カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > 聖書(ラゲ訳 バルバロ訳 新共同訳)

2015年2月に書いた内容ですが、想うことがあり更新したいと思います。
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「キリスト教のお葬式は、雰囲気に暗さがあまりがない。」と言われたことがある。 

聖歌や賛美歌を歌うからだろうか?

確かに聖歌や賛美歌は、お経よりは雰囲気が明るいかもしれない。 

もちろん「雰囲気に暗さがない」というのは「しめやかさに乏しい」ということになるのかもしれないから、どちらが良いか悪いかではなく、印象が人それぞれということだろう。

とにかく、仏教であれキリスト教であれ「次の世界へ送り出す」セレモニーがお葬式。

日常生活のうえでは「次の世界」というのはあまり考えないし、丹波哲郎さんみたいに具体的にイメージできる人というのも、あまりいないとは思う。

しかし自分や愛する人の死を迎える時は必ず来る。

「次の世界」の存在を否定して全く信じないというのも人生の選択かもしれないが、いざ死を直視しなければならなくなったときに、はたして心の平穏を保てるだろうか?
「怖さ」「むなしさ」「寂しさ」「別れの悲しさ」といったネガティブな感情が、どんどん膨らむのではないだろうか。

冒頭の「キリスト教のお葬式に、暗さがあまりがない。」という印象についての話は (聖歌や賛美歌はともかくとして) やはり キリスト教 信仰 に 「復活信仰」がある ことが影響しているような気がする。                      


キリスト教 における「復活」は、神であるイエズス・キリストの復活だけではない。

聖書のヨハネ福音書11章「 ラザロの復活」は、私たち人間の「復活」 の話だ。

「わたしは復活であり命である、私を信じる者は死んでも生きる。生きて私を信じてる者は 永遠に死なぬ。あなたはこのことを信じるか」

とイエズスは、ベタニアのラザロの死を前にして永遠の生命を宣言する。

しかしラザロの姉マルタは、墓の中のラザロを称して「主よ、もう四日も経っていますから臭くなっています」という、普通に想定される冷徹なありのままの現実を告げるのである。

目前の現実に奇跡が起きることを実感できないマルタは、我々現代人のようだ。

しかしイエズスは「もしあなたが信じるなら、神の光栄を見るだろう言ったではないか」と告げる。
そして「ラザロ外に出なさい」という言葉とともに、ラザロは「復活」した・・・

淀川キリスト教病院の医師であった柏木哲夫さんは、臨終の際に「じゃあ行ってくるね」と襖を開けて隣の部屋に移動するような感じで亡くなった看取りがあったということを伝えている。 

現代においても私たちの目には見えない「復活」は起きているのではなかろうか。 


しかし、死による別れは、やはりこの世での別れ。 

このヨハネ福音書11章では、ラザロの死により悲しむ人々と接して「イエズスは涙を流された」と書かれている。
受肉によりて人となり給もうたキリストは、現実世界での別れである私達の死に涙を流す神である。 

聖書には、そのままで受け止めるのは難しく躊躇する箇所がある。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10)

先日の7月2日の主日ミサの福音書朗読の箇所であり、偶然にも、ちょうど小倉昌男さんの評伝を読んで思い浮かんだ箇所でもあった。

二者択一を迫り、突き放すような感じがして悩む。

こういう理解が難しい福音書朗読の後の説教で、どのように受け止めたら良いのかということを教えてもらえる説教はいい。 

偶然にもこの日は、所属する教会ではない別の場所で、個人的にも尊敬している神父のミサだったので、この解釈が難しい箇所を理解するうえではタイミングが良かった。

あいまいな記憶だが、以下のような説教だった
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「ふさわしくない」という言葉は、「切って捨てるような印象」があるのは確か。

ただ「ふさわしい」という言葉は「釣り合っている」という意味もあり、「ふさわしくない」という状態に対し「天秤が傾いて釣り合っていないようなイメージ」を私たちは 持つことができる。

この福音は「私たちを切り捨てるような言葉」としてではなく「(天秤が傾いていないか)私たちに問い掛ける言葉」として受け止めるべきである。

私たちは、今日までの人生での歩みの中で、神様と何かを天秤にかけているのではないだろうか?

