カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:世の中のことについて > 戦争について

ISILのテロで亡くなられた後藤さんの、生前のツイートが話題になっている。

リツイートが4万を超えているという。

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。−そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」

後藤さんは、もうこの世にはいない。

亡くなられた後で見たので、まるで天国から
ツイートしているみたいで少し驚いた。
生前にこのような
ツイートを残されていたということに、何か不思議なものを感じる。


聖書で似たような意味のところを探してみた。

「人を裁いてはいけない」という意味ならば、
マタイ福音書7章、ルカ福音書6章、ヤコボの手紙4章
のあたり。

「怒らずに我慢する」というところに目を向けると、
詩篇37章8節
「怒りをやめ憤りを捨ていらだつな。それは悪にすぎない」
のあたり。


後藤さんに教えた「アラブ兄弟たち」というのは
、「霊的な兄弟」という意味ならば、キリスト教徒の可能性もないわけではないが、地域的なことから推測すれば、おそらく(親近感からの「兄弟」という意味で)ムスリムなのだろう。

イスラム教はクルアーンだけではなく聖書も啓典として内包し、キリスト教徒も「啓典の民」と呼ぶそうだから、イスラムの教えでもあるのかもしれない。


シラ書1章

「向こう見ずな怒りには弁護の余地がない。欲の力が彼を滅びに導くからだ。忍耐の人は時がくるまで耐え忍び最後に喜びを知る」

というのもあった。


私には、 ISILが神の裁きを受けるとどうなるかが、彼らにとっての啓典にも書かれているように感じた。

後藤さんのほうは
、「おそらく『多くの人が思っているあの場所』に今はいる」と私も思う。

なんだか最近、カトリックの話題からどんどん離れていってますが、話の流れでどんどん流れます(笑)

ということでまた「永遠の0」の話になりますが、エンディングテーマは、サザンオールスターズの曲が選ばれてました。

私の印象では、なんとなくしっくりこない感じが・・・

こういうところは好みが人それぞれなので、意見が割れやすいところかもしれません。

さだまさしの「防人の詩」みたいなほうがよかったんじゃないか・・・そんなことを思ったり。

かなり古い曲ですが「防人の詩」は万葉集をもとにしたメッセージ性の強い曲でした。

さだまさしさんはファンでもないし、それほど好きな歌手とも言えないのですが、この曲はただならぬ哀感が籠っていて、聞いているとちょっと動揺してしまう感じ。

日本人のDNAの琴線に触れるのでしょうか?

「防人の詩」がテーマ曲となった映画「二百三高地」は日露戦争の203高地攻防戦を舞台にした話。

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」では、203高地攻防戦は「日本が近代文明の戦争の恐ろしさを、尋常ではない戦死者の血、犠牲によって知ることになった。」と記されました。

この戦いの指揮官が乃木大将。

司馬さんの描いた乃木大将は、映画「二百三高地」では仲代達矢さん。NHK大河ドラマでは柄本明さんが演じました。
尋常ではない戦死者の多さ、その重さに憔悴していく姿が非常に印象的でした。

犠牲の多さは、乃木大将の指揮の問題もあったかもしれませんが、やはり日本はまだまだ近代戦というものを経験していなかったということだったのかもしれません。

NHK大河ドラマ「坂の上の雲」はそれほど前ではないので柄本さんの演技を生々しく覚えています。

戦争では勝利を収めた乃木大将ですが、二人の息子を戦死で失い、自身も妻と共に明治天皇崩御のときに殉死。

乃木大将殉死は、当時の日本でも、とてもショッキングな出来事で世の中に与えた影響も大きかったようです。

森鴎外の「阿部一族」も、乃木大将の殉死がなければ出来なかったかもしれない・・・

この殉死をもって、近代戦争のもたらす犠牲の大きさをしっかり認識すべきだったのかもしれませんが、なぜか時代は逆に進みます。

近代文明のもたらす負のエネルギーに対し、時代的にまだ無防備で警戒感も希薄だったんでしょうか。

乃木大将の苦悩や死を、日本人の心情をもって理解していくことも大切な歴史の学びのような気がします。


【※ネタバレ注意】

映画は公開中で、まだ観てない方もいると思いますので、なるだけストーリーには細かく触れないように書きますが、感想を述べるにあたってラストについて少しふれますので、白紙の状態でこれから映画を観たい方は映画鑑賞後に読んだ方がいいと思います。
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以前、小説の「永遠の0」について、このブログでも読後感想を書いた事がありました。

