カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ:イマドキのカトリック教会 > カトリック教会の国際交流

荘厳司教ミサがあり、特別形式ミサもあり、教皇様来日もあった密度の濃い11月が過ぎて、ようやくいつもの日常に戻った感じがする。

教皇様のミサには、結局行けなかったけれども、東京ドームのほうは多言語の祈りが混じり合うミサだったようだ。

日本のカトリック教会は、高齢者と定住する外国人の増加が進んで、近未来の日本の一般社会を垣間見るような集まりになっている。

直近の東京教区時報で菊池大司教のお話(カテキスタ養成講座の講話)が載っていたのを読んだのだけれども、少子高齢化だけでなく大都市への人口流入の影響も大きく、もともと分母がそれほど大きくないのが日本の教会だから、地方では、これからは存続させることが困難になる小教区が続出する見通しらしい。

増加する外国籍信徒に対し、日本の教会に集う仲間として親しみを持つだけでなく、教会のもとでの一致により、日本の教会の支え手となって欲しいという想いも感じた。

教会での聖職者の叙階までの仕組みについてはよくわからないが、もしかしたら定住外国籍信徒からの聖職者の召命を期待しているのかもしれない。

ただし私は、そこでどうしても疑問点が膨らんでしまう。
課題認識も想いも理解するけれど、典礼の視点でも課題解決をして欲しいと思うからだ。

東京ドームの教皇ミサのような多国籍言語のちゃんぽんミサでは、お互いに苦労を伴う。
教会の共通の言語であり、共通の信仰の遺産である、グレゴリオ聖歌のミサにすれば良いだけの話だ。

日本の教会の抱える課題解決のためにも、司教様がたには、ここで決断をして欲しいと願う。


話がちょっと変わるけれど、11月にあった特別形式ミサは、外国から訪日してくださった神父様の司式だったのだが、ミサ後の懇談で、特別形式ミサについての海外事情について興味深い話を聞いた。

パリなどの教会では、特別形式ミサも日常化していて、通常形式ミサと特別形式ミサが同じ教会で時間をずらして行われているらしい。
そういう教会がところどころにある。

一瞬、日本の教会の外国人のための英語ミサのような位置づけかなと思ったが、多国籍化であってもパリに住むアフリカ諸国の人はフランス語を話す人が多いだろうから、それはちょっと違う感じがする。

「特別形式を求める人が増えているのですか?」とたずねたらちょっと予想外の答えだった。

「(特別形式の宣教会の)召命が多いから」らしい。

「需要」もさることながら「供給」が多いということだった。

ちょっと目からウロコだった。

来年2017年2月の高山右近列福式ミサが、当初で検討されていたラテン語主体の天使ミサではなく日本語中心のミサに変わってしまったということは、日本のカトリック教会の大阪教区をよく示す出来事のような感じがした。 
私は、なかなか簡単には受け流すことができずにいる。

友人から教えてもらったが、大阪教区時報の10月号に、ある神父(以下は仮名でA神父とする)の「ラテン語による列福式ミサ」への反対意見が投稿で載っていたらしい。
この投稿を知って、変更の理由の一端がわかった感じがした。
内容は全く共感はできないものの、ある意味、正直で率直な意見であり「なんでやねん。これでいいんか!」というタイトルで、生な気持ちそのまんまの不平を述べている。

そのA神父の投稿というのは以下の内容である。


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【以下引用】
最近いろいろと、いろんなところで起こる事件・事例に、「なんでやねん、これでいいんか!」と叫びたくなることがよくあります。事例を挙げればきりがないので、
皆様の思いにお任せしたいと思います。人それぞれの思いがあり、その思いの理由や原因は異なることかもしれません。しかし中にはどうしても黙っていることのできないこともあります。 そのことでも、人により、いろいろの対応がとられます。お上の言うことだから、黙って従えばよい。今までそうしてきたから、黙って我慢すればいい。何かモノ申せば、波乱が立つので…。組織だから、仕方がない…。教会だもの…。何も言わないで、お祈りすれば…。などなど。
これらのことを十分にわきまえながらも、どうしても口外し、皆様からご批判とおしかりを覚悟して、書きたいことがあります。
長年の運動とお祈りによって、待望のユスト高山右近の列福が承認され、大きな喜びに浸ることができました。現代の私たちの生活の中で、右近の生き様が、いかに大切なのかを受け取り、勇気と励ましをいただきました。オリンピックの金メダルで得られる喜びと励ましには比較にならないほど大きなものでした。 承認くださったローマの聖省にも感謝したものです。ところがある噂に驚かされました。思わず「なんでやねん!これでいいんか?」と叫んでしまいました。どんな噂?
列福式の式典がラテン語で行われることが、ローマの聖省から伝えられ、日本サイドが異議申し立てても受け入れられなかった。」という噂です。
第二ヴァチカン公会議以前の世界に戻ろうとする動きが、ちょこちょこ見受けられます。自国語ではなく、懐かしいラテン語の復活を希望し、実行している人たちもいるとの噂が、喜びの声として聞こえてきます。自分の言葉で、神様を賛美し、礼拝することの努力・喜びはなんだったのでしょう。この噂が、噂にすぎなかったことを切望します。
【引用終わり】
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ただし、結果として列福式ミサはラテン語天使ミサではなく、日本語主体、典礼聖歌主体のミサになるそうなので、このA神父の反対意見は汲み取られ、今回の列福式でのラテン語の排除は、ほぼ成就する。
この神父の心配はおおかた解消されるだろう。

