カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: カトリック神父・著名人・キリシタン・外国人宣教師

来住神父について検索していたら、「キリスト教は役に立つか」についてのキリスト新聞社のインタビュー記事が見つかった。

まず冒頭に「教会のなかで私もずっと孤独を感じてきました。」という話があって驚いてしまったが、今の日本のカトリック教会の状態を冷静に見て判断し、的確な課題提起をされていて、私は共感する部分がとても多かった。

こういう本音?をズバリ語る神父は決して多くはない。

このインタビュー記事を読んで、私は「こういう神父様を待っていた」という感じがした。
以下引用したい。

http://www.kirishin.com/2017/06/27/6888/

________________________________________

本書の帯に「イエスの教えは『孤独』に効く」と書いていただきましたが、わたし自身も教会の中でずっと孤独を感じてきました。わたしが教会の現場に深く関われる人間だったら、そもそも本を書くようなことはしていないと思います。わたしはそういうことをしないのではなく、できないのです。

使徒言行録にあるパウロの宣教のように、人間がある方向へ進む場合、最初から「これが大事だ!」と行くというよりも、ある方向が行き詰まったので、やむを得ず別の道に行ってみたら宝があったという方が多いのではないでしょうか。

わたしは司祭になる前に製造業で働いていましたが、神父になりたかったというよりも、行き詰まった感じがありました。「このままではうまく行かないな」と思ってこちらに来た。でもいざ教会に入ってみたら、やはり教会の主流ではうまくやれず、また傍流へとずれ、気が付いたら周辺で本を書いていたという感じです。

書きながら気づいたのですが、『キリスト教は役に立つか』の中でわたしが本当に書きたかったことは、「ゆるいキリスト教」の再発見かもしれません。カトリック教会が高齢化で人数も減り、勢いが弱くなっているのと反比例するかのように、「キリスト者は世のため人のために働くべき」という文書が増えている印象があります。つまり「叱咤激励するキリスト教」です。

「福音」というのは「幸福の音信」であり、まずキリストを信じるようになった人が幸せになるという話だと思います。ところが「キリスト者たるもの、たとえ迫害を受けても人を幸せにするために刻苦精励しなければならない」と、倫理化されがちです。わたしは学生運動の時代を知る世代ですので、「君たちは第三世界の虐げられた民衆と連帯しないでいいのか! プチブル的幸福に安住しているのではないか!」という、あの恫喝的なアジを思い出してしまうのです。

もちろん、キリスト教は「世のため人のため」に尽くすはずのものだとは思います。しかしそれ以前に、信じた人が幸せにならなければならない。そこにいるあるがままの人をまず認めるというのが福音の始まりです。

イエスと1対1の関係を深めることそのものが信仰者の幸せ。「〜であるべき」という話はその後です。自分たちが幸せである根拠をもっと語り、確認していく。そしてそれを育てていくのが本来のあり方ではないかと。

社会正義に貢献する、モラリッシュなエネルギーを得るためにキリスト教徒になるわけではありません。イエス様と親しく話して、愚痴も聞いてもらえるようになれば、徐々に心が柔らかくなり、たまには善い行いもするかもしれません。

「愛は使えば使うほど増えるもの」と言う人がいますが、そう簡単に言ってほしくない。人は資質的にも、気力的にも体力的にも限界のある存在だと認めるのがキリスト教でしょう。信仰さえあれば何でもできるというのは、むしろグノーシス主義だと思います。

