カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: カトリックの著名人・キリシタン・外国人宣教師

最近、書店に行くのが、少し億劫になっている。
ネットのおかげで、ちょっと知りたいという程度の情報や知識ならば、検索によって余分な手間をかけずダイレクトに手に入るいうこともある。
あるいは、書店というところが、店舗の大型化によって置いてある本がかなり増えていて、選べる自由もあるけれども、選べることでの負担が増えている感じがすることも原因かもしれない。

目的の本を探すのは大変だし、関連する本も多過ぎてなかなか選べない。

書店という場所が、徐々に私のキャパシティを超えた場所になってきている感じがするので、あまり目的を決めず、時間も割かないようになってきた。

しかしそれでもチラッと視線に止まり何気なく手にとる一冊はあり、そういう本は、もう自分で選んだという気がしない。
神様が出合わせてくれたような感じに思えるのかもしれない。

先週の日曜日にもそういう出合いがあって、ヤマト運輸の経営者として、宅急便というサービスを生み出した小倉昌男さんの評伝である「祈りと経営」という本を買った。
祈りと経営 
どちらかというとビジネス書に分類され、前半はヤマト運輸や福祉財団についての話が主となるが、小倉昌男という人の実像を明らかにしていくなかで、次第に小倉家の「家族」の話に舞台が移っていく。
その展開に引き込まれて、2日で読んでしまった。

ノンフィクションでありながら、ミステリアスな展開ゆえにドラマティクな「物語」になっている。

小倉昌男さんの人生は、ビジネスの世界における優れた経営者としての成功と評価実績とは裏腹に、家庭においては大変重い苦悩を背負っていた人生でもあったことを知った。

その苦悩に真正面から向かい合ったという事に対して、優れた経営者としての姿以上に、その誠実な姿勢に大変な尊敬を覚えた。

権力が嫌いで、企業経営でも福祉財団でも常に弱い立場の側に立って事業を進めている。

小倉さんはカトリックで、福祉財団への巨額の寄付は、弱者に目線を向けるキリスト教の影響が、実践のための動機になったように思う。
もともとキリスト教の別会派ではあったようだが、奥さんの影響を受け転会されている。

ネットサーフィンで、いろいろなブックレビューを読んだが、この本は読後の印象の大きさを伝える投稿が多い。
しかし様々な受け止め方がされていて、小倉さんの苦悩の重さに対し「仕事では成功しても家庭では失敗」いう表現をする人もある。
小倉さんの家庭における苦しみに対し、あたかもその苦しみを取り除くことができるものであるかのように「失敗」という表現をしてしまうのはどうなのだろうか。

なかなか受け止めることができないことだけれども、人生に於いては、何の落度がなくても取り除くことができない苦悩や苦しみを背負わなければならない場合がある。

聖書における旧約聖書のヨブ記や、私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9:23)というキリストの御言葉を、おそらく小倉さんもまた、思い浮かべることが少なくなかっただろう。

そういった苦しみに、どう向き合うかで生き方も変わるし、人生もまた変わるものであるということを、小倉さんはご自身の生き方を通じて多くの人に教えてくれているようにも感じた。 

重い内容だけども、一気に読み終えることができたのは、著者である森健さんの、ストーリーとしてまとめる構想力や文筆力の巧みさがあるが、当事者の家族の証言を載せる取材力も凄いと思った。

苦しんだ当事者が心を許してインタビューを受けるほどの信頼感が生まれた背景には、森さんのジャーナリストとしての姿勢に、誠実さを感じるところがあったのだろう。

登場人物(証言者)が多く、人物を錯綜してしまうところがあったが、強い印象を残す本だった。

著者の森さんは「世を見回せば、似たような境遇の人はいくらでもいるはずだ」とあとがきでふれている。
小倉さんの苦悩は、現代に生きる多くの家族と共通する苦しみなのかもしれない。

小学館ノンフィクション大賞を受賞している。
賞の歴史上初めて選考委員全員が満点をつけて受賞したらしい。

私もこの本は、多くの人にお薦めしたい。

前回、話題にさせてもらった統計数理研究所のホームページ「日本人の国民性調査」は、日本の国で共に生きる同胞の意識を知る意味でなかなか面白い。

「宗教観」についての統計(2013年)もある。

「宗教を信じるか?」(あなたは何か信仰とか信心を持っていますか?)という質問は、
もっていない・信じていない」 72%
「もっている・信じている」   28%

「宗教か科学か」という質問では、
「宗教は救いにはならず、科学の進化で救われる」 12%
「宗教と科学が協力し合っていく必要がある」   45%
「科学の進歩は人間の救いとは関係ない。人間を救うのは宗教の力だけである」 3%
「科学が進化しても、宗教の力でも、人間は救われるものではない」      32%
という結果になっている。

「科学でも宗教でも人間は救われない」という回答には、どのような真意があるのだろうか?