私たちは、そういった人生の節目において、何かを捨て、何かを残してきた。いろいろと整理してきた。

わたしたちの信仰の原点には「自分のしてもらいたいことを人にする」という教えがあるが、自己本位な選択、
自分勝手に生きる選択をして信仰よりも別のものを優先したことが、はたして無かっただろうか?
そのとき天秤は、やはり傾いていたのではないだろうか?

今日の列王記のエリシャの話を私たちのこととして受け止めるならば、私たちも生活の中で、何度も預言者に出会っている。
ある時は父、母の姿で、または妻、子供、友人として・・・
そのときに、
一杯のを差し出すような 愛を込めた行いによって、私たちは神と出会うのかもしれない。

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記憶をたどりながら印象に残った言葉を羅列した感じなので、ちょっとニュアンスが違うかもしれないが、印象的には上記のような話だったように記憶している。

実際には、この私の覚え書よりも、もっと豊かな表現をされるし、とてもソフトな語り口なので、実際に説教を聞くと、はるかにインパクトがあったのだが、それを表現しきれないのがもどかしい。

乗り越えたと思えるほどに納得したとは思えないし、理解できているのかどうかは自信が無いが、とても心に響くものがあって、腑に落ちないようなモヤモヤした感じではなく、少しホッとしたような気持ちで、家に帰ることができたのは幸いだった。

書名は忘れたが、以前読んだ曽野綾子さんの本で、「聖書のヨハネ福音書21章の『愛』という言葉は、本来のギリシア語の聖書では「アガペー」と「フィリア」という二つの言葉で書き分けられている。」というようなことが書かれてあった。

曽野さんの解説では、「アガペー」というのは「理性的な愛」で、「フィリア」は「好き」というような感情的な愛というような感じだったように思う。

ヨハネ福音書21章は、師と弟子の会話が、かみあわないというか微妙にずれる場面だが、そのとき持った私の印象は、師の言葉にこめられた想いに対するペトロの理解力が足りなかかったのが原因(最近の注目ワードを使えば「忖度」できなかった?)と思ったことを記憶している。

ところが、このヨハネ福音書21章ついて、ベネディクト16世名誉教皇の2006年5月24日の講話を知って、どうやら理解力が足りなかったのは私のほうだったことに気づかされた。

サン・ピエトロ大聖堂での一般謁見での講話である。
https://www.cbcj.catholic.jp/2006/05/24/2718/

以下一部を引用する。
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【以下引用】

(前略)
完全な忠実を約束していたペトロは、主を否んだことの辛さと恥ずかしさを味わいました。
高ぶる者は、その代償として、辱めを味わいます。

ペトロも、自分が弱く、ゆるしを必要とする者であることを学ばなければなりませんでした。
ついに仮面がはがされ、信じる者であると同時に罪人である、自分の真の意味での心の弱さを知ったとき、ペトロはひたすら後悔の涙を流しました。
この涙の後、ペトロはようやく自分の使命を果たす準備ができたのです。

 ある春の朝、復活したイエスによって、この使命がペトロに委ねられます。
イエスとの出会いはティベリアス湖畔で行われました。

このときイエスとペトロの間で交わされた対話について述べているのは、福音書記者ヨハネです。そこではきわめて意味深いことば遣いが行われていることに気づきます。

ギリシア語で「フィレオー(愛する)」は友愛を表します。
この愛は優しい愛ですが、完全な愛ではありません。これに対して、「アガパオー(愛する)」は、制約のない、完全で無条件の愛を表します。

 イエスは最初、ペトロにこう尋ねます。「シモン、・・・・わたしを愛しているか(アガパース・メ)」。すなわち、完全かつ無条件に愛しているかと(ヨハネ21・15参照)。

