カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

カテゴリ:世の中のことについて > 震災のこと

今回の地震被害は大きく、大震災の様相を呈している。

様々な募金が行われ始めているが、それぞれに用途が違うので見極めながら複数の募金を行ったほうが良いようだ。

「義援金」という名前の募金は被災者に直接届くものになるらしい。

日本赤十字  だけでなく 熊本県  も募っている。
(※「熊本市」のサイトもあったがアクセス集中だろうか?繋がらなくなってるようだ。)

「支援金」という名前の募金は、災害被害にあった公共機関への寄付になるようで、
熊本市は、熊本城の修復再建目的の支援金を募っている。

現時点では、被災地域での救援活動に費用がかかるから、支援団体への寄付も、同時に行ったほうがいい。

カトリックの場合は、 カリタスジャパン がある。
収支報告の細かさではカトリック信者ではない方からも評価があると言われている。
カトリック福岡司教区  でも募金を募っている。熊本の教会のためにも募金が使われると思う。

このような事態を迎えての支援というのは、物的支援、経済的支援というものが、先ずは有効で効果的な支援だ。

こういうお金の話を主とするならば、
世の中の声の中には
「無理のない範囲で支援して普段通りの生活を続ければいい」
「自粛して経済活動が冷え込めば、結果的に被災地支援にならない」
という意見もある。

理屈に合っていて現実的な考え方だと思うが、自分本位な表現で、傷ついた被災者への共感、祈りの姿勢に乏しいような気がする。
「自分の普段通りの生活は変えたくない」という気持ちがストレートに表われているようでザラザラした感じだ。

もしかしたら 「被災地の人たちが悲惨な状況にあるなかで普段通りの生活を続ける」ことに対する「やましさ」から、募金額が増えるということもあるのかもしれないが、 多くの場合は 「無理のない範囲で支援して普段通りの生活を続ければいい」という姿勢ならば、人間とは弱い生き物だから 、日常的な空気感のなかでは 募金をしようと思う心の動きも鈍るのではないだろうか?

経済的に豊かな人は違うかもしれないが、庶民的には、 募金しようと思えば何かの支出を削ることにはなると思うし、そういう(募金に回す為に自分の事での)支出抑制は、あって当然である。

世間で言われる「自粛」の定義がよくわからないが、被災地被災者というかたまりではなく、傷ついた一人一人の人間の苦しみ悲しみに寄り添うためには、自分は傷つかずに経済の好循環によって支援の有効性だけを満たせば良いということではないような感じがする。

「やましさ」という心の動きも、被災者に対する心が疼きから生まれるものであるかもしれず、やはり被災者への同情や共感が出発点にあって事は動く。

心の疼きは祈りの起点だ。

キリスト教的には、被災者の為に祈り、犠牲を捧げる事は尊い。

マザーテレサの元で働いていた 片柳神父が次のようなメッセージを発している。

「祈りなど無駄だ」と言う人がいますが、そんなことはありません。相手の顔を思い浮かべ、相手の悲しみと苦しみを想像しながら必死に祈るとき、自分のすべきことが分かるからです。

祈りが、犠牲や行動を促すというメッセージである。

「祈りと共に行動する」あるいは「祈りながら行動する」
私はこちらの姿勢のほうが、被災者に対して誠実であり、素直な感じがする。


人間には、利己的な心と利他的な心があって、 この二つの心の間を日々、振り子のように 揺れ動く。

利他的な方に振れたときに始まる心の動きというのは、すでに祈りが始まっているということなのかもしれない。

やはり苦しむ人が多くいる今の状況では、振り子を利他的な気持ちの方にあえて振った方がいい。


熊本は、縁者がいる地、思い出がある地でもあるので、大きな震災の様相となりとてもつらい。

被災地の状況の映像はもとより、ボロボロになってしまった熊本城の映像が、今回の被害の凄まじさ、痛ましさを語っている。

熊本城の姿は、辛く悲しい。
 
http://news.yahoo.co.jp/story/151

何ができるかを見極めながら支援と祈りを続けていきたい。

「胸に手を当ててよく考えてみろ!」という言葉は、言い争いの時のキメ台詞ですが、今回は台詞ではなく、所作の話です。

国旗掲揚、国歌斉唱のときに、外国の元首が、「胸に片手を当てる」姿を見ることがあります。
敬意を示す少しスマートな所作。

実は、カトリック教会のミサでも、同じ所作があります。
もしかしたら聖公会など他のキリスト教の礼拝でもあるのかも。

「侍者」(ミサ中、司祭に付き従う主に少年少女の信者)を務める場合、片手に何か持つときは空いたほうの手は常に胸に当てたままにするんです。

侍者の練習光景では「片手はぶらぶらさせない!胸に当てる!」という注意が、指導する大人のお決まりのセリフです。

外国の元首の「胸に片手を当てる礼」は、西欧諸国に多い感じもして、もしかしたらキリスト教と関係があるのかな?と思いました。

なんでこういう話を話題にしたのかといえば、先日の3月11日に、公共施設で弔旗が掲げられていました。

やはり「ドキッ!」として、震災がもたらしさ重さを思い起こします。

弔旗を掲げたからといって、具体的に被災者の為に役に立つようなことは何もおきない。

しかし苦しみと哀しみに寄り添う気持ちを弔旗で示すことは、とても大事だと思いました。

弔旗に対してどのように接したらよいのかその時点では咄嗟には思い浮かばず、そのまま通り過ぎてしまいましたが、もしかしたら少し立ち止まって「胸に片手を当てる」をしても良かったか・・・

