カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: 本・雑誌・映画について

ネタバレ注意。具体的には書かないですが映画「沈黙ーサイレンス」のラストを話題にして下記の文章を書いています。  

小説「沈黙」が出版されたときに、当時のカトリック教会の長崎教区では、読むべきではないとされたことが知られている。

この事が少し気になっている。

「沈黙」批判の聖職者のなかには講談社のバルバロ訳聖書の訳者であるバルバロ神父や、様々な著作で知られるデルコル神父がいるらしい。

もし批判のポイントが、小説「沈黙」のクライマックスである主人公ロドリゴの絵踏みの箇所に対しての批判だったとするならば、正直、私にはかなり辛い。

「自分の身代わりで苦しむ者を救うために行った究極の行為」であり「自己判断を奪われた状態での強要」であることを想えば、神様がお許しにはならないとはどうしても思えないのである。


ただ、遠藤さんの、小説「沈黙」については、全体を見通して批判の余地がないかといえば、そうでもないような気がし始めている。

きっかけは、拙ブログに「遠藤さんは、神学的問いかけの連続で、本人も正解を持っていない」「長崎キリシタンに対し、どこか冷ややかなものが感じられる」というコメントをいただいたことで、そういう視点で、小説「沈黙」を読み返せば、やはり教会としては見過ごせない箇所も無いことは無いような気もするのである。

例えば、モキチとイチゾウの殉教場面を虚無感が漂うような虚しい描写で描いているところや、フェレイラが「日本は沼地」と語る場面あたりはどうだろう。

特に「日本は沼地」論に対しては、日本への宣教のために殉教した黎明期の宣教師や、明治以後の再宣教においても日本のために自分の一生を投じた宣教師が、実際に多く存在することを思えば、そういう犠牲や献身を受けておきながら、「日本は沼地」と高みで達観するような言葉を語られても、教会として受容はできないだろうし、宣教に当たっては有害という声が出ても不思議ではない。

この「日本は沼地」論については、 教会として見過ごすことのできない考え方にはなるのは当然のような気もする。

小説「沈黙」には、そういう側面は確かにある。


そういうことをふまえて、スコセッシ監督の映画「沈黙ーサイレンス」を再度考えてみたい。

スコセッシ監督の沈黙は、かなり原作に忠実である事は間違いない。
ただし小説と異なるところが無いわけではない。

言葉による文章表現と、映像という表現との違いによって、受ける印象の差は確かにあった。
一番わかり易かったのは、上述の「モキチとイチゾウの殉教場面」だろう。
小説では虚無感の漂うペシミスティックな描き方をされた場面が、映画となった映像では、まさに「証する人」を感じ「キリストの受難」のかたどりとなっているようにさえ思えた。

モキチは、原作以上に登場する場面が多く、 「隠れて祈るのです」「(ちいさな手彫りの十字架を手に持ち)これだけ(しか無いの)です。」という、話したときは気づかない特になんていうほどのことはない セリフを話すが、 映画を見終わったときに ストーリーの上で極めて重要なセリフだったことが ラストでわかる。

遠藤さんが切支丹屋敷役人日記で第三者目線でぼやかした内容に対し、
スコセッシ監督は、 ロドリゴとモキチの関係における自分の解釈を加えている。

いわば、小説「沈黙」世界におけるフェレイラとロドリゴの存在のあり方に対し、その間に一線を引いた。

遠藤さんが、
神学的に問いかけつづけ、本人も答えを出すことに迷いが少し残った曖昧さで閉じたラストに対し、スコセッシ監督は「遠藤さん、このラストでよかったよね」と語りかけるような感じで 一歩原作に踏み込んだ。

私には、スコセッシ監督が、もしかしたら
(文学的にはともかくカトリック信仰的には) 未完 だったかもしれない小説「沈黙」を、映画において完結させたようにすら感じるラストだった。



最後に蛇足だが・・・

「沈黙」の話においては、どうしても「踏み絵」に焦点があたり、そのことについて教会がどのような答えを示しているかを気にする信徒は多いと思う。

コメントで教えてもらったことだが、かくれキリシタンだった浦上の信徒が、信徒発見を経て明治期の再宣教期に、カトリック教会に復帰した際に、十字架山という「絵踏み」の償いをするための祈りの場所をつくった。
その十字架山が、教皇ピオ十二世によって、公式巡礼地に定められた事実がある。


