カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > 聖書(バルバロ訳 ラゲ訳)

来住神父の「目からウロコ」シリーズを気に入って読み続けている。
このシリーズが良いのは、どうしたら良いのかということが具体的に書かれているところで、信仰生活をおくるうえで実践的な内容になっているところがいい。

例えば「目からウロコ  聖書の読み方」という本は、「レクチオ・ディヴィナ入門」という副題がついていて、「レクチオ・ディヴィナという聖書の読み方」がひとつの手法として説明されている。

このレクチオ・ディヴィナという聖書の読み方は、ひとつひとつの単語を「触る」ようにゆっくりと反芻するように読むらしい。

例えば

「打ち砕かれた心をつつみ、とらわれ人に自由を、つながれている人には解放を告知させるために」

という聖書の箇所を

「打ち砕かれた」「心」「つつみ」「とらわれ人」「自由を」「つながれている人」「解放」「告知させるために」

というように区切りながら、単語の持つ意味のイメージを膨らませるようにして読む。

区切らずにさらっと読めば、特に腹に落ちるほどのこともなく、「ああ、この内容はおそらくバビロン捕囚のことなんだろう」という具合に、独り合点しながら軽い受け止め方をしてしまうが、ひとつひとつの単語にこだわって読むと「とらわれる」とか 「つながれる」という意味についてイメージがグッと膨らむ感じになる。

つまり「とらわれていて、つながれているのは、世俗的な価値や欲望に縛られる私自身ではないか?」というように、自分のこととして、この言葉を当て始めたりするのである。

カトリック的には、聖書の読み方は、教会の教えに沿って読むべきだし、聖職者との対話で独りよがりな解釈にならないような補整は必要と思うが、ある意味、聖書の言葉を「腹落ちさせる」ために、こういう冒険的な手法があるという事がとても新鮮だった。

レクチオ・ディヴィナもカトリックの歴史の中での伝統的な財産の一つで、知らない財産がまだまだ多いということをあらためて知った。 


御降誕祭も終わり今年もそろそろ暮れようとしている。

一年間、駄文をお読みいただきお付き合いいただきました方々に御礼申し上げるとともに、今年の最後の更新になることをお知らせして今年のブログを終えたいと思う。

お読みいただいている皆様方。
どうぞ良いお正月をお迎えください。

2015年2月に書いた内容ですが、想うことがあり更新したいと思います。
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「キリスト教のお葬式は、雰囲気に暗さがあまりがない。」と言われたことがある。 

聖歌や賛美歌を歌うからだろうか?

確かに聖歌や賛美歌は、お経よりは雰囲気が明るいかもしれない。 

もちろん「雰囲気に暗さがない」というのは「しめやかさに乏しい」ということになるのかもしれないから、どちらが良いか悪いかではなく、印象が人それぞれということだろう。

とにかく、仏教であれキリスト教であれ「次の世界へ送り出す」セレモニーがお葬式。

日常生活のうえでは「次の世界」というのはあまり考えないし、丹波哲郎さんみたいに具体的にイメージできる人というのも、あまりいないとは思う。

しかし自分や愛する人の死を迎える時は必ず来る。

「次の世界」の存在を否定して全く信じないというのも人生の選択かもしれないが、いざ死を直視しなければならなくなったときに、はたして心の平穏を保てるだろうか?
「怖さ」「むなしさ」「寂しさ」「別れの悲しさ」といったネガティブな感情が、どんどん膨らむのではないだろうか。

冒頭の「キリスト教のお葬式に、暗さがあまりがない。」という印象についての話は (聖歌や賛美歌はともかくとして) やはり キリスト教 信仰 に 「復活信仰」がある ことが影響しているような気がする。                      


キリスト教 における「復活」は、神であるイエズス・キリストの復活だけではない。

聖書のヨハネ福音書11章「 ラザロの復活」は、私たち人間の「復活」 の話だ。

「わたしは復活であり命である、私を信じる者は死んでも生きる。生きて私を信じてる者は 永遠に死なぬ。あなたはこのことを信じるか」

とイエズスは、ベタニアのラザロの死を前にして永遠の生命を宣言する。

しかしラザロの姉マルタは、墓の中のラザロを称して「主よ、もう四日も経っていますから臭くなっています」という、普通に想定される冷徹なありのままの現実を告げるのである。

目前の現実に奇跡が起きることを実感できないマルタは、我々現代人のようだ。

しかしイエズスは「もしあなたが信じるなら、神の光栄を見るだろう言ったではないか」と告げる。
そして「ラザロ外に出なさい」という言葉とともに、ラザロは「復活」した・・・

淀川キリスト教病院の医師であった柏木哲夫さんは、臨終の際に「じゃあ行ってくるね」と襖を開けて隣の部屋に移動するような感じで亡くなった看取りがあったということを伝えている。 

現代においても私たちの目には見えない「復活」は起きているのではなかろうか。 


しかし、死による別れは、やはりこの世での別れ。 

このヨハネ福音書11章では、ラザロの死により悲しむ人々と接して「イエズスは涙を流された」と書かれている。
受肉によりて人となり給もうたキリストは、現実世界での別れである私達の死に涙を流す神である。 

