カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: カトリック神父・著名人・キリシタン・外国人宣教師

先般の西日本の豪雨災害では、想像以上の被害がでている。
亡くなられた方々が神様の御元での安らぎが得られますよう、ご冥福をお祈りしたいと思います。

また、家屋を失われた方々、この酷暑の中でインフラの停止で苦しまれている方々への癒しと慰めが得られますよう、
救援活動、復旧活動に汗を流されている方々への励ましが得られますよう、
そのそれぞれにお祈りしたいと思います。
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いま京都では祇園祭が始まっていて、17日に山鉾巡行のピークを迎えようとしている。

私は関西に住んでいながら「祇園祭は大変な人混みで過酷な暑さ」という話をずっと聞かされてきたため、どうしても行く気にならず、とうとういままでに一回も行かなかったのだけれども、今年はご縁があってお誘いを受けたということもあって、宵山(正確には宵々々山)の14日に意を決して行ってみることにした。

山鉾巡行のピークを迎える3日前ということもあって、人混みは覚悟していたが「お祭りならばこのくらいは」というぐらいだろうか?
ただ暑さの方は、盆地の京都の暑さはやはりキツい・・・

しかしそれでも行って良かったと思えたのは、想像をはるかに超えたスケールの大きさだったからだろう。
スクリーンショット 2018-07-15 18.54.43


















(この画像は「船鉾」。 少し本文の内容と合ってませんが雰囲気ということで・・)


山鉾巡行で曳かれる「鉾」や「曳山」は、巡行前の宵山の時は、各町内(路上)で鎮座している。

路幅の広い四条通りは4車線なので車線規制で済むけれども、南北の細い路は、「鉾」「曳山」があるところは、路の真ん中にあるため全て通行止め。

宵山では、その町内各所にある、「鉾」「曳山」を見て回る。

「鉾」は3階ぐらいまではありそうな大きさだが、屋根上に細長い柱?が立つから名前も「鉾」なのか?

この柱が長い。

鉾頭があるてっぺんの高さは、近隣のビルの高さで見比べれば8階か9階まではありそうな感じがする。

この「鉾」「曳山」は思っていたよりも数が多い。前祭だけで23台ある。

山車としては、サイズでも数でも、明らかにボリュームがあり、このスケールの大きさが祇園祭の迫力なのだろう。

そして「鉾」「曳山」の前と横、後ろを飾る懸装品が絢爛豪華でスゴい。

驚いたことには、こ懸装品のなかに、16世紀ごろに織られたベルギー製のタペストリーがあるということだ。

それも一台ではない。
鶏鉾、鯉山、霰天神山、白楽天山、函谷鉾などがこの洋物(ヨウモノ)の飾りをつける。

この懸装品は、ホメロスの叙事詩「イーリアス」が題材になっていて、5枚の連作らしく「トロイアのプリアモス王と王妃ヘカベーの祈り」の場面や「トロイア王子ヘクトールと妻子の別れ」の場面があり、寸断されているらしい。

「鶏鉾」「鯉山」の懸装品「見送り」「前掛」は、重要文化財になっている。

キリシタン禁制下で、洋物の飾りをつける山鉾が存在していることに驚くが、キリスト教とは関係のない題材のため見逃されていることを思うと、キリスト教についての幕府の判別水準が、ある一定以上のレベルにあるという感じがする。

ただし、絵柄はキリスト教と関係がない題材であっても、贈り主はローマ教皇という説がある。
遣欧使節の支倉常長が5枚のベルギー製の織物を頂いており、その織物という話だ。

「トロイア王子ヘクトールと妻子の別れ」の場面というのは、ヘクトルがギリシアの勇者アキレスとの1対1の対決を行う前の場面だろうか?

