カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

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キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

カテゴリ: 美術について(主に宗教美術)

晴佐久神父の新しい赴任先が、上野教会、浅草教会と聞いて、上野のマリア様の事を思い出した。

上野のマリア様とは、(私が勝手に呼んでいるのだが)上野公園の二つの博物館美術館にあるマリア様の御絵のこと。

一つは国立西洋美術館の「悲しみの聖母」
17世紀中期に、カルロ・ドルチによって描かれたもの。

以前、このブログでもテーマにしたことがある。
http://catholicus.blog.jp/archives/2709549.html
http://catholicus.blog.jp/archives/2723200.html

下記の「親指の聖母」との関係性を想うと、西美関係者の方の収蔵品の集め方?のセンスの良さに感心してしまう。

もう一つは、国の重要文化財である国立博物館の「親指の聖母」


「親指の聖母」は、江戸時代中期に日本で殉教した宣教師シドッチの所有物だったもので、博物館の歴史資料としての所蔵品のためか、修復はせず損傷のままの状態で保存されている。

ドルチの「悲しみの聖母」の複製画のようで、構図などは、そっくりだが、手の部分が服に隠れていて親指しか見えないということで「親指の聖母」とも呼ばれている。

「親指の聖母」はカトリック碑文谷教会にもあり、ホームページでは「江戸のサンタマリア」と紹介されているが、こちらはレプリカでシドッチ神父所有の本物ではない。

あくまで本物は東京国立博物館にある。
ホームページによると長崎奉行所旧蔵品と書いてある。

シドッチ神父のジェノバ出発は1703年。
江戸切支丹屋敷での帰天が1714年。

切支丹屋敷廃止よって宗門蔵のキリシタン諸道具などが神田見附内の多門櫓
(不浄倉)に移されたのが1792年。
その後にこの絵は長崎奉行所に移されたことになる。

関連する年譜を見れば
長崎の大浦天主堂での信徒発見は1865年。
東京国立博物館の創立が1872年。
キリシタン禁教令高札の撤去が1873年

そしていま東京国立博物館の館内にある。

驚くのは、江戸時代のキリスト教関連の資料が残っているという所蔵期間の長さ、古さだけでない。

このように目立つキリスト教信仰のシンボルが、弾圧する徳川幕府側の蔵の中に残っていたということ自体が奇跡的に感じるのである。

この運命的な不思議さを想うと、どうしても観たくなるのだが常設展示ではないようでなかなかタイミングが合わずまだ出会えていない。

なんと2014年に特別公開がされていたようだが、見損なってしまった・・・

シドッチ神父帰天300年後の年だった。
これは迂闊だった・・・

シドッチ神父の人生を想うと、もうこれは聖遺物の存在感にも等しい。

次の公開はいつなのだろうか?


三位一体をテーマに画像をGoogle検索していたら、いままで見たことがなかった魅力的な絵と出会えた。

ルーブル美術館 の「三位一体修道会創設のミサ」という絵。

三位一体修道会創設のミサ

17世紀
のファン・カレーニョ・デ・ミランダという人が描いたもの。

バロック様式のスペイン絵画の傑作らしい。

正直なところ、バロック様式というのはゴテゴテとした装飾過剰な建築のイメージがあってあまり好きではなかった。

この絵もバロック特有の「うねり感」が、「ラッパを吹き鳴らす天使」の部分で目立っている。

しかし表現が巧みだからだろうか?

「躍動感」「力強さ」の表現として、初めて好意的に受け止められたような感じがした。

一方、下部の聖人(マタの聖ヨハネ)のミサの場面では、トリエント・ミサの聖変化の一瞬の緊張感を、構図と登場人物の視線で、みごとに描いている。

「ストップモーションみたいな」と表現すると少し俗っぽいだろうか・・・


上部の「動」と下部の「静」の対比が、この絵の特徴だろう。

宗教画としては「聖霊のシンボルとしての鳩を加えた三位一体の表現の仕方」などで、カトリックらしさの韻を踏んでいる。

ルーブル美術館で、是非、現物を見てみたい。

本日は復活祭。主イエズス・キリストの御復活の喜びをお祝い申し上げます。

今回の内容、タイミング的になんだか復活祭には合わないような感じになってしまいましたが、私の興味関心の流れということでどうかご容赦くださいませ・・・・・

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国立西洋美術館の「聖アントニウスの誘惑」について調べた時に、ヴァニタスという言葉があって、少し興味をもった。

 Wikipedia によると「ヴァニタス」について、次のように書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%82%B9