今では、なんと400万部を越えたようです。

映画も公開され、今ではかなり話題になってます。
ネットのレビューをいろいろ見てみましたがとても評判がいい。

邦画は(最近は洋画も?)失望する事が多いのでどうしても慎重になるのですが、今回は見ることに決め、観てきました。

原作本は、状況説明や描写の細かさによって真実に迫っていく迫力があった反面、感情描写でやや過剰なところもあったのですが、映画はその双方が少し薄まった感じ。

しかしストーリーそのものがやはり重い。

人の命の重さ。家族との絆。「必ず帰ってくる」という言葉に込めた想い。もう胸に迫るものがあります。

映画のエンドタイトルが流れると普通は席を立つ人がいるものですが、スクリーンが閉じて中が明るくなっても、ほとんどの人がすぐには席を立たず一瞬、間があるぐらいの強い余韻でした。

神風特攻の実像を明らかにする映画でもあります。

技術的に米軍戦闘機との性能差は歴然で、攻撃目標である艦船(空母)にたどりつくことが非常に困難であるうえに、接近してもVT信管(金属探知で15m内に近接したら爆発)を装備した対空火力の前では全く無力であったことを知りました。

圧倒的な戦力差。単なる物量差ではなく技術的にも完膚なまでに・・・

組織としての思考停止のなかで、特攻という名の死の強要が行われ、戦果がなくても止めなかったという事実。

望まないながらも覚悟の上で自分の命を国の為に捧げたという事に対し、その名誉を守り鎮魂慰霊の気持ちが必要ですが、軍という組織が国民を守るどころか国家権力のもとに兵士である国民(個人)に対し死を強要したということは絶対に忘れてはならず、民族の歴史としてその記憶を受継いでいかなければならないとあらためて思いました。

平和と民主主義の大切さを噛みしめてしまう。


映画を観てあらたに疑問に感じたところも、実はあります。

厳しく特攻についての無謀さを明らかにしながらも、ラストは結局ヒロイックに描いてしまったのではないかということ・・・

圧倒的な戦力差のなか、全く目的を達成することなしに次々に撃ち落とされ、命を失って行く仲間達を目の前に、主人公の意識も「帰りたい。死にたくない」という意識と共に「死なせてしまった」後悔や「死なせたくない」という気持ちが強まっていきます。

結果的には、神業のような自分のゼロ戦パイロットとしての技量の全て発揮し「一矢報いる」というような結論になってしまったようにも感じる。
あれほど、家族のもとに帰ることを決意していたのに。

極限状況下のなかでの戦友の絆というものは当事者でなければわからないものがあるのかもしれませんが・・・

戦争末期(というより後期)軍の幹部は、薄々敗戦を自覚しながら「一撃をもって講和」という虚像にとらわれていたことが近年あきらかになっていますが、「一矢報いる」ということでは、そういう軍幹部の思いと同じになってしまう。

原作者の百田尚樹さんが「もう時間的に戦争の真実を体験者に聞く事ができるのは今しかない」という問題意識を持たれたことは大変共感するのですが、その事実を伝えるために「小説」の手段をとってしまったことも少し疑問に思えてきました。
小説という手段をとったために事実とフィクションが混ざってしまったためです。

もっとも小説を読んで映画を観て、より理解が進んだがゆえに感じてきたいうことなので、百田尚樹さんが問題提起したことの意義は素晴しいものがあります。


余談ですが特撮も凄い。
空母やゼロ戦の雄々しさや空と海の美しさを魅せたというか・・・臨場感によって映画の世界に入り込む手助けになりました。
ストーリの重さと対照的になるのですが、それはそれで不思議と印象を強めました。

