カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: 音楽について(主に宗教音楽)

ド素人なりの感想ということで音楽の話を続けます。
今回は「ドン・ジョバンニ」について。
「ミサ曲じゃないじゃないか!」と言われてしまいそうですが、このオペラは、ちょっとカトリックな感じがします。

モーツアルトの晩年の大傑作。
主人公のドン・ジョバンニってドン・ファンの事なんですね。知りませんでした。(恥)
ドン・ファンのモデルであるカサノヴァも、「ドン・ジョバンニ」を鑑賞した記録があるらしいです。

モーツアルトのオペラは「魔笛」のソプラノの印象が強いですが、「ドン・ジョバンニ」は、バリトン、バスの魅力。

シブいです!!


映画アマデウス(まだ印象を引きずってマス・・・)でも、非常に強烈で、重要な位置づけになっていました。トム・ハルスが演じるモーツアルトは、オペラのシーンを中心に、指揮をふるう場面がたびたび登場するのですが、この「ドン・ジョバンニ」の指揮の場面は、何かにとりつかれたような鬼気迫る迫力があって、もうピカイチでした。

映画アマデウスでは、第二幕 第15場 「晩餐に招かれたので参った〜地獄落ち〜」の場面だけなのですが、(それで「ドン・ジョバンニ」を語るのもどうかという感じですが)この場面はやはり強烈なインパクトがあります。

主人公ドン・ジョバンニに殺された騎士長が石像の亡霊となり、放蕩するドン・ジョバンニの前に現れる。

亡霊が「悔い改めよ!」と迫りますが、ドン・ジョバンニは悔い改めない。そしてついに亡霊によって地獄に落とされる。

怨念を持っての復讐ではなく神の使者という感じ。
幽霊と亡霊の違いでしょうか・・・

地獄があるからオペラ「ドン・ジョバンニ」は成り立つ。
やはり地獄は必要ですね。

現代人にとっての死後の地獄のイメージはどういうところなのかわかりませんが、私にとっては「無の世界」というのもやはり地獄で、最後に旅立つ時には「地獄ではない世界」を信じ感じつつ旅立ちたい・・・

ドン・ジョバンニは、俗なる日常や欲望に流される我々自身のように見えてきます。
カサノヴァはどんな気持ちで、このオペラを見たんでしょうね・・・

巨人の石像の亡霊は、後段の「レクイエム」の依頼人(死神?)の序奏ような不気味な感じで、映画のなかのオペラが映画と渾然一体となり劇中劇になっていく。その映画を私がさらに見ているわけですから映画に引きずり込まれますよね。

前回からの流れからするとフォーレのレクイエムについて書き進めるのが自然なのですが、同時にAmazonで買ったモーツアルトの「大ミサ曲ハ短調 K427」のインパクトが強烈!!

ということで今回は「大ミサ曲ハ短調 K427」についてです。

 大ミサ曲ハ短調K427グラモフォン、カラヤン、ベルリンフィルというクラッシック界の「本流、正統、王道」みたいなCD。

「はたして私みたいなド素人がこんな凄いの聴いていいんでしょうか?」と思いつつ、姿勢を正して実際に聴いてみる。 


これは凄い!

聖霊が天上から舞い降りてくるような荘厳さ!
目を閉じれば、まるでアミアン大聖堂にでもいるような高揚感!

そして重厚。まるで鎧を着ているような重さ。それも日本の鎧ではなく西洋のプレートアーマー。もう身動きがとれないというかなんというか・・・

いや、これは本当に 音楽の鎧 だと思いました。

例えばフォークミサがありそうなときの前に聴くのがいい。

1.「kyrie」「Qui tollis peccata mundi」を10回続けて聴く。
2. 頭の中でリフレインさせる。
3. 御ミサのときにギターをジャカジャカ弾きならす変な歌が聴こえてもガード


という感じ。

この曲は、モーツアルトがコロレド大司教に雇われていた時代に書かれた曲ではなく、フリーになってからの注文ではない自発的な作曲。
父レオポルトに妻コンスタンツェとの結婚を認められていなかったモーツアルトは、この曲で本気を示そうとしたそうです。

フリーになってからの宗教曲はこの「大ミサ曲ハ短調 K427」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」「レクイエム」の3曲だけらしい。
しかし、その3曲が全て珠玉の名曲というのが凄い!!

大変な曲と出会ってしまいました!

カラヤン、ベルリンフィルの演奏は、映画アマデウスのときより、少しゆったりですがこのゆったりも大変良かった。
曲の素晴しさを充分に引き出した演奏なんでしょうね・・・

やはり「本流、正統、王道」がいい!!