「強要された絵踏み」についての、教会の考え方は、このことにも示されているように感じている。


【今回は特にネタバレ注意。ラストも含めてストーリーの内容に触れています。】  


映画「沈黙ーサイレンス」を観た。

非常に厳しい映画である。

キリシタン弾圧の拷問、処刑の場面が、映像化されると大変きつい描写になるということを、頭ではわかっていたつもりだったが、実際に目で見るのとでは違いが大きかった。

前回「「沈黙」は、遠藤さんの小説世界でありフィクションである」とは言ったものの、それは人物描写としての話であって、時代背景としての弾圧迫害については記録も多く、映画「沈黙」の迫害の描写は事実に近いと思う。

誰が観ても酷い描写だが、キリスト教の信者にとしては客観視することが難しく、私にはとても辛かった。

「覚悟して観るように」というシスターのアドバイスの紹介が twitter でツイートされていたが、的確なアドバイスだと思う。
かなり激しく厳しい描写であることはお伝えしておきたい。


映画としては、日本を舞台にした外国映画だが、民俗的な時代考証が非常に緻密で、映像や音声の効果もとても繊細だったので日本人が観ても違和感がない。

ストーリーそのものや、描かれる世界は、完璧と言っていい程に、遠藤さんの原作に限りなく近かったように思う。

酷い描写は辛かったけれども、私はこの、映像化された「沈黙」の世界に接して新たにこの作品を理解できたことが多く、観たことは本当に良かった。

小説を読んだだけでは理解しきれなかった自分の想像力の少なさもわかり、私は自分の見方がやはり一面的で、頑なだったと気づかされた。

特に、この作品にキチジローが必要だった本当の意味がわかったような気がしている。

遠藤さんの小説の人物像では、キチジローは皆から軽蔑される卑怯な男として描かれるがキチジローの何回もの「転び」が、その後に同じ数だけの良心の呵責と後悔があったということに、 映像化された世界のキチジローの叫び声を聞いてより生々しく伝わったきたのである。

キチジローは、確かに殉教者になる勇気を持てない弱い男(現代ならばおそらく私と同じ普通の男)だが、罪の自覚に対しては極めて素直で、いくら踏み絵を踏んでも
、絶望せずにあがく。救いを求める。

1月2日に放映されたNHKーBSスペシャルの中で「転ぶ」というのは、文字どうりの「倒れる」という意味で良いというアメリカ人研究者の解釈があったが、キチジローはまさにその通りだった。

また踏み絵についても、その行為をもって「棄教」と断じてしまうことはたやすいが、自分が踏み絵を踏まなければ、自分の代わりに他の信徒が拷問され続けるというロドリゴと同じ状況では、もう選択はありえず、踏み絵そのものが精神的拷問、処刑だった。

棄教というのは、強制された踏み絵ではなく、自ら神の存在に耳と心を閉ざし背を向けたときが真の棄教なのだろう。

いろいろな解説を読むなかで「最終的にロドリゴにとって、キチジローが師となった。」という解説があったが、キチジローの存在の有無はロドリゴとフェレイラの残りの人生の違いとなる。

この解説を読んで、キチジローが、遠藤さんのこの後の小説の「侍」に登場する中間の与蔵と二重写しになって、遠藤さんが描く「救い」とは、常に「寄り添う存在」がテーマだったということを思い出した。


ラストの切支丹屋敷役人日記のエピローグの部分は、ほんの少しだけ原作から踏み込んでいる。
というか、ここは小説では読者に想像と解釈を委ねるところなので、ここはスコセッシ監督が解釈した内容になる。

かつての篠田正浩監督による邦画版「沈黙」の方は、原作者の遠藤さんが納得がいかず、ラストシーンの削除を求めたらしい。
篠田監督は、その要請に応えなかったので、この映画は遠藤周作の原作「沈黙」とは、メッセージが別物になってしまっていると言っていい。篠田監督が勝手な解釈をした「沈黙」ということになる。

スコセッシ監督のラストシーンのほうは、遠藤さんが存命ならどう思うだろうか?

