カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: 本・雑誌・映画について

来住神父の「目からウロコ ミサのあずかり方」に書かれている内容を、もう少し引用したい。

「なぜ、ミサに行くのか」という問いかけに対する率直な答えが書かれている。
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「行くこと自体に意味がある」

ミサに参加するのは、もちろん「神の恵みを受ける」ためです。
しかし、そのようにしか考えないと、ミサにかける時間と労力はやむを得ない支出ということになります。
本当は何もしないで恵みを得ることができれば、それがいちばんいい。
しかし、世の中にそんなうまい話はないから、ミサに行かなければならない。
ところが、神の恵みは、はっきりと目に見えるものではないのに、時間と労力は目に見えてかかる。
それで、「せっかくの休みなのに、どうもおっくうだな」ということになるのです。

ここで必要なのは、信仰が薄いと自分を責めることではなく、発想の転換です。
ミサは出席すること自体にすでに意味があるのです。
なぜなら、時間と労力をかけてミサに出かけて行って参加すること自体が、自分とキリストとの関係を表明し、確認することだからです。


「ミサ以外に何があるのか?」

キリストとの絆を確認するのはミサではなくてもいいのじゃないか、と言う人もあります。
そう言ってもいいかもしれません。
ただし「キリストとの絆を確認する堅固な場を、毎週、あなたが本当に設けることができるならば」です。

自分とキリストとの関係の確認の場として、信仰の兄弟姉妹が集い、神の言葉が読まれ、キリストの死と復活が記念されるミサ以上のものを考えることは決して容易ではありません。


「ミサに出かけていく」

自分に信仰があるのか、ないのか。座って自分の心の中を調べていても分からない。
立ち上がって、聖堂に向かって歩き出しなさい。
そうすれば、自分に信仰があることがわかるでしょう。


ミサに出かけていく時から、そのからだの動きによって、自分の中に信仰が息づいていることがわかる。信仰は静止したものではなく動きです。
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荘厳司教ミサがいよいよ来週になったが上記のような言葉をもらって東京までの道のりを進めることができるのは自分にとって、タイミングがちょうど良かった。

前回、話題にした「キリスト教は役に立つか」という本に感するところが多かったので、著者の来住神父の 「目からウロコ ミサのあずかり方」という別の本を追加で買ってみた。
  ミサのあずかり方

「キリスト教は役に立つか」
は、
教会と接点がない人向けに書かれた本という感じがしたが、 「目からウロコ ミサのあずかり方」 は、 あきらかにカトリック信者向け。

来住神父という人は、きっちりと読者を想定して本を書いている感じがする。

基本的に、カトリック信者であれば、毎週、所属する教会(小教区)のミサに与るが、正直なところミサに与るという事に対し無自覚になってしまう場合(人にもよるだろうが)がある気がする。


この本は、ミサとは何か?ということを解説する本ではなく、カトリック信者は、どのような気持ち、姿勢、態度でミサに与るべきかということを提言する本で、そもそも何故ミサに与るのかという原点に立ち戻りながら、ミサに与る意味意義を再確認させてくれる本になっている。

次のような箇所がある。

会衆の積極的参加とは、たとえば、こうゆうことです。
’惷擇鮨ばし、姿勢を正す。
∪蚕駭読は朗読者を見ながら耳で聞く。
「アーメン」「神に感謝」など、応答は力強くする。

やる気のなさそうな司祭が司式していると、会衆の意気は上がらないでしょう。それは司祭も同じで、どんよりとした雰囲気の会衆を前にしていると司式する司祭の声にも力が入りません。

「奉仕者としてではなく会衆として出来る事がある」という視点は的を得ている。

典礼憲章の「すべての信者の行動的参加」の意味を拡大解釈して、
毎週の主日ミサで 一般信徒 の「臨時の聖体奉仕者」を 常態化させているような小教区は少なくない。
「そういうことより、もっと基本的な
動作 姿勢 はどうなんだ」とあらためて問われているような感じもする。

そういう動作や姿勢という話になると、やはり「跪き」ついては、
来住神父が、どのように感じているかが気になる。

「総則」では、聖別のときにはひざまずくことになっています。素晴らしい出来事を感謝し賛美する姿勢でしょう。しかし日本の司教団は文化に適応させて、「合掌して深く礼をする」ことにしました。