今日のカトリック教会はその傾向を持ちつつあると危惧します。それに対する不満が、この本を書かせた一つの理由かもしれません。

__________________________________________

来住神父の「目からウロコ ミサのあずかり方」に書かれている内容を、もう少し引用したい。

「なぜ、ミサに行くのか」という問いかけに対する率直な答えが書かれている。
__________________________________

「行くこと自体に意味がある」

ミサに参加するのは、もちろん「神の恵みを受ける」ためです。
しかし、そのようにしか考えないと、ミサにかける時間と労力はやむを得ない支出ということになります。
本当は何もしないで恵みを得ることができれば、それがいちばんいい。
しかし、世の中にそんなうまい話はないから、ミサに行かなければならない。
ところが、神の恵みは、はっきりと目に見えるものではないのに、時間と労力は目に見えてかかる。
それで、「せっかくの休みなのに、どうもおっくうだな」ということになるのです。

ここで必要なのは、信仰が薄いと自分を責めることではなく、発想の転換です。
ミサは出席すること自体にすでに意味があるのです。
なぜなら、時間と労力をかけてミサに出かけて行って参加すること自体が、自分とキリストとの関係を表明し、確認することだからです。


「ミサ以外に何があるのか?」

キリストとの絆を確認するのはミサではなくてもいいのじゃないか、と言う人もあります。
そう言ってもいいかもしれません。
ただし「キリストとの絆を確認する堅固な場を、毎週、あなたが本当に設けることができるならば」です。

自分とキリストとの関係の確認の場として、信仰の兄弟姉妹が集い、神の言葉が読まれ、キリストの死と復活が記念されるミサ以上のものを考えることは決して容易ではありません。


「ミサに出かけていく」

自分に信仰があるのか、ないのか。座って自分の心の中を調べていても分からない。
立ち上がって、聖堂に向かって歩き出しなさい。
そうすれば、自分に信仰があることがわかるでしょう。


ミサに出かけていく時から、そのからだの動きによって、自分の中に信仰が息づいていることがわかる。信仰は静止したものではなく動きです。
___________________________________


荘厳司教ミサがいよいよ来週になったが上記のような言葉をもらって東京までの道のりを進めることができるのは自分にとって、タイミングがちょうど良かった。

前回、話題にした「キリスト教は役に立つか」という本に感するところが多かったので、著者の来住神父の 「目からウロコ ミサのあずかり方」という別の本を追加で買ってみた。
  ミサのあずかり方

「キリスト教は役に立つか」
は、
教会と接点がない人向けに書かれた本という感じがしたが、 「目からウロコ ミサのあずかり方」 は、 あきらかにカトリック信者向け。

来住神父という人は、きっちりと読者を想定して本を書いている感じがする。

基本的に、カトリック信者であれば、毎週、所属する教会(小教区)のミサに与るが、正直なところミサに与るという事に対し無自覚になってしまう場合(人にもよるだろうが)がある気がする。


この本は、ミサとは何か?ということを解説する本ではなく、カトリック信者は、どのような気持ち、姿勢、態度でミサに与るべきかということを提言する本で、そもそも何故ミサに与るのかという原点に立ち戻りながら、ミサに与る意味意義を再確認させてくれる本になっている。

次のような箇所がある。

会衆の積極的参加とは、たとえば、こうゆうことです。
’惷擇鮨ばし、姿勢を正す。
∪蚕駭読は朗読者を見ながら耳で聞く。
「アーメン」「神に感謝」など、応答は力強くする。

やる気のなさそうな司祭が司式していると、会衆の意気は上がらないでしょう。それは司祭も同じで、どんよりとした雰囲気の会衆を前にしていると司式する司祭の声にも力が入りません。

「奉仕者としてではなく会衆として出来る事がある」という視点は的を得ている。

典礼憲章の「すべての信者の行動的参加」の意味を拡大解釈して、
毎週の主日ミサで 一般信徒 の「臨時の聖体奉仕者」を 常態化させているような小教区は少なくない。
「そういうことより、もっと基本的な
動作 姿勢 はどうなんだ」とあらためて問われているような感じもする。

そういう動作や姿勢という話になると、やはり「跪き」ついては、
来住神父が、どのように感じているかが気になる。

「総則」では、聖別のときにはひざまずくことになっています。素晴らしい出来事を感謝し賛美する姿勢でしょう。しかし日本の司教団は文化に適応させて、「合掌して深く礼をする」ことにしました。