聖書には、そのままで受け止めるのは難しく躊躇する箇所がある。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10)

先日の7月2日の主日ミサの福音書朗読の箇所であり、偶然にも、ちょうど小倉昌男さんの評伝を読んで思い浮かんだ箇所でもあった。

二者択一を迫り、突き放すような感じがして悩む。

こういう理解が難しい福音書朗読の後の説教で、どのように受け止めたら良いのかということを教えてもらえる説教はいい。 

偶然にもこの日は、所属する教会ではない別の場所で、個人的にも尊敬している神父のミサだったので、この解釈が難しい箇所を理解するうえではタイミングが良かった。

あいまいな記憶だが、以下のような説教だった
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「ふさわしくない」という言葉は、「切って捨てるような印象」があるのは確か。

ただ「ふさわしい」という言葉は「釣り合っている」という意味もあり、「ふさわしくない」という状態に対し「天秤が傾いて釣り合っていないようなイメージ」を私たちは 持つことができる。

この福音は「私たちを切り捨てるような言葉」としてではなく「(天秤が傾いていないか)私たちに問い掛ける言葉」として受け止めるべきである。

私たちは、今日までの人生での歩みの中で、神様と何かを天秤にかけているのではないだろうか?

私たちは、そういった人生の節目において、何かを捨て、何かを残してきた。いろいろと整理してきた。

わたしたちの信仰の原点には「自分のしてもらいたいことを人にする」という教えがあるが、自己本位な選択、
自分勝手に生きる選択をして信仰よりも別のものを優先したことが、はたして無かっただろうか?
そのとき天秤は、やはり傾いていたのではないだろうか?

今日の列王記のエリシャの話を私たちのこととして受け止めるならば、私たちも生活の中で、何度も預言者に出会っている。
ある時は父、母の姿で、または妻、子供、友人として・・・
そのときに、
一杯のを差し出すような 愛を込めた行いによって、私たちは神と出会うのかもしれない。

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記憶をたどりながら印象に残った言葉を羅列した感じなので、ちょっとニュアンスが違うかもしれないが、印象的には上記のような話だったように記憶している。

実際には、この私の覚え書よりも、もっと豊かな表現をされるし、とてもソフトな語り口なので、実際に説教を聞くと、はるかにインパクトがあったのだが、それを表現しきれないのがもどかしい。

乗り越えたと思えるほどに納得したとは思えないし、理解できているのかどうかは自信が無いが、とても心に響くものがあって、腑に落ちないようなモヤモヤした感じではなく、少しホッとしたような気持ちで、家に帰ることができたのは幸いだった。


教会の起源をテーマにした「使徒たちについて」のベネディクト16世一般謁見講話の話を続けたい。
ベネディクト16世は、聖書の内容をながい教会の歴史のなかで、その時々の先人達がどのように受け止めてきたかを例示し話されるので、知らなかったことを知ることも多くとても刺激になる。

最後の晩餐に引き続いて、復活した主イエズスとトマスとの対話について話されている。
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【以下引用 】
(前略 )
この出来事は復活の八日後に起こりました。
最初、トマスは、イエスが自分のいないときに現れたことを信じずに、こういいました。

「あのかたの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20.25)

深く考えると、このことばには次の確信が示されています。すなわち、わたしたちはイエスのその顔によってではなく、傷によって知るのだということです。

トマスは、イエスがどのようなかたであるかを示すしるしは、何よりもその傷であると考えました。

この傷のうちに、イエスがどれほどわたしたちを愛してくださったかが現されたからです。
使徒トマスは、この事を見誤ることがありませんでした。

ご存じのように、八日の後、イエスは再び弟子たちに現れました。

今回はトマスもそこにいました。

そしてイエスはトマスに呼びかけました。

「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20.27)

トマスは、新約聖書の中でもっともすばらしい信仰告白をもって、これに答えます。

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20.28)

このことについて、聖アウグスチヌス(354〜430年)はこう解説しています。

トマスは「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである。」(アウグスティヌスの福音書講解説教)
福音書記者ヨハネは、続けて、イエスがトマスに述べた最後のことばを記します。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20.29)

このことばは、現代でもいうことができます。「見ないで信じる人は、幸いである」
いずれにせよ、イエスは、トマスに続くキリスト信者、わたしたちすべてにとっての基本原則をここで述べています。

興味深いのは、もう一人のトマス、すなわち中世の偉大な神学者トマス・アクィナス(1224/1225〜1274年)が、この幸いと、ルカによって一見すると逆のしかたで述べられた、もう一つの幸いとを、結びつけていることです。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」
(ルカ10.23)

しかし、トマスはこう解説します。

「見ているのに信じない者よりも、見ないで信じる者のほうがはるかに価値がある」(ヨハネ福音書注解)
実際、ヘブライ人への手紙は、約束されたものが実現されるのを見ないで神を信じた、聖書の多くの太祖たちを思い起こすことによって、信仰を次のように定義します。