A神父は、ラテン語ミサに対し「できない(可能ではない)」ではなく「望まない」という意味のことを述べている。

私は過去に、以前所属していた小教区で、天使ミサの実施を意見具申したことがあったが、その際に「(スキル的に)できない」とはぐらかされたことがあった。
私は当時、自己流でラテン語の祈りを家で祈り始めたころだったから、カタカナを付記し読みながら祈るということがそんなに大変なことに思えなかった。
意味的にもミサの通常文ならば日本語の祈りは頭に入っている。
噛み合わない会話に大変もどかしい想いがしたことをはっきり覚えている。

そういうはぐらかしよりは、「望まない」と主張するA神父は素直ではある。

このA神父の「自分の言葉で、神様を賛美し、礼拝することの努力・喜び」が大事という想いは、個人の心情としてはあっても不思議ではない。
そういう心情があることを否定するつもりはないし、日本語のミサには日本語のミサなりの意義があるということもわかる。


しかし・・・

毎週の主日ミサの話ではなく、この先いつあるかわからない何十年に一度あるかどうかの教皇代理の枢機卿様が司式する特別なミサにまで、日本語ミサを貫らぬく必然がいったいどこにあるのか?

というか、そもそも列福式のミサについては、前提として「列福式は、ローマで祝われる教皇司式の列聖式同様に、教皇庁の公式行事であり、教皇代理が派遣されミサの司式する以上、ラテン語になるだろう。」と日本の司教団のある司教様も言われていた。
ヴァチカンの列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿がミサの主司式者となるのだから「日本語を求めるのはそもそも無理で成り立たない」という客観的な現実論としての話だったのだと思う。

日本語の典礼では、司式されるアマート枢機卿はかなり困惑されるだろう。

アマート枢機卿だけではない。
高山右近が亡くなられた場所がマニラだったので、マニラ教区のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿も来日される。  
韓国などの他のアジア諸国の司教もお招きしているらしい。
タグレ枢機卿が来られることを思えば、多くの在日フィリピン人も参列するだろう。

そういうことを考えると、教皇庁公式行事であるこの国際的な列福ミサに参列されるであろう多くの外国人に対し日本語を強いるということは道理が合わないし、 日本語がわからない霊的兄弟姉妹に対する慈しみが欠落している。

ラテン語ミサには、国境と時代を越えて祈りが一つの声となる意義がある。
そしてそのことで気持ちが一致する喜びがある。

ラテン語ミサ排斥論者は、このことへの想像力が全くない。  

こういう背景がありながらも、「自分の言葉(つまり日本語)で、神様を賛美し、礼拝することの努力・喜び」という自分本位な想いに徹底してこだわり、それを理由にラテン語ミサをぶっ潰した。

「なんでやねん。これでいいんか!」という言葉は、今ではA神父ではなく、私が発したい言葉になってしまったが、そういうことを言っても虚しく心の平安は得られないということだけはわかる。

気持ちの一致が削がれたり、心が乱れることが、そもそも福者ユスト高山右近に対し申し訳なく、素直な気持ちで心静かに列福式を迎えられるように祈ったほうがきっといいのだろう。

トリエント・ミサについて書こうと思いましたが、知見が無いなりにも内容についてある程度細かく書くか、それとも心情吐露ぐらいにとどめておくか、迷ってしまってなかなか先に進みませんでした。