妻子と別れた後、ヘクトルはアキレスに討たれて亡骸を馬に引き摺られてなぶりものにされる。
そして妃は戦利品とされ子供も殺される。
このうえない悲しい展開になる話だが、この場面の織物をローマ教皇が支倉常長に持たせたという話が本当ならば、帰国後の常長の置かれる状況を不安に思っていたようで複雑な気持ちになる。

常長がローマに到着した時は、徳川幕府のこの上ないキリシタン弾圧について、ローマにもその話が届いていたとされるからだ。

(この公式URLの鶏鉾の画像に、上記のヘクトルの懸装品が写っています)

もっともこの「洋物の懸装品」は、「イーリアス」を題材にしたものだけではない。

実は、旧約聖書創世記24章の「イサクの嫁選び」の物語が描かれているものもある。

アブラハムの老いた僕(しもべ)が、イサクの嫁選びに派遣された場面だ。
「『どうか水瓶を傾けて飲ませてください』と頼んだ時に、飲ませてくれる娘を嫁にもらう」という探し方をしてその通りになった場面だが、この織物については、支倉常長ルートではなくオランダ商館長の家光への献上品だったものらしい。

旧約聖書の方は、新約聖書に比べ、キリスト教の題材であることが、わかりにくかったのか?

わからないままに、何百年も祇園祭の鉾を飾った。

「マリア十五玄義図」の発見によって、近畿にも潜伏キリシタンがいたことがわかっているが、祇園祭で「イサクの嫁選び」の懸装品やローマ教皇から頂いた懸装品を見ていたとしたら・・・
というようなことを想像してしまう。

来住神父の「目からウロコ」シリーズを気に入って読み続けている。
このシリーズが良いのは、どうしたら良いのかということが具体的に書かれているところで、信仰生活をおくるうえで実践的な内容になっているところがいい。

例えば「目からウロコ  聖書の読み方」という本は、「レクチオ・ディヴィナ入門」という副題がついていて、「レクチオ・ディヴィナという聖書の読み方」がひとつの手法として説明されている。

このレクチオ・ディヴィナという聖書の読み方は、ひとつひとつの単語を「触る」ようにゆっくりと反芻するように読むらしい。

例えば

「打ち砕かれた心をつつみ、とらわれ人に自由を、つながれている人には解放を告知させるために」

という聖書の箇所を

「打ち砕かれた」「心」「つつみ」「とらわれ人」「自由を」「つながれている人」「解放」「告知させるために」

というように区切りながら、単語の持つ意味のイメージを膨らませるようにして読む。

区切らずにさらっと読めば、特に腹に落ちるほどのこともなく、「ああ、この内容はおそらくバビロン捕囚のことなんだろう」という具合に、独り合点しながら軽い受け止め方をしてしまうが、ひとつひとつの単語にこだわって読むと「とらわれる」とか 「つながれる」という意味についてイメージがグッと膨らむ感じになる。

つまり「とらわれていて、つながれているのは、世俗的な価値や欲望に縛られる私自身ではないか?」というように、自分のこととして、この言葉を当て始めたりするのである。

カトリック的には、聖書の読み方は、教会の教えに沿って読むべきだし、聖職者との対話で独りよがりな解釈にならないような補整は必要と思うが、ある意味、聖書の言葉を「腹落ちさせる」ために、こういう冒険的な手法があるという事がとても新鮮だった。

レクチオ・ディヴィナもカトリックの歴史の中での伝統的な財産の一つで、知らない財産がまだまだ多いということをあらためて知った。 


御降誕祭も終わり今年もそろそろ暮れようとしている。

一年間、駄文をお読みいただきお付き合いいただきました方々に御礼申し上げるとともに、今年の最後の更新になることをお知らせして今年のブログを終えたいと思う。

お読みいただいている皆様方。
どうぞ良いお正月をお迎えください。

来住神父について検索していたら、「キリスト教は役に立つか」についてのキリスト新聞社のインタビュー記事が見つかった。

まず冒頭に「教会のなかで私もずっと孤独を感じてきました。」という話があって驚いてしまったが、今の日本のカトリック教会の状態を冷静に見て判断し、的確な課題提起をされていて、私は共感する部分がとても多かった。

こういう本音?をズバリ語る神父は決して多くはない。

このインタビュー記事を読んで、私は「こういう神父様を待っていた」という感じがした。
以下引用したい。

http://www.kirishin.com/2017/06/27/6888/

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本書の帯に「イエスの教えは『孤独』に効く」と書いていただきましたが、わたし自身も教会の中でずっと孤独を感じてきました。わたしが教会の現場に深く関われる人間だったら、そもそも本を書くようなことはしていないと思います。わたしはそういうことをしないのではなく、できないのです。