このあとに続く文章はない。

「この変更は疑問に思います。」と書き続けたいと思っているのか
「決められた事に対し従順であるべきです。」 思っているか は、この文章の留め方ではわからない。

間違っていることでも、司教団が定めたことになると 、踏み込んでは書きにくいのかもしれない。

次のところも印象に残った。

私たちがミサを祝うとき、聖堂全体が深い「祈りの空間」になっていてほしいと思います。それは、たまたま訪問した人にも、教会の子供たちにも「神はおられる」ことを感じさせる宣教的な場となるでしょう。しかしそれを「あの人たちは信仰が深いから」というように、内面だけの問題にしてはならないと思います。司祭(奉仕者)と会衆がそれぞれの役割を果たす、という行動の問題でもあるのです。「祈りの空間」は共に創造するものです。

この文章の内容については、私の体験の中でも「聖体賛美式で、ほとんど土下座に近いほどに跪いて深く頭をさげる人を見た」ときに感じた驚きと重なる内容で、とても共感した。

この本に読むと、
ミサへの参加が惰性になってしまっていることに気づき、ミサに与る気持ちを入れ替えようと思う人は少なくないと思う。

カトリック信者向けの本ではあるけれども、文章表現の豊かな人だから、この本を、どんな人が読んでもそれなりに興味をかきたてられるかもしれない。

2冊の本を読み終えて、 来住神父につぎつぎに関心が湧き、 今度は「禅と福音」という本を、読み始めた。

最近、書店に行くのが、少し億劫になっている。
ネットのおかげで、ちょっと知りたいという程度の情報や知識ならば、検索によって余分な手間をかけずダイレクトに手に入るいうこともある。
あるいは、書店というところが、店舗の大型化によって置いてある本がかなり増えていて、選べる自由もあるけれども、選べることでの負担が増えている感じがすることも原因かもしれない。

目的の本を探すのは大変だし、関連する本も多過ぎてなかなか選べない。

書店という場所が、徐々に私のキャパシティを超えた場所になってきている感じがするので、あまり目的を決めず、時間も割かないようになってきた。

しかしそれでもチラッと視線に止まり何気なく手にとる一冊はあり、そういう本は、もう自分で選んだという気がしない。
神様が出合わせてくれたような感じに思えるのかもしれない。

先週の日曜日にもそういう出合いがあって、ヤマト運輸の経営者として、宅急便というサービスを生み出した小倉昌男さんの評伝である「祈りと経営」という本を買った。
祈りと経営 
どちらかというとビジネス書に分類され、前半はヤマト運輸や福祉財団についての話が主となるが、小倉昌男という人の実像を明らかにしていくなかで、次第に小倉家の「家族」の話に舞台が移っていく。
その展開に引き込まれて、2日で読んでしまった。

ノンフィクションでありながら、ミステリアスな展開ゆえにドラマティクな「物語」になっている。

小倉昌男さんの人生は、ビジネスの世界における優れた経営者としての成功と評価実績とは裏腹に、家庭においては大変重い苦悩を背負っていた人生でもあったことを知った。

その苦悩に真正面から向かい合ったという事に対して、優れた経営者としての姿以上に、その誠実な姿勢に大変な尊敬を覚えた。

権力が嫌いで、企業経営でも福祉財団でも常に弱い立場の側に立って事業を進めている。

小倉さんはカトリックで、福祉財団への巨額の寄付は、弱者に目線を向けるキリスト教の影響が、実践のための動機になったように思う。
もともとキリスト教の別会派ではあったようだが、奥さんの影響を受け転会されている。

ネットサーフィンで、いろいろなブックレビューを読んだが、この本は読後の印象の大きさを伝える投稿が多い。
しかし様々な受け止め方がされていて、小倉さんの苦悩の重さに対し「仕事では成功しても家庭では失敗」いう表現をする人もある。
小倉さんの家庭における苦しみに対し、あたかもその苦しみを取り除くことができるものであるかのように「失敗」という表現をしてしまうのはどうなのだろうか。