篠田監督とは異なりスコセッシ監督の表現は、控えめだけれどもトモギ村のかくれキリシタンに対するリスペクトが最大限に表現されていたように思った。

おそらく遠藤さんも、このラストには共感し納得してくれるだろう。

中盤の、(その時は重要さに気づかない)ほんのちょっとの挿入場面が最後に非常に重要な意味をもったことになるのだが、この挿入は遠藤さんの原作の流れを全く壊さず、最後の切支丹屋敷役人日記のエピローグの謎解きにつながった。

この映画のラストはとても良かったと思う。

ラストで、ロドリゴの「沈黙の声」に対する想いが示されたことに賛否はあるのかもしれないが、この作品の結論が「(神の)沈黙」で終わらないためには必要だった。

スコセッシ監督に拍手を贈るとともに感謝したい。

きっと遠藤さんも理解して喜んでくれるように思う。


【ネタバレ注意。ストーリーの内容に触れているところがあります】  

映画「沈黙サイレンス」がついに公開された。

気になってしかたがないので、いろいろとネットを検索しているからかもしれないが、世間一般でも関心が高まっているようにも感じる。 

22日の首相動静によると、安倍首相もご覧になったようだ。

キリスト教の信者のみならず、多くの人に見て欲しいと思うが、 この作品を観るうえでの大事なポイントがある。

この作品は17世紀のキリシタン弾圧下の日本を舞台にはしているが、 いろいろな意味で、あくまでもフィクションであるという点だ。

もちろんキリシタン弾圧は歴然とした事実で、遠藤さんの史実としての時代考証の信憑について言いたいわけではない。 

ただ物語を設計するうえでは、歴史上の出来事を踏まえ、記録に残る人物像を膨らますという作業がある。
この小説においては、物語の中で遠藤さんが小説世界で必要とする人物像があったように思え、そのために、その小説世界の人物像が必ずしも実在の人物と一致するとは限らないという点だ。

つまりフェレイラや井上筑後守という人物が、どういう人だったかということは、この小説ではあまり意味をなさず、遠藤さんの物語「沈黙」におけるフェレイラ、井上筑後守 として観る必要がある。 

キリシタン迫害も主人公ロドリゴのモデルとされる宣教師キアラの存在も事実だけれども、歴史ドラマとして観るのではなく、遠藤周作さんの心の内側の宗教的葛藤を表現した宗教的な物語として観ないと、この作品が問いかけるメッセージを見誤ると思う。

「沈黙」の、17世紀のヨーロッパ社会の人間が全くの異文化の世界に飛び込むという設定は、読者もまた江戸時代の禁教令下の日本に連れて行かれるようだが、あくまでもここは、遠藤さんの物語「沈黙」の世界だ。

ロドリゴの旅は、日本で宣教に当たっていたフェレイラを探すことから始まるが、この目的で始まった過酷な旅の目的地は形而上的にはまぎれもなく地獄で、メタファーとしてのユダもサタンも登場しているのではなかろうか?
「形だけ踏めばいいではないか」という通詞の囁きは、メフィストフェレスの囁きのようだ。

その地獄のなかでロドリゴが最終的に出会う踏み絵のキリストが、真のキリストなのかどうかということが、神学的に論点になるところなのかもしれないが、遠藤さんのこの物語においては紛れもなくキリストとして描かれる。

作者の遠藤さんの分身とも言えるロドリゴの旅路はキリストと出会う旅で、この小説世界のなかでは読者もロドリゴと同化しているからだと思うが、遠藤さんのこの物語における「苦しみに寄り添う神」の登場に、頭で考える以前に、心が反応し魂が揺さぶられる。


しかし、今回の映画化のなかで、少し気になり始めていることがある。 

まだ予告編映像を見ただけなのだけれども、小説の中では「神の沈黙」を感じさせる無常感と虚しさの漂うモキチとイチゾウの殉教の場面が、映画となった映像では「キリストの受難」のかたどりとなっているように感じるということだ。

ロドリゴは、踏み絵のときだけではなく、モキチとイチゾウの殉教を目撃することで、受難を受けるキリストとも出会っているのかもしれないのである。

小説とは違う映像という生の表現手段によって予期せずに作者である遠藤さんの意図を離れているのかもしれないが、これは「沈黙」という物語世界のなかで、スコセッシ監督の手によって新しい本来の物語が誕生しているという見方もできるかもしれない。 