とにかくこの映画は、いろんな人に見て欲しいと思います。

「永遠の0」のヒットを軍国主義の復活というようなステレオタイプな感じ方をしている人に、特に観てほしいと思います。

トリエント・ミサについて書こうと思いましたが、知見が無いなりにも内容についてある程度細かく書くか、それとも心情吐露ぐらいにとどめておくか、迷ってしまってなかなか先に進みませんでした。

そういうわけで今回は別の話。

11月に新アメリカ大使として着任されたキャロライン・ケネディさんについての話です。

速やかに震災被災地を訪問されたケネディ大使ですが、今度は今週の11日に長崎を訪ねたらしい。

着任早々、次々に日本の各地を次々に訪問する。
なかなか行動力のある人です。

被災地の次が長崎。

長崎よりも、米軍の戦略拠点の沖縄やトヨタがある名古屋などを訪問した方が、アメリカ大使らしい感じがしますが、ケネディ家はアイリッシュ系のカトリックの家柄なので、長崎訪問は信仰心に基づく意向を少し感じます。

教会にも行かれてますが、なんと浦上天主堂と大浦天主堂の二つもまわったらしい。

私もカトリックなので、極めて個人的な感情ですが、この長崎訪問のニュースは少し親近感を感じました。

ケネディ大使は、浦上天主堂の「被爆の聖母マリア像」の拝観に少し強い思いがあったようです。

「被爆の聖母マリア像」は長崎への原爆投下で黒こげの痛ましい姿になってしまった旧浦上天主堂の聖母マリア像。
アメリカ人にとっては、やましさというか良心の呵責を感じさせられる御像かもしれません。

あえて直視しようというケネディ大使の姿勢に私は好感が持てました。

この「被爆の聖母マリア像」は、確か昨年か一昨年に、アメリカを巡回したのではなかったでしょうか?

ケネディ大使は、その時の巡回の事を聞いて、存在を知ったのかもしれませんね。

日本国憲法の前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という理想がうたわれているのですが、最近の国際政治の中で、私たちの日本は、その理想とは程遠い地域であることを痛感させられます。

ミサイル発射を予告するとても平和を愛する諸国とはいえないあの国。

「本当に発射するのではないか?」という思いが頭をよぎります。

「平和憲法があるのだから大丈夫」と思う人はさすがに少なくなってきましたが、私みたいに「日米安保があるのだから大丈夫」と思う人はまだまだ多いかも。

しかし・・・

米軍基地が直接攻撃されない場合は、はたして即座に反撃するだろうか?
日本がアメリカに感謝する最大のタイミングを待って恩を売るように反撃したりして・・・

日米安保は安全保障の要だし、アメリカの反撃を疑うわけではありませんが、昨今の状況は「日米安保に頼りすぎる考え方」も「平和ボケ」ではないかと思わせる緊張感があります。

戦争抑止のための日本独自の防衛力、例えば「ミサイル発射を予期した時点で発射基地を叩く」というような能力について少なくとも議論はする必要はあるかもしれない。
いや、議論が必要という考えがもうすでに「平和ボケ」なのかも・・・

お隣、韓国の緊張感は日本の比ではないといいます。
核武装論や、驚く事に(反日感情を考えればという意味で)日本との同盟強化論まででているらしい・・・
隣国政権が今のクレージーな状態よりは、中国の傀儡政権に変わる方がまだましという考え方も強まっているそうです。

中国も、あの国は「緩衝地帯」という考えがあったからこそ、庇護者のような立場をとってきたわけですが、韓国が中国にグッと傾いていくと、もうどうなるかわかりません。

韓国が安全保障を中国にゆだねる「中韓同盟」がバーチャルではなくなってきた状況・・・

パワーバランスが崩れかねない危険な状況だという事を痛感します。

実はこんな状況になっても、まだピンとこない感じも正直あるのですが、世界の中でも、かなり緊迫度の高い危険な地域で私たちは今、生きているんですよね。

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