自分とは意見が異なる人々に対し耳をかたむけるということは大切な事でよく知ったうえで理性的に相手の主張を判断しなければならないと思います。(なかなかできないことなんですけどね。。。)

そんなこともあって「けんきょカト連(憲法・教育基本法を守ろう!カトリック連絡会」http://kenkyokatoren.seesaa.net/なんていうブログを久しぶりに拝見してみました。

やっぱり気が滅入る・・・・・

以下の赤文字はその引用ですが・・・

急激に“右傾化”が進んでいる。卒業式・入学式で「日の丸・君が代」が強制され、教師たちの言論は、厳しく統制されてきた。
その「教育の統制」の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師たちがいる。


卒業式・入学式の「国歌斉唱」で不起立を続け、3年にわたり、「6ヵ月の停職処分」を受けてきた。
「『教員を続けるために起立しては』と言われるけど、私は『今の状態は危ない。上からの命令に黙って従うことは恐ろしい明日を創ってしまう』と子どもたちに身体ごと訴え、伝えていく責任があります。それが今一番必要な教育だと思っています」


キリスト者として、天皇制につながる「君が代」伴奏を拒否し、何度も理不尽な異動を強いられてきた。
「辛いと感じる自分の存在に意味があると思えるようになりました。カナリヤが炭鉱の危険を知らせるように、強制がもたらす苦しみ、今の学校の危険、この国が進む方向の危険を知らせる役割を担うことができれば幸せだし、それが私の役目だと思えてきたんです」


私は、日の丸だろうと君が代だろうと外国の国旗国歌であろうと国歌国旗に敬意を示さなければならないのは当然のマナーだと思うんですよね。
なぜマナーを守る必要がないのか?理由が全くわからない。
基本的なマナーを教えられなくてどうして教師が勤まるのか???
業務命令だったらルールでもあるわけで「範を示すべき教師が自らルールをやぶってどうすんだ!」って感じ。
組織の秩序を守るために処分は当然。処分しなかったら校長の管理能力が問題だと思う。
思想の問題ではなく単にケジメの問題ですよね。
どうしてもイヤなら教師を辞めればすむ話なのにね。

こういう甘さがサヨクの感性。まるで子供のまんま。
いつも自分が被害者になって、なにかに酔いしれたような文章書いて、みっともないよねえ。
思想の問題ではなく感性の問題だな。

「甘ったれた根性がイヤだ!」

「いつでも自分が被害者っていう負け犬根性がイヤだ!」

「筋をとおさないで身勝手にふるまうケジメのなさがイヤだ!」


「我が子よ!こんな駄目な大人になったらあかんでえ〜〜」
などとこちらも理性的ではなく感情的な反応になってしまうのでした。

同じカトリックとしてこういう甘ちゃんとどう接したらいいのか・・・

頭が痛いねえ〜。