裏切りを経験していなければ、使徒ペトロは、もちろんこう答えたことでしょう。

「わたしはあなたを――無条件に――愛しています(アガパオー・セ)」。

今、ペトロは、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみを知っています。そこで彼は謙遜にこう答えます。

「主よ、わたしはあなたを愛しています(フィロー・セ)」。

すなわち、「わたしはわたしの人間としての貧しい愛をもってあなたを愛しています」。

キリストはなおも尋ねます。
「シモン、わたしが望むこの完全な愛をもってわたしを愛しているか」。

ペトロは、人間としての謙遜な愛をもって愛していますと答えます。

「キュリエ・フィロー・セ」。

すなわち、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

 三度目にイエスはシモンにただこう尋ねます。

「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)」。

シモンは理解しました。イエスにとっては、自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだということを。

にもかかわらずシモンは、主がこのようないいかたをしなければならなかったことを悲しく思いました。それでシモンはこう答えました。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していること(フィロー・セ)を、あなたはよく知っておられます」。

 イエスは、ペトロが自分をイエスに合わせようとした以上に、ご自分をペトロに合わせようとしたように思われます。このように、神がご自分を人に合わせてくださったことが、忠実に従わなかった苦しみを知るこの弟子に希望を与えました。そこから信頼が生まれ、この信頼によって、この弟子は最後までイエスに従うことができました。 

(後略)
【引用終わり 】
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「ペトロの『フィロー・セ』という返答には、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみがある。」

3度目の「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)」という主イエスの問いかけによって、「『自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだ』ということをシモン(ペトロ)は理解した。」


かみ合っていない会話と思っていた会話は
、かみ合わないどころか極めて意味の深い会話だったのである。

こういう感動的な深い解釈があるということに、私は気づかなかった。

「人間としての謙遜な愛」「人間としての貧しい愛」という解釈によって「フィリア」という言葉の味わい深さを感じたような気がした。


「アガペー」の愛は、キリストの教えの根にあるものだけれども「わけへだてなく愛する」という教えに対し、時に困難さをおぼえることは少なくない。

度々、罪をおかす自分の未熟さも実感する。

しかしそういう不完全な貧しい愛(フィリア)であっても、主は受け入れてくださるというところは、キリスト教の良さだろう。


この「二つの愛」という概念は、曖昧な日本人の感覚では理解が難しいところで、キリスト教の宣教においては、ポイントになるところなのかもしれない。

アメリカでは人工妊娠中絶に反対するプロライフ運動が盛んで、大規模なデモが行なわれる事があると聞いた事があった。

ワシントンで行なわれるマーチフォーライフというデモは、参加者が50万人にもなるらしく、フランシスコ教皇も「祈りを持って参加する」というメッセージを出されている。

いままで知らなかったが、このマーチフォーライフは2014年から日本でも行なわれているらしい。

2016年の今年も、先日の参議院選挙があった7月10日日曜日に東京であった。
優生保護法が成立したのが7月13日なので、毎年7月の第二日曜日に行うことにしているようだ。

「脱原発デモで「子どものいのちを守ろう」と叫んでいるひとが中絶を容認していたら、それは木を見て森を見ない態度と言わざるをえません。」

と代表の池田さんはネットで語っている。

  http://prolife.jp/mfl.html

マザー・テレサも「平和に対する最大の脅威は中絶」であり、「中絶の現実に比べればどんな悲惨な戦争も驚くに値しない」という言葉を残したらしい。

マザー・テレサが来日した1981年から35年も過ぎているのに日本の社会に改善の兆しはない。


プロライフ運動に対しては、なぜか日本のカトリック教会も反応が非常に鈍い。
無反応に等しい状態といってもいい。

「いのちへのまなざし」という司教団メッセージが出たことはあったが、安保法制反対、憲法改正反対というような体制批判のためにそそぐエネルギーには遥かにおよばない。

例をあげれば、カトリック正平協が出している「すべての人のいのちと平和な暮らしのために。教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙出来ない」という冊子がある。
 