そういうわけで今回は別の話。

11月に新アメリカ大使として着任されたキャロライン・ケネディさんについての話です。

速やかに震災被災地を訪問されたケネディ大使ですが、今度は今週の11日に長崎を訪ねたらしい。

着任早々、次々に日本の各地を次々に訪問する。
なかなか行動力のある人です。

被災地の次が長崎。

長崎よりも、米軍の戦略拠点の沖縄やトヨタがある名古屋などを訪問した方が、アメリカ大使らしい感じがしますが、ケネディ家はアイリッシュ系のカトリックの家柄なので、長崎訪問は信仰心に基づく意向を少し感じます。

教会にも行かれてますが、なんと浦上天主堂と大浦天主堂の二つもまわったらしい。

私もカトリックなので、極めて個人的な感情ですが、この長崎訪問のニュースは少し親近感を感じました。

ケネディ大使は、浦上天主堂の「被爆の聖母マリア像」の拝観に少し強い思いがあったようです。

「被爆の聖母マリア像」は長崎への原爆投下で黒こげの痛ましい姿になってしまった旧浦上天主堂の聖母マリア像。
アメリカ人にとっては、やましさというか良心の呵責を感じさせられる御像かもしれません。

あえて直視しようというケネディ大使の姿勢に私は好感が持てました。

この「被爆の聖母マリア像」は、確か昨年か一昨年に、アメリカを巡回したのではなかったでしょうか?

ケネディ大使は、その時の巡回の事を聞いて、存在を知ったのかもしれませんね。

少し話題を変えて、今回は隣国の韓国の話。

実は韓国は日本と比べてカトリックが非常に多いです。

カトリックの信徒数は日本の約10倍で約476万人(2005年)。
韓国の人口構成比でみると全人口の10%!!

日本のカトリック信徒の人口構成比は、全国では0.4%以下で、カトリックが多い印象のある長崎でも4%ぐらいですから、韓国は「国全体が長崎みたいなもの」というか長崎以上なのです!!

こうして数字を見ると、日本のカトリック教会にとって韓国のカトリック教会と交流していくということは非常に重要な事だと再認識します。
もっと韓国の事を知らないといけません。

ということで少し韓国カトリックの勉強ということで、俗っぽいですがカトリックの韓流スターを調べてみました。

例によってWikipeです・・・

「ペ・ヨンジュンさん」これは誰でも知ってる有名なヨン様です。
「キム・ヨナさん」フィギュアスケートの金メダリスト。浅田真央さんのライバル。
「BOAさん」日本でのK−POPの先駆けかな。

ただし知っているのはこのあたりまで・・・
私は、韓流ドラマを見た事無いし、K-POPも聞いた事がないからあまり詳しくないんです。

「クオン・サンウさん」韓流ドラマのスター俳優。知りませんでした。。
「キム・テヒさん」韓流ドラマのスター女優。知りませんでした。。

こんな事ではダメですね。韓流ドラマ見なければ・・・

「いま頃遅いよ!!」と言われそうですがいままで興味がなかったから仕方ないです。
せっかくですからクオン・サンウさんとキム・テヒさんがでてる「天国の階段」あたりがいいかもしれません。

「天国の階段」は大ヒット作のようですが「交通事故で主人公が記憶喪失になる」とか「継母のいじめ」とか、韓ドラの壷をおさえている作品のようです。
韓ドラでは「悪役はスターへの登竜門」ということのようで、キム・テヒさんは悪役として注目されたみたいですが「斜めに振り向いて大きく目を見開き睨む」という「ユリにらみ」と呼ばれる演技手法が話題になったらしいですね。
面白そうですね!!好奇心が沸きます!!

そのキム・テヒさんなのですが、残念なことに今、日本でバッシングされているそうです。
私にとっては、カトリックの韓流スターは、同じ信仰を持つ兄弟姉妹ということになるのでこれは少し気になります。

なんでも「独島(日本領竹島)は韓国の領土」というTシャツを着ていたとか・・・
しかし私は「韓国人なのだから仕方ないんじゃないの。」と思いますね。
日本人の私は「竹島は日本の領土」と思っていますから、立場が違うということでお互い様です。

政治の問題を、芸能人や一般市民にぶつけるのは、スジが違う。
市民レベルでは「それはそれ、これはこれ」で国際交流は大切です。

日本語も勉強して日本のことを理解しようとしてくれているのにバッシングされたのでは日本をイヤになりますよね。

『ユリにらみ』で睨まれたりして・・・


「キム・テヒさん。バッシングに負けるな!」と思わず思ってしまいました。

しかし、「ユリにらみ」ってあんまりキリスト教的ではないんだよなあ・・・

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