そんなことをせんでもいいのですが、さりげない所作ですから、してもそれほど違和感は少ないと思います。

何かを感じても行動をとれないことはあまりにも多く、ほんのささやかな所作ですが、自分の身体を動かすことで行動を促すトリガーになるような、何か意味があるような感じもしてきました。

立ち上がるときに「よしっ!」とかけ声をかけると元気が湧くように、目に見える最初の一歩が大事なような気がします。

「胸に手を当ててよく考えろ」という言葉は人から言われるとカンに障る言葉ですが、自分自身に投げかける言葉としてはいい言葉なのかもしれません。

被災者の苦しみ哀しみを「胸に手を当てて」思い起こす。

やはりイメージとして「心」は脳ではなく胸の中にあるような・・・
そんなこともまたまた思ったり・・・

弔旗と「胸に片手を当てる」所作であれやこれや考えた一日でした。

震災1年を迎えました。

時事通信のHPに「震災100枚の記録」という被災画像のコーナーがあり、あらためて今回の震災の凄まじさを思い出しました。

建物や街の凄まじい損壊の画像がならびますが、一番印象に残ったのは、雪の降るなかカップラーメンを握りしめ、たき火のお湯が沸くのを待つ子供の写真。
http://www.jiji.com/jc/pp?d=pp_2012&p=latest-photo820

頭をガツンとたたかれた感じ。
激しく反省しました。

やはり知らず知らずに、震災の被害に目を背けていた。

地震、津波の発生からは1年ですが、今でも震災は続いているという認識に持たねばならないと思います。

世の中全体も、ガレキ処理の受入れ問題などを知るにつけ、被災地の苦しみに鈍感になってきているような感じがする。
利他的な心が広がっていた時代の空気が、やはり放射能の恐怖によって、利己的な心ももたげているというか・・・・・

しかし「福島の子供の受入れを拒んだ保育園がある」と知って、これはなんぼなんでもあかんやろ!と思った。
イメージで拒んでしまうその臆病さにあきれる。

というかこれは人権蹂躙じゃないのか!!

「利他的な心」「利己的な心」が世の中で激しくぶつかり合っていますね。

しかしこれは自分の心の中でも同じ。

四旬節でもあるこの次期に、被災者のために祈るとともに、自分の心の中を見つめ直して「利他的な心」が勝るように、祈りたいと思います。

原発事故という二次災害、それに伴う電力不足という事態が震災被害の情報を希釈してしまい、私自身も被災者の人達への思いを鈍らせてしまっていたのではないか?

ガツンと頭を叩かれるような印象に残る話を聞きました。

被災地を回ってこられた神父様のお話。

被災地はまだ草木が生えない砂漠のような状態、なんともいえない腐敗臭がただよっていて、ひたすら重機による瓦礫撤去作業が続いているそうです。

「実は印象に残る事があったんだけど・・・」
という前フリがあってから話が続くのですが、「震災で特に津波災害が酷かった岩手県某市を訪ねた際、海岸で祈りを捧げていたら、次第に重機が止まった。無線で連絡していたみたいでね。1人2人と次々に集まってきたんだよ。お祈りは終わりかけていたのだけどもう一度最初からやり直した。
終わった後に、集まってくれた人達が口にした言葉が『ありがとう』だった。教会はおろかお寺にも行ってなさそうな人達だったんだけどね。」
という話でした。

もしかして重機で瓦礫撤去をしている人たちも被災者だったのでしょうか?
弔う祈り、鎮魂の祈りが行われているのを見て、共に祈らずにはおられなかった心境を思うと、胸につまるものがありました。

不条理にも、一瞬にして家族を失い、家と財産を失い、故郷を失い・・・
今、やはり必要なのは鎮魂の祈りなのですね。

重機を操作する男たちの手を止める祈りの姿というものが、どういうものであったのか聞く事はできませんでしたが、神父様の祈る姿も、あいまいな姿ではなく印象に残る姿であったのだと思います。

私の祈りと行動は、あいまいではないのか・・・・・

以下の聖句を思い出しました。

「汝は冷ややかなるにも非ず、熱きにも非ざるなり、寧ろ冷ややかに或は熱くあらばや。然れど汝は冷ややかにも熱くも非ずして温きが故に、我は汝を口より吐き出さんとす」(ヨハネ黙示録第三章)
※ラゲ訳

自分の温さを、反省しました・・・・・

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