このあとに続く文章はない。

「この変更は疑問に思います。」と書き続けたいと思っているのか
「決められた事に対し従順であるべきです。」 思っているか は、この文章の留め方ではわからない。

間違っていることでも、司教団が定めたことになると 、踏み込んでは書きにくいのかもしれない。

次のところも印象に残った。

私たちがミサを祝うとき、聖堂全体が深い「祈りの空間」になっていてほしいと思います。それは、たまたま訪問した人にも、教会の子供たちにも「神はおられる」ことを感じさせる宣教的な場となるでしょう。しかしそれを「あの人たちは信仰が深いから」というように、内面だけの問題にしてはならないと思います。司祭(奉仕者)と会衆がそれぞれの役割を果たす、という行動の問題でもあるのです。「祈りの空間」は共に創造するものです。

この文章の内容については、私の体験の中でも「聖体賛美式で、ほとんど土下座に近いほどに跪いて深く頭をさげる人を見た」ときに感じた驚きと重なる内容で、とても共感した。

この本に読むと、
ミサへの参加が惰性になってしまっていることに気づき、ミサに与る気持ちを入れ替えようと思う人は少なくないと思う。

カトリック信者向けの本ではあるけれども、文章表現の豊かな人だから、この本を、どんな人が読んでもそれなりに興味をかきたてられるかもしれない。

2冊の本を読み終えて、 来住神父につぎつぎに関心が湧き、 今度は「禅と福音」という本を、読み始めた。

電子ブック(kindle)で「キリスト教は役に立つか」という本を買った。キリスト教は役にたつか

購入し始めて12冊目になったが、電子ブックは場所をとらないので、やはり収納場所を気にしないですむのががとてもいい。
ただ、通常の本のように人に貸すことができないので、自分しか読めない。
この事が、おそらく電子ブックの大きなデメリットだということが今回わかった。

この「キリスト教は役に立つか」という本は、「読後にかなり人に薦めたくなる本」で、貸し出しできない電子ブックで買ってしまったことを後悔し始めた。

少数派である日本人のキリスト教信者は、ほとんどがそうだと思うけれども「キリスト教の信者ではないが自分にとってはとても大切な存在である人」が、身近にいるのである。

もしこの本を購入したくなったら、電子ブックではなく一般の普通の本にされることを、先ずはお薦めしたい。


この本の書名については、ちょっと大胆な書名だと思う。

冷めた見方をしているような感じでもあるし、挑戦的で突き放すような感じを受けなくもない。

キリスト教の信者の場合は、見ただけで少しネガテイブな印象を持つかもしれない。

ただし、この本の著者はカトリックの神父なので、キリスト教信仰についてのネガティブな内容というのではなく、キリスト教信者ではない人に向けて客観目線で書いたキリスト教の入門書なので、あえてこういう書名にしているようだ。


よくあるキリスト教の入門書というのは、知的な好奇心に応じて歴史や教義を解説する教養書のような感じの本は多い。

ただ、科学万能主義の現代社会のなかでは、宗教そのものに関心が向かなくなってきていることもあるし、そういう教養本だけでは、仮に接点を持てたとしても関係が深まるまでには婉曲的すぎる感じがする。

この本はそういう教養本ではなく、もっと内容的にストレートな本で、現代人の日常的な生活の中で、人生においてキリスト教が 「どのように役にたつか」というポイントにスポットを当てて書かれている。

著者来住神父 は、 について、 本の始めに次のような説明をしている

「世の中には価値のあるもの(そう主張されているもの)がたくさんありますが、それを全部片っ端から自分で品定めしていくことなんかできません。
しかし、誰かに「ポイントはこういうことなんだ」と定式的に要約してもらえると、それじゃ門を入ってみようかという気になることがあります。
そしてその要約は、さらに深く入って行くための導きの糸にもなります。
つまり、要約の中のあるフレーズをさらに展開するという形で理解を深めていくと、迷子にならずにすみそうです。
それをキリスト教信仰でやってみました。」

「私にとって良かったことを、できるだけ宗教的な語彙を使わずに、世俗に近い言葉で伝える」 というのが 執筆趣旨で 「この良かったことを伝えることで『人生に役にたつかもしれない』と思ってもらえたら嬉しい」という来住神父想いが伝わる本になっている。