あきらめのようなペシミスティックでネガティブな反応もあるだろうけれども、例えば「人は人によって救われる」という考えあるのかもしれないから、この「科学か宗教か」という設定は、ちょっと強引な二択になっている感じはする。

総じてこの調査では、積極的に宗教を信じる人は少数派のような感じだ。

ただし矛盾しているとも言えそうな数字もある。 

「宗教心は大切か?」という別の質問では、
「大切」    66%
「大切でない」 21%

「あの世を信じますか?」という質問は、
「信じない」  33%
「どちらとも」 19%
「信じる」   40%

設問の妙によって、日本人らしいあいまいさが浮き彫りになっている。

どうやら、現代の日本の社会に生きる人々にとっては「宗教」と「宗教心」という微妙な言葉の違いでそれぞれ異なった感覚を持つようで、者の場合は、既存の宗教(団体?)をイメージして近寄りがたいというような感覚を持ち、後者に対しては、個人的な内的信心で自然な心情と受け止めているのではないかと想像した。

「宗教」と「宗教心」の言葉の間に「信じることは難しいが信じたい」という微妙な心情が漂っているようにも感じる。 
つまり「宗教」と「あの世」や「神様」がイコールではなく、「宗教は信じてない(信じている自信がない)があの世はある、あるいは神様(人間を超越する存在)はいるような気がする」ことなのかもしれない。

つきつめれば、この「宗教を信じるか?」という問いは、やはり「苦しさからの救い」において「何を信じるか?」という問いでもある。

苦しみは「問題解決」によって救われる。例えば病気に苦しむ状況にあったとしたら「問題解決の実効性」を求め病院を訪ねる。
しかし病院では、問題解決するすべがないこともある。

やはり人生では解決しない問題が多くあるのである。
 

上述のアンケートにもどれば「宗教か科学か」という質問は、宗教とを科学を並列で比較しているが、人生の苦しみにおいては並列ではなく、科学(医学)では解決できないことを知る苦しみのなかで、その先にある「宗教」の姿が目に止まるのではないか?

解決しそうにないから苦しいし「それでも救われたい」から「救いを信じたい」気持ちへ転嫁する。

私が晴佐久神父を尊敬するのは、その救いを求める気持ちに対し、「あなたは必ず救われる」という「救いの断定」によって、真正面からその願いに応えてくれるところだ。

自分の力ではどうしようもないとき「神様助けてください」と祈り「神様の御業(みわざ)」に縋る。
「救いの断定」とは、「救いの御業を信じること」 であり、いうならば「救いとは『救われる』と信じること」「信じることが救い」ということなのかもしれない。 


宗教」の姿が目に止まるということを書いて、思い浮かんでくるのが画家のカラバッジョの描く「エマオの晩餐」の絵だが、この絵の登場人物である宿屋の主人には、目の前の人物が「復活したキリスト」の姿としては見えていない。

同じ絵の登場人物であるキリストの死を落胆していた二人の愛弟子には、目の前の「
復活の奇跡、神秘」に気づき驚く。

私にとって「宗教(教会)」は「神様の御業(みわざ)」を願い祈り信じる場であり、そのために必要なのは「神秘」、つきつめれば「ミサ・御聖体」ということなのだろう。

エマオの晩餐

コンスタンチノ・ドラードに興味を持ったので「活版印刷人 ドラードの生涯」という本を読んでいて先日読み終わった。

この本は天正少年使節やキリシタンの話を舞台にしながらも、著者の青山敦夫さんが印刷業界の第一線にいた方で、印刷学会から出版されているということもあって、視点の軸足が「活版印刷」にある。
キリシタンに関係する本としては異色の本かもしれない。

とはいえ、小説仕立てになっているのでストーリーがあるし、天正少年使節や当時の日本の教会についての描写は大変細かく、客観的に当時の日本の教会の状態を垣間見る感じがして引き込まれた。

日本におけるキリスト教の宣教は、浮き沈みがありながらも時の権力者によって翻弄され、信長死後は秀吉や家康によって弾圧迫害に向かうので、哀しみと苦しみ、暗さ重さを帯びている。

しかし、この活版印刷の物語は、キリシタンの環境の厳しさに反比例するかのように、1000部を超える大量の印刷物が次々に生み出されていった事実を語っていて、弾圧期の話でありながら一筋の光彩のような煌きがあった。