例によって、ごちゃごちゃと体制批判政権批判がいろいろ書かれている。

ところが「教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙出来ない」と表紙に書いておきながら、堕胎という最もわかりやすい「人間のいのちと尊厳に関する問題」に対する記述は一言もない。

正平協にとって、こういう言行不一致は気にならないようだ。

美しく聞こえる言葉は、共産主義に迎合したリベラルな政治活動をするためのプロパガンダで、堕胎によって命を絶たれる胎児に対しては黙殺するのが現在の日本のカトリック正平協の姿だ。

美辞麗句をいくら並べても本当の弱者に寄り添う姿勢は全く見えない。
 
カトリック信者でもカトリック正平協にそっぽを向く人が少なくないのは、こういう偏向的で偽善的なところが嫌なのだろう。


アメリカのマーチフォーライフでは、「見捨てられた人のために口を開け(箴言31-8) という聖句が引用されるらしい。

「もの言えぬ人の命を守る」ためには原点にあるプロライフについてスルーすることはありえないという素直な動機が、
50万人デモという大きなうねりとなっている。

日本のマーチフォーライフ代表の池田さんは、ワシントンDCの50万人デモに参加した印象を、次のように語っている。

やさぐれた思春期以来、こんなにも希望に満ちた光景に出会うのは初めてでした。世界が変わりました。そして、ここから世界が変わると確信しました。興味は喜びに変わりました。気がつけばハッピーの渦のなかにいました。もはや誰も、やさぐれている必要はありません。ここに来て声をあげるのです。傷を負っていたひとも笑顔で前を向きます。いのちを守ろう! 一点の曇りもないその思いから、世界は変わるでしょう。政治が、経済が、そして表現の可能性が変わるでしょう。

中年になっても私は「やさぐれた」ままだが、池田さんは「マーチフォーライフ」によって閉塞感から既に脱出されているように感じた。

歴史の教科書にその名前が登場するグーテンベルクは活版印刷の発明者だが、15世紀のこの発明は人類の歴史上での大発明とされている。
中世ヨーロッパは教会が社会の中心にあった時代なので、活版印刷の発明は、世界で最初の印刷聖書の制作に繋がる。それがグーテンベルク42行聖書である。 
1ページの行数がその名のとうり42行の行数になっていて、言語はラテン語のヴルガータ聖書である。

後にマルティン・ルターがドイツ語訳聖書を作るが、活版印刷という技術が無ければ、このドイツ語訳聖書も増刷できなかったので、活版印刷は宗教改革に大きな影響を与えたとも言われる。

グーテンベルク42行聖書は、現在、世界で48部あるそうだが、その所在地がWikipeに載っている。 
日本では、慶応大学(完本)と東北学院大学(不完全本)にあるようだ。
慶応大学の聖書は、丸善が1987年に創業120年事業で購入したものらしい。

Wikipeには載っていないが、飯田橋の凸版印刷の印刷博物館にも、1ページの状態のものがある。
以前現物を見たことがあったが、印刷の仕上がりが悪いという感じはしなかった。
文字は、ブラックレターと呼ばれるゴシック体で、極端に縦線が太く横線が細い。
読みにくいが重厚で表情があり、見ているだけでグレゴリオ聖歌の空耳が聞こえてくるような書体である。

また印刷博物館で見たくなってきたが、惜しいことに昨年の2015年の春頃に「ヴァチカン教皇庁図書館展II」という企画展をやっていたようだ。

ホームページをよく見ていたら、なんとテープカットのときにスピーチをするヴァチカンの大司教様の写真まであるではないか!!!

時、既に遅し・・・
最近こういう感じで、後から知るというパターンがなんか多い・・・

凸版印刷は、ヴァチカン教皇庁図書館所有のグーテンベルク42行聖書のデジタルアーカイブ化を進めていることもあって、いろいろヴァチカンとの繋がりがあるようだ。
日本ではカトリック信徒数が全人口の1%に満たないにもかかわらず、日本の会社がヴァチカンの歴史資料の保存事業に関わっていることは、なんとなく嬉しい。

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