来住神父を気に入ってしまって、 追加で別の本を3冊買ってしまった・・・


というわけで 、この本はとてもいい。

「『キリスト教は役に立つか』は役に立つ」 というのが私の結論で、 多くの人にこの本をお薦めしたい。

本の中身についてもう少し引用できたら、もっとこの本の良さを伝えることができるので、次回も書けるようならば・・・ブックレビューを続けていきたい。

ネタバレ注意。具体的には書かないですが映画「沈黙ーサイレンス」のラストを話題にして下記の文章を書いています。  

小説「沈黙」が出版されたときに、当時のカトリック教会の長崎教区では、読むべきではないとされたことが知られている。

この事が少し気になっている。

「沈黙」批判の聖職者のなかには講談社のバルバロ訳聖書の訳者であるバルバロ神父や、様々な著作で知られるデルコル神父がいるらしい。

もし批判のポイントが、小説「沈黙」のクライマックスである主人公ロドリゴの絵踏みの箇所に対しての批判だったとするならば、正直、私にはかなり辛い。

「自分の身代わりで苦しむ者を救うために行った究極の行為」であり「自己判断を奪われた状態での強要」であることを想えば、神様がお許しにはならないとはどうしても思えないのである。


ただ、遠藤さんの、小説「沈黙」については、全体を見通して批判の余地がないかといえば、そうでもないような気がし始めている。

きっかけは、拙ブログに「遠藤さんは、神学的問いかけの連続で、本人も正解を持っていない」「長崎キリシタンに対し、どこか冷ややかなものが感じられる」というコメントをいただいたことで、そういう視点で、小説「沈黙」を読み返せば、やはり教会としては見過ごせない箇所も無いことは無いような気もするのである。

例えば、モキチとイチゾウの殉教場面を虚無感が漂うような虚しい描写で描いているところや、フェレイラが「日本は沼地」と語る場面あたりはどうだろう。

特に「日本は沼地」論に対しては、日本への宣教のために殉教した黎明期の宣教師や、明治以後の再宣教においても日本のために自分の一生を投じた宣教師が、実際に多く存在することを思えば、そういう犠牲や献身を受けておきながら、「日本は沼地」と高みで達観するような言葉を語られても、教会として受容はできないだろうし、宣教に当たっては有害という声が出ても不思議ではない。

この「日本は沼地」論については、 教会として見過ごすことのできない考え方にはなるのは当然のような気もする。

小説「沈黙」には、そういう側面は確かにある。


そういうことをふまえて、スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンス」を再度考えてみたい。

スコセッシ監督の沈黙は、かなり原作に忠実である事は間違いない。
ただし小説と異なるところが無いわけではない。

言葉による文章表現と、映像という表現との違いによって、受ける印象の差は確かにあった。
一番わかり易かったのは、上述の「モキチとイチゾウの殉教場面」だろう。
小説では虚無感の漂うペシミスティックな描き方をされた場面が、映画となった映像では、まさに「証する人」を感じ「キリストの受難」のかたどりとなっているようにさえ思えた。

モキチは、原作以上に登場する場面が多く、 「隠れて祈るのです」「(ちいさな手彫りの十字架を手に持ち)これだけ(しか無いの)です。」という、話したときは気づかない特になんていうほどのことはない セリフを話すが、 映画を見終わったときに ストーリーの上で極めて重要なセリフだったことが ラストでわかる。

遠藤さんが切支丹屋敷役人日記で第三者目線でぼやかした内容に対し、
スコセッシ監督は、 ロドリゴとモキチの関係における自分の解釈を加えている。

いわば、小説「沈黙」世界におけるフェレイラとロドリゴの存在のあり方に対し、その間に一線を引いた。

遠藤さんが、
神学的に問いかけつづけ、本人も答えを出すことに迷いが少し残った曖昧さで閉じたラストに対し、スコセッシ監督は「遠藤さん、このラストでよかったよね」と語りかけるような感じで 一歩原作に踏み込んだ。

私には、スコセッシ監督が、もしかしたら
(文学的にはともかくカトリック信仰的には) 未完 だったかもしれない小説「沈黙」を、映画において完結させたようにすら感じるラストだった。



最後に蛇足だが・・・

「沈黙」の話においては、どうしても「踏み絵」に焦点があたり、そのことについて教会がどのような答えを示しているかを気にする信徒は多いと思う。

コメントで教えてもらったことだが、かくれキリシタンだった浦上の信徒が、信徒発見を経て明治期の再宣教期に、カトリック教会に復帰した際に、十字架山という「絵踏み」の償いをするための祈りの場所をつくった。
その十字架山が、教皇ピオ十二世によって、公式巡礼地に定められた事実がある。


「強要された絵踏み」についての、教会の考え方は、このことにも示されているように感じている。


【今回は特にネタバレ注意。ラストも含めてストーリーの内容に触れています。】  


映画「沈黙ーサイレンス」を観た。

非常に厳しい映画である。

キリシタン弾圧の拷問、処刑の場面が、映像化されると大変きつい描写になるということを、頭ではわかっていたつもりだったが、実際に目で見るのとでは違いが大きかった。

前回「「沈黙」は、遠藤さんの小説世界でありフィクションである」とは言ったものの、それは人物描写としての話であって、時代背景としての弾圧迫害については記録も多く、映画「沈黙」の迫害の描写は事実に近いと思う。