コンスタンチノ・ドラードは、子供の頃から家族を知らぬまま教会で育つ。
天正少年使節とともにヨーロッパに渡航するという数奇な運命をたどるが、福音宣教のための活版印刷の技術習得という自らに与えられたミッションを忠実に守り、誠実にその使命を果たした。
日本に於いて印刷、出版されたキリシタン版の印刷物は32点あったとされている。 

禁教令による弾圧がピークとなったとき、日本に伝わったキリスト教の信仰の遺産は徹底的に破壊させられるが、教会施設だけでなく、このグーテンベルク直系の3台の活版印刷機による印刷技術、印刷文化も免がれることはできなかった。
印刷機のうち1台だけはドラードと共にマカオに移ったが、残りの2台の印刷機も、活字1本ですらも日本には現存しない。

ドラードは、日本の活版印刷の消滅という現実の中で、自らの奉仕の成果を実感することなく生涯を終えたかもしれない。


しかし、多くのキリシタン版の印刷物が世界各地に残った。

日本に於いても、印刷機だけではなく印刷物も焼却されたとされているが、著者の青山氏は、潜伏キリシタンの信仰の伝承において、このキリシタン版の書物を隠し持った可能性を示唆していた。

キリシタン版と潜伏キリシタンの信仰伝承の因果関係については、私は詳しく知らないのだけれども、もしドラードの印刷した本が、潜伏キリシタンの信仰のよすがとなったとするならば、キリシタン版は信徒発見までの信仰の伝承において運命的な役割を果たしたことになる。

長崎の教会群の世界遺産申請にあたり、禁教令下における信仰の伝承についての説明が必要とされていると聞いたが、日本には遺跡のようなものは何も残っていない。

ただキリシタン版の書物が残ったとするならば、それは数少ない信仰の遺産である。

日本で活版印刷を行うことにこだわったヴァリニャーノという人物の慧眼には驚くものを感じる。


現役で働いているカトリック信者の場合、自らの職業人としての職務の遂行が、神様の御心にかない、さらに主の御わざとなるはたらきであるようにと願う。
「医療」「介護」「教育」のような、人相手の仕事の場合、愛徳の行いを仕事に込めるということは実感が得られやすいように思う。
ところが「研究」「設計」「製造」のような、モノが相手の仕事だと、仕事と信仰が交わらないように感じることがあるかもしれない。

コンスタンチノ・ドラードは、そういう実業の世界に生きるカトリック信者にも、自らの使命を誠実に果たす中で、神様の御わざがはたらくことがあると示唆し、励ましてくれているようにも感じた。

コンスタンチノ・ドラードを道具とされた神様の御わざを想った。


ブログは、テンポよく定期的に更新したいと思うのだが、なかなか上手くいかない時がある。

ブログのカテゴリーを意識してカトリックに関係するテーマを起しているが、私の個人的な興味関心だけではなく、巷の話題のなかからも テーマを見つけたいと思い意識を向けているのだが、それほど多くはない。

フランシスコ教皇のニュースか、あるいは日本史のなかでのキリシタンの話ならば、書籍の話題で少しあるというぐらいの感じだ。

やはり日本の歴史に於いて、西洋社会と初めて触れ合った時代がキリシタンの時代でもあったということで、日本ではそういう歴史の物語や記録に関心を持つ人が、ある程度はいるのだろう。

弾圧迫害の歴史も教会の歴史で、その歴史が日本の教会の精神的な土台となっているし、現代の日本社会で生きるカトリックではないの関心との接点でもある。


ただ
ブログの定期的な更新に対し、書籍の話題というのは読むスピードが間に合わない。

また、こういうテーマがそこそこあるからと言って、私がこの話題を活かせるとも限らない。
ブログの下書き欄には、こういう書きかけのお蔵入りとなった内容が死屍累々と並んでいるのである。

せっかく書いたのに。もったいない・・・

どうしてもそう思ってしまうが、こういうお蔵入り文章をいじくってみてもやはり内容がまとまらず 、こういう時は思い切って見切りをつけて出発点に戻って書き直したほうが良いようだ。