使徒言行録にあるパウロの宣教のように、人間がある方向へ進む場合、最初から「これが大事だ!」と行くというよりも、ある方向が行き詰まったので、やむを得ず別の道に行ってみたら宝があったという方が多いのではないでしょうか。

わたしは司祭になる前に製造業で働いていましたが、神父になりたかったというよりも、行き詰まった感じがありました。「このままではうまく行かないな」と思ってこちらに来た。でもいざ教会に入ってみたら、やはり教会の主流ではうまくやれず、また傍流へとずれ、気が付いたら周辺で本を書いていたという感じです。

書きながら気づいたのですが、『キリスト教は役に立つか』の中でわたしが本当に書きたかったことは、「ゆるいキリスト教」の再発見かもしれません。カトリック教会が高齢化で人数も減り、勢いが弱くなっているのと反比例するかのように、「キリスト者は世のため人のために働くべき」という文書が増えている印象があります。つまり「叱咤激励するキリスト教」です。

「福音」というのは「幸福の音信」であり、まずキリストを信じるようになった人が幸せになるという話だと思います。ところが「キリスト者たるもの、たとえ迫害を受けても人を幸せにするために刻苦精励しなければならない」と、倫理化されがちです。わたしは学生運動の時代を知る世代ですので、「君たちは第三世界の虐げられた民衆と連帯しないでいいのか! プチブル的幸福に安住しているのではないか!」という、あの恫喝的なアジを思い出してしまうのです。

もちろん、キリスト教は「世のため人のため」に尽くすはずのものだとは思います。しかしそれ以前に、信じた人が幸せにならなければならない。そこにいるあるがままの人をまず認めるというのが福音の始まりです。

イエスと1対1の関係を深めることそのものが信仰者の幸せ。「〜であるべき」という話はその後です。自分たちが幸せである根拠をもっと語り、確認していく。そしてそれを育てていくのが本来のあり方ではないかと。

社会正義に貢献する、モラリッシュなエネルギーを得るためにキリスト教徒になるわけではありません。イエス様と親しく話して、愚痴も聞いてもらえるようになれば、徐々に心が柔らかくなり、たまには善い行いもするかもしれません。

「愛は使えば使うほど増えるもの」と言う人がいますが、そう簡単に言ってほしくない。人は資質的にも、気力的にも体力的にも限界のある存在だと認めるのがキリスト教でしょう。信仰さえあれば何でもできるというのは、むしろグノーシス主義だと思います。

今日のカトリック教会はその傾向を持ちつつあると危惧します。それに対する不満が、この本を書かせた一つの理由かもしれません。

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来住神父の「目からウロコ ミサのあずかり方」に書かれている内容を、もう少し引用したい。

「なぜ、ミサに行くのか」という問いかけに対する率直な答えが書かれている。
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「行くこと自体に意味がある」

ミサに参加するのは、もちろん「神の恵みを受ける」ためです。
しかし、そのようにしか考えないと、ミサにかける時間と労力はやむを得ない支出ということになります。
本当は何もしないで恵みを得ることができれば、それがいちばんいい。
しかし、世の中にそんなうまい話はないから、ミサに行かなければならない。
ところが、神の恵みは、はっきりと目に見えるものではないのに、時間と労力は目に見えてかかる。
それで、「せっかくの休みなのに、どうもおっくうだな」ということになるのです。

ここで必要なのは、信仰が薄いと自分を責めることではなく、発想の転換です。
ミサは出席すること自体にすでに意味があるのです。
なぜなら、時間と労力をかけてミサに出かけて行って参加すること自体が、自分とキリストとの関係を表明し、確認することだからです。


「ミサ以外に何があるのか?」

キリストとの絆を確認するのはミサではなくてもいいのじゃないか、と言う人もあります。
そう言ってもいいかもしれません。
ただし「キリストとの絆を確認する堅固な場を、毎週、あなたが本当に設けることができるならば」です。

自分とキリストとの関係の確認の場として、信仰の兄弟姉妹が集い、神の言葉が読まれ、キリストの死と復活が記念されるミサ以上のものを考えることは決して容易ではありません。