また小説では、踏み絵を踏んだ後のロドリゴについては、切支丹屋敷役人日記として第三者視点で描写されるが、坦々とした描写の中で「寄り添う神」がチラッと姿を示す。

遠藤さんは「思想的漂泊をし続けていた」とコメントで教えてもらったことを思い出す。
その、キリストを探しキリストを求めた漂泊の生涯を想う。


正直、観に行くのが辛いし、怖い。

しかし観に行かねばならないと思っている。


1月2日にNHKのBS1で、今月の21日に封切りされる映画「沈黙ーサイレンス」についてのドキュメンタリー番組があった。 

お正月の2日に2時間に近い番組を放映する、NHKの興味の持ちように少し驚く。

映画「沈黙」は、日本人作家の日本を舞台にした小説をアメリカ人が制作する映画で、日本人俳優も多数出演するということもあって、日本で関心が高まりやすい設定にはなっている。

ただしキリスト教徒ではないほとんどの日本人にとっては関心の持ちにくい題材だし、殉教、棄教という宗教的テーマは、信仰心がなければ理解してもらえるかは、正直、疑問だ。


また、NHKのドキュメンタリーを観る限りでは、キリスト教徒であるアメリカ人の研究者であっても、小説「沈黙」における日本のキリシタン迫害を「権力者による宗教弾圧」というシンプルな敵味方の構図で理解してしまっているような感じがした。

「転ぶ」という言葉を「棄教」ではなく、文字通り「倒れる」「つまづく」という理解でいいとしてしまっていた大学での講義の場面もあった。

単純化した構図にしてしまうのはアメリカ人の特性だろうか?

やはり文化の違いによる民族気質の違いを感じてしまう。


小説をよく読めば、権力の側にいる井上筑後守、通詞も、元はキリシタンと思わせる描写があり、ほとんどの登場人物が一度は福音を受け入れたキリシタンという人物設定になっている。

現在の日本人キリスト教徒が、ほとんど逃げ場のない弾圧のなかで自分がどうなっているのかを仮定として想像し自己投影してしまう複雑さが「沈黙」にはあるはずだ。


「沈黙」理解のためには、当時のキリシタンに対する深い理解が必要な感じがする。



私のほうも、封切りの前は好奇心があったのに、なぜか戸惑いが湧いてきて、観たい気持ちと観たくない気持ちが錯綜している。
私の場合は、映像化された遠藤さんの小説「沈黙」の世界を、正視するのが怖いのかもしれない。


とにかく

キリスト教徒ではない日本人にはわかりにくく、

キリスト教徒であっても外国人の場合は深いキリシタン理解が必要で、

日本人キリスト教徒であっても極めてナーバスな内容で緊張を強いられる。


「いったい、どういう人に向けた映画なんだろう」と思ってしまうマーケティング視点に乏しい「作りたいから作った」映画で、おそらく興行的にはあまりヒットはしないだろう。


実は、篠田正浩監督の1971年の邦画版「沈黙 SILENCE」も私は観ていない。

この邦画版は、チラッと聞いた内容では原作からかなり離れているところがあるようだったので、一瞬で観るのがイヤになったことを覚えている。


やはり殉教、棄教という題材は、やはりとても難しく重い。



ただし・・・


今回のアメリカ映画版は、一度は神学校に入ったこともあるというスコセッシ監督が、映画化するために28年間もこの小説と向かい合ってきた時間の重さがある。

スコセッシ監督とそのスタッフの、小説に対する理解の深さや想いの強さは、ドキュメンタリー番組でのインタビューと、挿入される予告編画像で充分に伝わってくるものがあり、やはり心が動かされた。


興味深いのは、小説では無常感が漂う描写であったモキチとイチゾウの殉教の場面が、映像によるリアルな表現になったために、苦しみを肉眼で直視することになったということだ。

スコセッシ監督もインタビューで「撮影現場のその場にいた全員が共に苦しみ、神の存在を意識した。」語っている。


もしかしたら小説の世界で遠藤さんが設計した意図が、映像化によって自然に離れ始め、遠藤さんの意図とは異なったところに、感動の光が当たっているかもしれない。


天国の遠藤さんも、良い意味で小説と映画という手法の違いによる結果に驚いているかもしれず、感想を聞いてみたい映画の仕上がりになっているような予感はする。


躊躇しながらも、やはり私も観に行くのだろう。

NHK大河ドラマで戦国時代が舞台になる時は、キリシタンの武将が登場することがあるが、今年の「真田丸」では明石全登という武将が登場した。
高山右近、蒲生氏郷、黒田如水、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠のあたりまでは名前がでてもそこから先はクリスチャンでも知らなかったりするのだが、それ程に有名ではなくても、やはり信仰を持ったがゆえに大きな歴史のうねりに巻き込まれた武将がまだまだ存在し、古文書に名を残しているという事実に、また好奇心が疼く。