なかなか受け止めることができないことだけれども、人生に於いては、何の落度がなくても取り除くことができない苦悩や苦しみを背負わなければならない場合がある。

聖書における旧約聖書のヨブ記や、私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9:23)というキリストの御言葉を、おそらく小倉さんもまた、思い浮かべることが少なくなかっただろう。

そういった苦しみに、どう向き合うかで生き方も変わるし、人生もまた変わるものであるということを、小倉さんはご自身の生き方を通じて多くの人に教えてくれているようにも感じた。 

重い内容だけども、一気に読み終えることができたのは、著者である森健さんの、ストーリーとしてまとめる構想力や文筆力の巧みさがあるが、当事者の家族の証言を載せる取材力も凄いと思った。

苦しんだ当事者が心を許してインタビューを受けるほどの信頼感が生まれた背景には、森さんのジャーナリストとしての姿勢に、誠実さを感じるところがあったのだろう。

登場人物(証言者)が多く、人物を錯綜してしまうところがあったが、強い印象を残す本だった。

著者の森さんは「世を見回せば、似たような境遇の人はいくらでもいるはずだ」とあとがきでふれている。
小倉さんの苦悩は、現代に生きる多くの家族と共通する苦しみなのかもしれない。

小学館ノンフィクション大賞を受賞している。
賞の歴史上初めて選考委員全員が満点をつけて受賞したらしい。

私もこの本は、多くの人にお薦めしたい。

日本ではキリスト教の信者は総人口の1%に満たないので、宗教的には「キリスト教とはご縁がない」人がかなり多いと常々思っている。

それでも医療や教育の現場としてキリスト教系の病院、学校というのはそこそこあり、また結婚式場やホテルでのチャペル挙式というのもけっこうあるから、全く接点がないこともないだろう。

ただ「ホテルのチャペル挙式で感動したのが入門の動機」という人が求道者として教会に来るという話はあまり聞かない。
出合いがあったとしても、そこから一歩踏み込む人は少ないのかもしれない。

もっとも情報に溢れる現代社会においては、ちょっとした関心があれば、たやすく情報は手に入れることは可能で、キリスト教に近づく最初の一歩が書籍からとするならば、キリスト教と向き合おうという人が、最初に手に取る本が、どういう本かは気になるところだ。

少し前に「ふしぎなキリスト教」という本がベストセラーになった。
この本は、クリスチャンとノンクリスチャンの2人の社会学者の対談で、社会学、哲学の視点で語られている。
知的な好奇心を刺激する本だけれども、個人的な悩みに対する回答や人生の目的に対する探究にはなりにくい気もするから、入門の動機になるかは私はよくわからない。

こういう知識と理解を深めるための「教養としてのキリスト教入門」的な本は比較的多く良書もあるが、もう少し人生における悩みに答える本があってもいいと思う。

そんなことを思いながらいろいろネットで検索してたら、ズバリ「キリスト教は役に立つか」という本があって、ちょっとビックリするこの大胆な書名には、何か期待させてくれるものを感じた。

来住 英俊という人の本だが、 この方は、「『ふしぎなキリスト教』と対話する」という本も書かれていて、カトリックの修道会、御受難会の神父だった。

私は、ボンクリ(赤ん坊の時に洗礼)なので、自分から求めて入信したわけではないのだが、「もしキリスト教との出合いがこの本だったらどうだっただろう?」なんてことをつい考えた。

いわば「キリスト教入門の前の入門書」という本だと思うけれども、こういう本は新たな出合いを期待するようなワクワク感がある。


日本における福音宣教に於いては、「キリスト教入門の前の入門書」というのは、とても大切な本のような気がする。

↑このページのトップヘ