というようなことを思っていたら
、シドッチ神父の遺骨発見の ニュースを知った。

日本と西洋社会との接点において歴史上の象徴的な人物でもあり、教会にとっては大切な殉教者の遺骨である。

殉教者の遺骨というのは教会にとって目に見える「隅の親石」みたいな存在ではなかろうか?。

学術調査の継続や、以後の埋葬の事もある。
日本のカトリック教会は主体的に関わって欲しいと願う。



グーテンベルク42行聖書を起点に、活版印刷やコンスタンチノ・ドラードをブログのテーマにしたからか、再び、キリシタンの時代に関心が向き始めている。

コンスタンチノ・ドラードについてもう少し詳しく知りたいと思って、amazonで関連する書籍を注文して届くのを待っているが、ついでに以前どこかで書評を読んで気になっていた「みんな彗星を見ていた」という星野博美さんの本も電子ブックで注文した。

というか、こちらは電子ブックなので注文と同時に直ぐ届く。

「直ぐ手に入る」「持ち運びで荷物にならない」「安い」というメリットとともに「場所をとらない」というメリットもあって、もう限界に近い本棚の状態を思えば、電子ブックで買える本はそちらのほうに変えていったほうが良いと思い始めている。

しかし電子ブックは良いことばかりではない。
どこまで読んだかがわかりにくく、全体像をつかみにくいのである。

加えて、技術的なアプローチでは解決しそうにない問題もある。
質感というか、手触り感だ。

「本を読む」作法としては、
タブレットの表示面が紙の手触りと比べるとやはり硬いので、ページをめくるときに、温かみが無いのである。
本を読むという行為に刷り込まれた人間の感覚は、そうそう簡単には切り換わらないのだろう。

「みんな彗星を見ていた」は、本の内容との相性を思えば、手触り感的に普通の書籍のほうが合っていた。
しかし、こういう事は、読み終わらないとわからないから仕方がない・・・


この本が気になったのは「私的キリシタン探訪記」というサブタイトルに興味を持ったからだ。

私は幼児洗礼で、物心ついた時には既にカトリックになっていたので、大人になってからキリシタンやカトリックに関心を持つ人に興味があるのである。

この本は、著者の人生での様々な経験、出会いを語りながら、次第にキリシタンの物語に好奇心を持つプロセスが語られている。

星野博美さんの本はいままで読んだ事はなかったが、自分の体験談を織り交ぜながらグイグイ読者を引き込んでくる。
「私的」な体験談については軽妙な語り口と言ってもよく、スイスイ読み進めることができる魅力的な文章である。

星野さんは、子供の頃にNHKのある大河ドラマを見て天正少年使節を知り、そのことが記憶に残っていたらしい。
不思議なことに、2008年に偶然に187殉教者列福式のポスターを
見かけて、その列福者リストに中浦ジュリアンの名前を見つけた。
その時に天正少年使節の記憶が蘇って、キリシタンへの興味が膨らんだようだ。

天正少年使節が秀吉の前で弾いたと言われるリュートという古楽器を、実際に習ってあの時代を感じようとするところが星野さんの持ち味だろう。
私自身も特別形式ミサ(トリエント・ミサ)に与る心境の一つに、キリシタン時代のミサとの同一性を体感したいという気持ちがあるので少し似ているような感じがした。

しかし星野さんの探究心は、NHKの大河ドラマで描かれるような、安心できる宣教師像で終わらない。

苛酷な弾圧にさらされ殉教する宣教師の姿にも真っ直ぐに目を向けていく。
キリシタン史は情報量の多さからイエズス会の視点になりやすいが、この本ではどちらかといえば托鉢修道会からの視点に立っていて、ドミニコ会の宣教師の事など新たに知る事実も多かった。

私は、若い時に読んだ遠藤周作さんの「沈黙」の影響かもしれないが、棄教者の惨めさや哀しみに自己同化してしまって、殉教者については、自分とは違うレベルの超人的な存在に感じてしまって、自分とは切り離して見てしまうクセがなんとなく残っていたのかもしれない。

しかしこの本を読むと、殉教者も人生の旅路を歩む私と同じ一人の人間である事に(当たり前の事なのだが)あらためて気づかされる。

星野さんは「この時代に犠牲になったのは、列聖者42人 列福者393人 記録の残る殉教者約4000人 充分な記録のない殉教者は4万人である。」と書いたうえで、「ヴァチカンの列聖とは、『あなたの存在を忘れない』という執念、つきつめれば『記憶する』という一点に行き着く」という見方をする。

そして殉教した宣教師の前半生をさらに知るためスペインの片田舎の出生地にまで出かけて行くのである。

知りたいという気持ち、記憶に残したいという気持ち、誰かに事実を伝えたいという気持ちも、一つの愛の姿であると教えてくれているようにも感じた。

amazonのユーザーレビューは、11名の投稿者全員が五つ星になっている。

同じく私にとってもとても印象に残った本だった。

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