カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:人間を考える > 悪魔について

「悪魔は一生に1〜2度ではなく、一日に何回も訪れる。」ということを晴佐久神父が「福音の村」ブログで言われていた記憶があります。

悪魔はグロテスクな化物の姿で描かれる場合が多くて、もうこれは脳にビジュアルイメージが刷り込まれてしまっていますが、もし晴佐久神父が言われるように毎日現れているのだとすると、化物の姿というのは無理があります。

マタイ福音書第4章に登場する悪魔も「誘惑者」としての存在。

むしろ化物のビジュアルイメージを払拭したほうが、悪魔の存在をリアルに感じる事ができるのかもしれません。

ファウストの前に現れた悪魔メフェストフェレスは「魂をもらう代わりに、この世の人生での願いをかなえる」という条件をだします。

毎日我々の前に現れる「悪魔??」は、そこまでドラマティックな条件をだしてきてはいないような・・・

いくらなんでも「まるごと魂をくれ」と要求されたらお断り。

しかし悪魔のささやきによって、門前のラザロを見棄てるような事はゴマンとしてきたような気がします。

そもそもいったい悪魔とは何なのか?

利他的な心の対極。動物的で利己的な自己防衛本能や生存本能でしょうか?

利己的遺伝子という見方があるようです。

利己的遺伝子に常に行動が支配されていくとするならば、魂が薄まるような、神から離れていくような感じがする。

「悪魔と取引をして魂を失う」というのは案外リアリティがあるようにも思います。

一度に失うのではなく、少しづつ削り取るように魂が失われていくとしたら怖いですね。

ブログで「悪魔」などという言葉を書いてしまうとオカルティックなことに関心があるのかと思われてしまいそうですが、ルシファーなどの名前を聞いてもピンと来ないし、オカルトにはあまり興味はありません。
ただ常軌を逸した異常犯罪などが起きるとつい反射的に「悪魔」という表現を使ってしまいます。
「悪魔」という言葉を使わないで、単純に「悪」と書いてもいいんですが、ただ人間の良心の有無といったレベルを超えた魔物のようにも感じることもあって、つい「悪魔」という表現になるんですよね。

私はまだ、カトリックの教理についても理解があやしいところがあるし、哲学についての知識見識は高校の倫理社会のレベルですので「悪魔」とか「悪」とかが何なのかよくわからないのですけれど、それでも「なぜ人間はこんなに酷いことができるのか?」という出来事を知ったとき、何か悪魔のはたらきがあるように感じてしまいます。

悪魔は、こうもりの羽がついたような怪物の姿ではなく、人間の姿であらわれますよね。

自然災害ではなく戦争のとき・・・
事故ではなく事件のとき・・・

「悪魔」「悪」「残虐さ」というものはいったい何なのか?

「欲望に関する動物的な本能」なのか? 
連続婦女暴行魔みたいな性的な暴力事件に対してはそのように感じることもあります。

しかし動物的な欲望とは関係なさそうな残虐性というのありますよね。その場合はどうなんだろう。
「人の悲しみ、苦しみ、痛みなどに対する感覚が全く欠如していて、逆にそれを楽しむ」みたいな・・・

「シンドラーのリスト」のSS将校のゲート少尉は?

遠藤周作さんの名著「沈黙」に登場する井上筑後守は?

井上筑後守・・・温厚で優しそうな初老の男だが、いかに苦しませるかを考え抜いた「穴吊るし」を考案した男。
悪魔的な人間を描写する事でも遠藤周作さんは天才でした。

「新約聖書はイエズス様のサタンとの戦いの書」と何かに書いてあったのを見た事があります。

「人の悲しみ、苦しみ、痛みなどに対する感覚が欠如」という点では、度合いはありますが、私にも全くないとは言えません。
私の心の中にも悪魔がいるのでしょう。

悪魔ってなんですか?

なんだか書いていて、かなり気が滅入ってきました・・・・・
今回はここまで。。。
次回は別のテーマにするかもデス。。。

でもまたこのテーマとりあげたいと思います。

(少し文章が未消化でしたので、加筆、修正しました。)

いやなニュースは聞きたくないものですが、それでも知らないままではすまない。

「痴呆や話ができない寝たきりの老人を選んで看護士が虐待し殺人。」

「奈良公園の鹿をボウガンで撃つ。」

しかし極めつけは奈良と埼玉の児童虐待。
亡くなった子供は5kgの体重しかなかった。
近所の人の証言で「お水をください。お願いします。」という子供の声が聞こえたという。
敬語なのが余計につらい。酷すぎる・・・・・・・・・

こんなことは、決して許されてはならない。
決して繰り返されてはならない。

「小さくされた人々」に愛の手を!ということで、カトリックの神父が釜ヶ崎のホームレスの人々に支援活動を行っている。
確かに必要な事でしょう。
しかし、一番愛してくれる存在である親から、いたぶられ虐殺された子供ほど、たまらない、悲しい存在あるだろうか。「小さくされた人々」はこの子達ではないのか。

カトリック正義と平和協議会は
「憲法9条を世界の宝に!」というような活動に熱心です。
私は緊急課題とは思えません。
優先順位が違ってないでしょうか?
憲法9条などより「心の闇」の問題に宗教者としてメッセージを発信してほしい。

心の闇のなかに悪魔が住みついてしまった人が多くいる。
次から次におきる、常軌を逸した犯罪が証明しています。

このような加害者を人権という言葉で擁護してほしくない。
極刑にしてほしい。

悪魔はいるんです・・・・



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