「ミサに出かけていく」

自分に信仰があるのか、ないのか。座って自分の心の中を調べていても分からない。
立ち上がって、聖堂に向かって歩き出しなさい。
そうすれば、自分に信仰があることがわかるでしょう。


ミサに出かけていく時から、そのからだの動きによって、自分の中に信仰が息づいていることがわかる。信仰は静止したものではなく動きです。
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荘厳司教ミサがいよいよ来週になったが上記のような言葉をもらって東京までの道のりを進めることができるのは自分にとって、タイミングがちょうど良かった。

前回、話題にした「キリスト教は役に立つか」という本に感するところが多かったので、著者の来住神父の 「目からウロコ ミサのあずかり方」という別の本を追加で買ってみた。
  ミサのあずかり方

「キリスト教は役に立つか」
は、
教会と接点がない人向けに書かれた本という感じがしたが、 「目からウロコ ミサのあずかり方」 は、 あきらかにカトリック信者向け。

来住神父という人は、きっちりと読者を想定して本を書いている感じがする。

基本的に、カトリック信者であれば、毎週、所属する教会(小教区)のミサに与るが、正直なところミサに与るという事に対し無自覚になってしまう場合(人にもよるだろうが)がある気がする。


この本は、ミサとは何か?ということを解説する本ではなく、カトリック信者は、どのような気持ち、姿勢、態度でミサに与るべきかということを提言する本で、そもそも何故ミサに与るのかという原点に立ち戻りながら、ミサに与る意味意義を再確認させてくれる本になっている。

次のような箇所がある。

会衆の積極的参加とは、たとえば、こうゆうことです。
’惷擇鮨ばし、姿勢を正す。
∪蚕駭読は朗読者を見ながら耳で聞く。
「アーメン」「神に感謝」など、応答は力強くする。

やる気のなさそうな司祭が司式していると、会衆の意気は上がらないでしょう。それは司祭も同じで、どんよりとした雰囲気の会衆を前にしていると司式する司祭の声にも力が入りません。

「奉仕者としてではなく会衆として出来る事がある」という視点は的を得ている。

典礼憲章の「すべての信者の行動的参加」の意味を拡大解釈して、
毎週の主日ミサで 一般信徒 の「臨時の聖体奉仕者」を 常態化させているような小教区は少なくない。
「そういうことより、もっと基本的な
動作 姿勢 はどうなんだ」とあらためて問われているような感じもする。

そういう動作や姿勢という話になると、やはり「跪き」ついては、
来住神父が、どのように感じているかが気になる。

「総則」では、聖別のときにはひざまずくことになっています。素晴らしい出来事を感謝し賛美する姿勢でしょう。しかし日本の司教団は文化に適応させて、「合掌して深く礼をする」ことにしました。

このあとに続く文章はない。

「この変更は疑問に思います。」と書き続けたいと思っているのか
「決められた事に対し従順であるべきです。」 思っているか は、この文章の留め方ではわからない。

間違っていることでも、司教団が定めたことになると 、踏み込んでは書きにくいのかもしれない。

次のところも印象に残った。

私たちがミサを祝うとき、聖堂全体が深い「祈りの空間」になっていてほしいと思います。それは、たまたま訪問した人にも、教会の子供たちにも「神はおられる」ことを感じさせる宣教的な場となるでしょう。しかしそれを「あの人たちは信仰が深いから」というように、内面だけの問題にしてはならないと思います。司祭(奉仕者)と会衆がそれぞれの役割を果たす、という行動の問題でもあるのです。「祈りの空間」は共に創造するものです。

この文章の内容については、私の体験の中でも「聖体賛美式で、ほとんど土下座に近いほどに跪いて深く頭をさげる人を見た」ときに感じた驚きと重なる内容で、とても共感した。

この本に読むと、
ミサへの参加が惰性になってしまっていることに気づき、ミサに与る気持ちを入れ替えようと思う人は少なくないと思う。

カトリック信者向けの本ではあるけれども、文章表現の豊かな人だから、この本を、どんな人が読んでもそれなりに興味をかきたてられるかもしれない。

2冊の本を読み終えて、 来住神父につぎつぎに関心が湧き、 今度は「禅と福音」という本を、読み始めた。

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