少しだけれども)動画を見た感じでは、大変荘厳なミサで、行かれなかった事を残念に思った。
やはり数の多さというか、これだけの聖職者、信徒が集まると、カトリック信者もこんなにいるんだということに驚く。

二転三転ではあったかもしれないが、ラテン語答唱が大幅に増えたことで、結果的に今回の列福式ミサが荘厳で素晴らしい列福式になったと思う。

侍者服も伝統的なカソック、スルプリだったのも良かった。

ここまでするんだったら、キリアーレを天使ミサ曲にできたんじゃないかとも思うし、細かいことで惜しいと思うところはある。
しかし一時期は、「ラテン語は無し」というところまで進みかけていたのだから、この軌道修正は本当に適切でとても良かった。

ラテン語に対する無意味で的はずれな反発意見に惑わされず、バチカン準拠の方向にするために指導力を発揮してくださった方々に素直に感謝したい。

ウナ・ヴォーチェ・ジャパンの指導司祭である植田神父の訪日に伴い、2017年2月5日に京都のカトリック北白川教会でラテン語特別形式歌ミサ(トリエント・ミサ)が行われる。

その一週間後に、東京でも特別形式歌ミサが行われるのでお知らせしたい。 


日時: 2017年2月11日(土)(建国記念の日)
9:30〜10:30頃 黙想会
12:00~ ロザリオ(告解)
12:30~ 特別形式の香付き歌ミサ(無原罪の聖母マリアのルルドにおける出現、三級、白)

場所: 東京都北区赤羽2-1-12
カトリック被昇天聖母赤羽教会

(赤羽教会への問い合わせはご遠慮ください。)

黙想会指導、司式司祭:
ラファエル植田勝行神父(王たるキリスト宣教修道者会)

参加費:自由献金(今後の黙想会運営等に使用いたします)
主催:信徒有志黙想会(赤羽教会)後援:UVJ

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2月5日 京都 北白川教会 植田神父

2月10日 四谷 麹町教会 アマート枢機卿

2月11日 赤羽教会  植田神父


という具合の密集した日程で、3回も非定例のラテン語ミサがあるというのは、驚くべきことで、これも福者 高山右近が呼び集めてくれた結果のように感じる。

素直に感謝したい。


念のための注釈だが、ウナ・ヴォーチェ・ジャパンは東京教区で認可されている信徒団体であり、ラテン語特別形式ミサ(トリエント・ミサ)についても、バチカンの教令スンモールポンティフィクムによってこのミサを行う上で全く問題はないことはお知らせしたい。


いま映画「沈黙」が話題になっているが、この映画のなかで、トモギ村で密かに行なわれるミサがラテン語特別形式ミサ(トリエント・ミサ)である。

スコセッシ監督も、厳粛荘厳さのある昔のミサの姿にこだわったという解説が、どこかに書いてあった。


トラディショナルなしつらえの赤羽教会でラテン語特別形式ミサ(トリエント・ミサ)があるというのは滅多にない機会で、トモギ村のミサに惹かれたという方がおられたら、是非2月11日の赤羽を訪ねていただくことをお勧めしたい。


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