「望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11.1)

使徒トマスの例は、少なくとも次の三つの理由から、わたしたちにとって重要です。
第一に、それはわたしたちが不安なときに力づけてくれるからです。
第二に、それはどのような疑いも、最後は迷いを超えて明らかにされうることを、わたしたちに示してくれるからです。
最後に、イエスがトマスに語ったことばは、成熟した信仰の真の意味を思い起こさせ、困難があっても、イエスに忠実に歩み続けるようにわたしたちを励ますからです。

(後略)
【引用終わり 】
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復活祭の福音書朗読では、ヨハネ福音書20章が9節まで読まれたが、厳密にはここの箇所ではキリストが復活したという事は書かれていない。
正確には「墓を塞いでいた岩が動かされていて、亡骸が見当たらなくなっていた」という内容で、弟子たちもキリストの復活を実感していない。

トマス以外の弟子たちも、すぐには何が起きたのか理解できずにいたので、何もトマスだけが疑い深かったわけではない。

トマスという人は、ストレートな人だけれども自分の心に偽りがなく率直で、こういう人がいないと聖書も面白くない。

しかしトマスの不信は「しるし」が示されたことで確信に変わった。

現代に生きる私たちも、トマスのように「しるし」を見ることができるのか?
現代における「しるし」とは、何なのか?
現代の「しるし」を、実はもう、私は既に見ていて気づいていないのか?

そんなことを想ってしまう。

「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである。」という聖アウグスティヌスの言葉は、とても気になる。

ところで、聖トマスが確信した際に口から出た「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、ミサの聖変化のときに、呟いてもいいとされている。

聖トマスに倣い、私はいつも小さい声で呟いている。

昨日は、仕事を早く終えることができたので、所属教会とは異なるところで、聖金曜日の「主の受難の祭儀」になんとか与ることができた。

聖金曜日に祭儀に与れると、やはり復活徹夜祭が自分にとって、より良いものになる感じがする。


ブログ更新のタイミングを逸してしまったが、ちょうどいま読んでいるベネディクト16世の一般謁見講話で、「最後の晩餐」についてのとても印象深い話があったのでブログに書きとめたい。

この一般謁見講話は、教会の起源をテーマに「使徒たちについて」語られている講話である。
ベネディクト16世は、テーマをしっかり定めて、一つのシリーズとして成り立つ連続した講話をされるので、知識が深まるし、想像するイメージが面的な広がりがでてくるような感じがする。

ちょうど聖週間のこのタイミングで読めたことはよかった。

以下引用したい。 (※最後の晩餐における主イエズスとトマスとの会話について)
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【以下引用 】
(前略 )
このとき、イエスは、ご自分が間もなく去っていくことを予告しながら、こう言います。

わたしは弟子たちのために場所を用意しに行く。
それは、わたしのいるところに、彼らもいるようにするためである。

そしてイエスははっきりと言います。

「私がどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14.4)

するとトマスがイエスを遮って、こう言います。

「主よ、何処に行かれるのか、私たちにはわかりません」(ヨハネ14.5)

現実に、トマスはこの言葉で、自分が極めて低い理解しかしていないことを示します。
けれども、トマスのこの言葉は、イエスが次のような有名な宣言を行うきっかけを与えました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14.6)

したがって、この啓示はまずトマスに示されました。
しかし、それは、わたしたちすべてと、すべての時代に当てはまります。
わたしたちはこの言葉を聞いたり、読んだりするたびに、自分たちがトマスのそばにいると考えることができます。
そして、主は、トマスに語られたように、私たちにも語っておられると想像することができるのです。

同時に、トマスの問いかけは、私たちに、いわば、イエスに説明を求める権利も与えます。
私たちはしばしばイエスのいうことがわかりません。
私たちはイエスに次のように言う勇気を持たなければなりません。

主よ、私たちはあなたの仰せになることがわかりません。わたしに耳を傾け、私が理解できるように助けてください。

こうして、私たちは包み隠さずにイエスに語りかけます。

これが真の祈り方です。

こうして、私たちは、自分たちの理解力が乏しいことを明らかにします。

しかし、同時に私たちは、光と力の与え主が光と力を与えてくださることを期待する者の、信頼に満ちた態度をとることになるのです。

(後略)
【引用終わり 】
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「ああ、そういうふうに読んだらよかったのか」と素直に感心してしまう。

何げない会話から、どういう意味を見いだせるのかは、まさに信仰のセンスによるものなのだろう。

「主よ、何処に行かれるのか、私たちにはわかりません」というこの理解力の乏しさの話から、ベネディクト16世の講話は、この後、有名な「トマスの不信」の話に展開していく。

トマスは、ある意味とても人間的というか、等身大な感じがする人物だが、もっとも生々しく主の復活を直視することになった。

引用が少し長くなるので次回もこの話を続けたい。

ベネディクト16世は「トマスの不信」の話から私たちが何を学んだらよいかを示唆してくれるのである。

(つづく)


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