誰が観ても酷い描写だが、キリスト教の信者にとしては客観視することが難しく、私にはとても辛かった。

「覚悟して観るように」というシスターのアドバイスの紹介が twitter でツイートされていたが、的確なアドバイスだと思う。
かなり激しく厳しい描写であることはお伝えしておきたい。


映画としては、日本を舞台にした外国映画だが、民俗的な時代考証が非常に緻密で、映像や音声の効果もとても繊細だったので日本人が観ても違和感がない。

ストーリーそのものや、描かれる世界は、完璧と言っていい程に、遠藤さんの原作に限りなく近かったように思う。

酷い描写は辛かったけれども、私はこの、映像化された「沈黙」の世界に接して新たにこの作品を理解できたことが多く、観たことは本当に良かった。

小説を読んだだけでは理解しきれなかった自分の想像力の少なさもわかり、私は自分の見方がやはり一面的で、頑なだったと気づかされた。

特に、この作品にキチジローが必要だった本当の意味がわかったような気がしている。

遠藤さんの小説の人物像では、キチジローは皆から軽蔑される卑怯な男として描かれるがキチジローの何回もの「転び」が、その後に同じ数だけの良心の呵責と後悔があったということに、 映像化された世界のキチジローの叫び声を聞いてより生々しく伝わったきたのである。

キチジローは、確かに殉教者になる勇気を持てない弱い男(現代ならばおそらく私と同じ普通の男)だが、罪の自覚に対しては極めて素直で、いくら踏み絵を踏んでも
、絶望せずにあがく。救いを求める。

1月2日に放映されたNHKーBSスペシャルの中で「転ぶ」というのは、文字どうりの「倒れる」という意味で良いというアメリカ人研究者の解釈があったが、キチジローはまさにその通りだった。

また踏み絵についても、その行為をもって「棄教」と断じてしまうことはたやすいが、自分が踏み絵を踏まなければ、自分の代わりに他の信徒が拷問され続けるというロドリゴと同じ状況では、もう選択はありえず、踏み絵そのものが精神的拷問、処刑だった。

棄教というのは、強制された踏み絵ではなく、自ら神の存在に耳と心を閉ざし背を向けたときが真の棄教なのだろう。

いろいろな解説を読むなかで「最終的にロドリゴにとって、キチジローが師となった。」という解説があったが、キチジローの存在の有無はロドリゴとフェレイラの残りの人生の違いとなる。

この解説を読んで、キチジローが、遠藤さんのこの後の小説の「侍」に登場する中間の与蔵と二重写しになって、遠藤さんが描く「救い」とは、常に「寄り添う存在」がテーマだったということを思い出した。


ラストの切支丹屋敷役人日記のエピローグの部分は、ほんの少しだけ原作から踏み込んでいる。
というか、ここは小説では読者に想像と解釈を委ねるところなので、ここはスコセッシ監督が解釈した内容になる。

かつての篠田正浩監督による邦画版「沈黙」の方は、原作者の遠藤さんが納得がいかず、ラストシーンの削除を求めたらしい。
篠田監督は、その要請に応えなかったので、この映画は遠藤周作の原作「沈黙」とは、メッセージが別物になってしまっていると言っていい。篠田監督が勝手な解釈をした「沈黙」ということになる。

スコセッシ監督のラストシーンのほうは、遠藤さんが存命ならどう思うだろうか?

篠田監督とは異なりスコセッシ監督の表現は、控えめだけれどもトモギ村のかくれキリシタンに対するリスペクトが最大限に表現されていたように思った。

おそらく遠藤さんも、このラストには共感し納得してくれるだろう。

中盤の、(その時は重要さに気づかない)ほんのちょっとの挿入場面が最後に非常に重要な意味をもったことになるのだが、この挿入は遠藤さんの原作の流れを全く壊さず、最後の切支丹屋敷役人日記のエピローグの謎解きにつながった。

この映画のラストはとても良かったと思う。

ラストで、ロドリゴの「沈黙の声」に対する想いが示されたことに賛否はあるのかもしれないが、この作品の結論が「(神の)沈黙」で終わらないためには必要だった。

スコセッシ監督に拍手を贈るとともに感謝したい。

きっと遠藤さんも理解して喜んでくれるように思う。


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