関ヶ原合戦当時の総人口は1200万人とも2000万人とも言われているようだが、最盛期(1610年頃)は60万人まで増えたというキリシタンの人口を当てはめれば、人口構成比としては現在の3倍以上の比率になる。

明石全登が登場している大阪夏の陣は、ちょうど高山右近が日本から追放されマニラで亡くなった年(1615年2月)の夏でもあって、キリシタン禁教令の出された1612年とも合わせて見れば、「豊臣氏の滅亡」という歴史上のポイントは、キリシタン史的にも歴史の転換点だったということになる。
明石全登も、大阪城で徳川の大軍を目の前にして後々のキリシタンの行方をも想っただろう。

来年の2月7日に日本のカトリック教会にとって念願の高山右近の列福式があるが、右近がマニラに流された時の日本の有り様にも想像力を働かせ、感覚的に少しでも実感の伴うものにしたいと思ったりする。


くしくもこの高山右近列福式と重なるイベントとして、もう一つキリスト教界隈で大きな注目を集める話題は、遠藤周作さんの代表作で問題小説でもある「沈黙」が映画化されて、年明けの2017年1月21日から公開されるというニュースだ。

高山右近の国外追放以降のキリシタンの歴史というのは潜伏キリシタンの歴史になるが、「沈黙」の舞台は、世界史でも類を見ない熾烈な迫害が記録として残るそのキリシタン禁教令下の日本になる。

ハリウッドのマーティン・スコセッシ監督によって映画化されていて、近いうちに公開されるという噂は、今年の年初には既に伝わっていた。
年内の封切り公開とされていたので少し遅れたが、ホームページでは既に予告編が公開されている。 

一般的にもシリアスで重い映画には違い無いが、カトリック信者、キリスト者にとっては当事者意識を持たざるを得ない為にかなりきつい映画で、予告編でちらっと見た描写だけでも精神的に充分に滅入るものがあった。 
全編を映画で見れば、小説で想像するものとは比較にならない映像の生々しさによって大きく心が揺さぶられるのは間違いない。

そもそもハリウッド映画にむいているような小説では無い。
小説では主観描写と客観描写を混ぜることで「直接語らずに間接的にわかる」ところがあるが、客観描写であるオランダ商館員日記や切支丹屋敷役人日記の部分を、映画でどのように表現するかは難しいとも思う。
同じ遠藤さんの純文学作品でも「侍」のほうが舞台となる場所が多くて多様だから映像的に絵になり易く、こちらの方がおそらく映画化に向いていたとも私は思う。
それでも「沈黙」が映画化されたのはスコセッシ監督の20年越しの想いの強さによってらしい。

生前、遠藤さんもスコセッシ監督の代表作である「タクシードライバー」について、ご子息に「あの映画は観た方がいい」と語っていたらしいから通じ合う何かがあるのかもしれず、スコセッシ監督による映画化は天国で喜んでいるかもしれない。


かつて日本のカトリック教会では長崎教区などで、小説「沈黙」は、信仰の為には読まない方がいいという評価がされたらしい。
現代の日本のカトリック教会がこの映画版「沈黙」に、どのような反応をするかはわからない。
ただし聖職者も含めた感想は多く出るような気はするし、聖職者ほど積極的に語ってほしい。

この映画をどのように受け止めるかによって、信仰にどのように活きるのか、活かされるのかが大きく変わるのだろう。
受け止め方によっては、逆効果ともなり得る。

とりあえず見に行ってみようというのではなく、この映画の場合は小説の方から注意深く細部も読み、どのような受け止め方をするかイメージをしながら見に行った方がいいかもしれない。

観に行くタイミングを図りかねているが、それでも観に行くことになるのは十中八九、間違いはなく、四旬節を迎えた中で、時に直視できなくなるような心の痛みを抱えながら観るのかもしれない。


待降節の最中にあり、希望を持って主の降誕を迎える時なのに、なんともタイミングを外した内容になってしまった・・・

それ程にこの映画は気になって仕方がない・・・

↑このページのトップヘ