もうひたすら 感謝 デス。

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プレートアーマーおまけ

プレートアーマーの画像を探してみました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Maximilienne-p1000557.jpg




レクイエムは、モーツアルト、フォーレ、ベルディの3人の曲をもって3大レクイエムと呼ぶそうです。クラッシックの世界は3大なんとかっていうのが多いですね。

モーツアルトは、ホントにトリハダで感動でしたが、フォーレもいいらしい。

昨年末は、アヴェマリアでしたが、今度はレクイエムを中心にアマゾンでいろいろ購入しました。

今年の秋の荘厳司教ミサもレクイエムですので、グレゴリアンも含め、しばらくレクイエムを聴き込むことになりそうです。




ブルーレイディスクを買って、久しぶりに映画「アマデウス」を観ました。
以前観たのはかなり前で、まだ若い時。
ストーリーが暗くあまり印象も良くなかったので、もう観ることもないと思っていたのですが、昨年末以来、少しづつモーツアルトに引き寄せられている感じがして、どうしてもまた観たくなりました。

今回の感想がどうだったかというと

「かなり良かった!!」


年齢と共に感受性って変わるもんなんですね・・・

極めて軽薄で下品でありながら天才的な音楽的才能をもつモーツアルトと、自分の才能不足を自覚して神を恨み、モーツアルトに嫉妬の炎を燃やすサリエリ。
人間的にちょっとどうかという二人が主人公なのですが、自分の才能の不足にうちのめされるサリエリに少し共感を感じるようになったのは、いつのまにか自分もやはり中年のオジさんになっているからでしょうか・・・

サリエリがモーツアルトの書いた譜面を観て、曲のイメージが頭に広がり陶酔して思わず譜面を落とすシーンがありますが、若い時は、いまひとつモーツアルトの曲の魅力を感じていなかったから、サリエリの気持ちが実感できてなかったんですね。モーツアルトはシャカシャカ忙しくてうるさいと思っていた・・・
今は、モーツアルトの曲の魅力に惹きこまれ始めてこのシーンの受け止め方が全く変わりました。

老人サリエリが、至福につつまれた表情で、自分の曲ではないモーツアルトの曲を回想するシーンもサリエリの哀れさが際立っていた。

この映画は、モーツアルトの音楽が、本当の主人公なのでした。

サリエリが神を恨み十字架を暖炉で焼いてしまうシーンがあったり、救いのないラストシーンを観ると、この映画は、あまりカトリック的ではない感じもします。
モーツアルトはフリーメーソンだったという話も頭をよぎります。

しかしK427 ハ短調ミサ曲「キリエ」K626 レクイエム「涙の日」は、何か人間が創った曲とは思えない神々しさにあふれていて、私は全身にトリハダがたって硬直してしまうのでした・・・

私も一年ぐらい練習して、こういうの教会で唱ってみたいんですけど・・・

最後に蛇足。
この映画は脇役が光っているのですが、老人サリエリの神への恨み節を、じっくりと聞く立場になってしまった贖罪神父の演技がピカイチ。
とても印象に残りました。いい表情をする俳優さんでした。

モーツアルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ですが、御ミサで聴いた事がありました。
いつだったかよく覚えていないのですが、確か四谷のイグナチオ教会だったと思います。聖体拝領のときに聖歌隊が歌っていたような記憶。

やはり「きれいな曲」だなと思いました。
ただその時は数あるラテン語聖歌といっしょくたにして「やはりラテン語聖歌はいいな」というような感じ方・・・

実はよく聴いているのは(ipodですが)最近です。

モーツアルトはあらゆるところで耳にするので、どうしても食傷気味で、望んで聴こうと思わなかったのですが、この「
アヴェ・ヴェルム・コルプス」は繰返し繰返し何回も聴いてしまう。
噛めば噛むほど味が出るなんとかみたいで、10回続けて聴いても飽きない。心境の変化に自分でも驚きです。

グレゴリオ聖歌で男性のアカペラを聴いて、アヴェマリアでソプラノの良さ、テノールの良さを実感した後だったので混成4部合唱の良さを体感しているのかもしれませんね。

もちろん圧倒的な旋律の美しさというのは確かにある。

しかし心を揺さぶられるのはそれだけはなく、その歌詞にもあると思うのは、やはり私がカトリックだからなのでしょう。

目をつぶって聴いていると、いろいろなイメージが広がりますが、哀愁のある旋律と、キリストの受難を唱う歌詞は、やはり鎮魂の曲で、殉教について思わされます。

cujus latus perforatum
unda fluxit et sanguine.
貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。

Esto nobis praegustatum
in mortis examine.
我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。

のところです。

amakusasirou zinntyuuki 11

私の場合は「綸子地著色聖体秘蹟図指物・天草四郎陣中旗」などもイメージのなかに登場してきます。
漢字で書くと違和感があるけど、ビジュアルを見ると違和感はないでしょ。。。

アヴェ・ヴェルム・コルプスが、島原の空に響く情景を想像していると涙がでてきます。

美しいなメロディーですから、ちまたの結婚式場のチャペルで歌われることもあるようです。歌詞の意味を理解して歌われていないのですね。

私もイグナチオ教会で聴いたときは歌詞を理解してなかったわけで、同じだと思うとかなり恥ずかしい。というかもったいないことをした。
もう一度聖堂のなかで、御聖体を仰ぎ見つつ聴きたいと思います。

加えて、もう一言。

この一曲をもってモーツアルトの偉大さがわかる
と言われる珠玉の名曲なのに、聖堂の中で、あまり聴かれない唱われないというのは、なんとももったいないことですよね・・・

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