ヴァニタス(ラテン語: vanitas)とは寓意的な静物画のジャンルのひとつ。16世紀から17世紀にかけてのフランドルやネーデルラントなどヨーロッパ北部で特に多く描かれたが、以後現代に至るまでの西洋の美術にも大きな影響を与えている。ヴァニタスとは「人生の空しさの寓意」を表す静物画であり、豊かさなどを意味する様々な静物の中に、人間の死すべき定めの隠喩である頭蓋骨や、あるいは時計やパイプや腐ってゆく果物などを置き、観る者に対して虚栄のはかなさを喚起する意図をもっていた。

ヴァニタスは、「カルペ・ディエム」や「メメント・モリ」と並ぶ、バロック期の精神を表す概念でもある。

【語源】
ヴァニタスとはラテン語で「空虚「むなしさ」を意味する言葉であり、地上の人生の無意味さや、虚栄のはかなさなどと深く結びついた概念である。ヴァニタスを語る際、旧約聖書の『コヘレトの言葉』(『伝道の書』)1章2節の有名な言葉「ヴァニタス・ヴァニタートゥム」(「空の空」、「虚無の虚無」)がよく引用される。ヴルガータ(標準ラテン語訳聖書)では該当部分は次のようになっている。

Vanitas vanitatum omnia vanitas.
コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。



「聖アントニウスの誘惑」以外にも、西美の常設展示には、髑髏を大きく描いた、よりわかりやすい静物画のヴァニタスもある。
http://collection.nmwa.go.jp/P.1998-0003.html

絵を観るときに、美しさを愛でる気持ちがないわけではないが、ヴァニタスのようなキーワードを知ると「作者が何を想ってこの絵を描いたのかという謎解き」になり興味深い。

こういう絵をパソコンの画面に映しながら、旧約聖書の「コヘレットの書」を読んでみる。
なんだかだんだん気が滅入ってくるような・・・

しかし人生の儚さを思い、自分の事を見つめ直す動機が与えられる。

バルバロ訳聖書「コヘレットの書」の解説では、バルバロ師は次のように書いている。

この本は連絡のない格言の本のようで、その格言は主としてこの世の空しさを語っている。
一般的にこの本の教えるところは、エピクリイズムにもなりうる希望のない悲観論ではない。
コヘレットはこの世の空しさ、はかなさを知らせることによって、幻滅におちいらず、いく分か人生の楽しみを味わえと教える。
また、神への感謝をもって、適度にこの世の楽しみを味わえと教えるのは、人間がこの世に生きることの目的が快楽にあるというのではない。むしろコヘレットの教えるのは節度である。

バルバロ訳聖書の評判が高い理由がわかるような気がする。

自ら聖書を読むことができなかった中世のキリスト教信徒は、聖堂のステンドグラスの絵を見て、聖書の話を学んだという。

宗教画というものは、現代に生きる私たちでも興味を引き立てられるし、一瞬の視覚体験で「キリスト教世界に触れて入り込む」ような刺激を受ける。

やはり絵はわかりやすい。

美術館の第一級の絵画であればなおさら。

有名な画家の特別展ではなくても、東京上野の国立西洋美術館には、常設展示(パーマネントコレクション)でも素晴らしい作品が多くある。

常設展示は特別展のように混まずに、人が少ないのでゆったりとマイペースで観れるのがいい。
興味を持った絵のみをジックリ見てあとはさらっと流してさっさと帰っても、また来ればいいので余裕を持てるのである。
常設展示は、多くの絵を集中して観ることができないような私のような人に向いているかもしれない。

西美の常設展作品については、拙ブログでも以前に、ロダンの「地獄の門」カルロ・ベルチの「哀しみの聖母」について書いたことがあつた。
http://catholicus.blog.jp/archives/2718072.html
http://catholicus.blog.jp/archives/2723200.html

この時は
予備知識なしで見に行ったのだが、 本を読んでから映画を観るように、物語や背景を知ってからどのように描写されているのか観に行く、行きたくなるというのもそれはそれで良いような気がしてきた。
続きを読む

晴佐久神父が、「福音の村ブログ」の最新記事でバチカンの教皇祭壇のことについて書かれていました。
ということでタイミングを合わせて、2010年6月の拙ブログのこの記事もタイアップして再更新します。(勝手にすみません)

ロダンもテーマにした、この「地獄の門」に、聖書において打ち勝つのが「岩(ペトロ)の上にあるわたし(キリスト)の教会」なんですよね。

サン・ピエトロ大聖堂をそのシンボルとして見ると何かとても印象深いです。
2014/7/7再更新
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おもわぬことで西洋美術館を訪れてから、宗教画(宗教美術)の魅力にとりつかれてしまいました。
今まで知らないことが多すぎた。例えば、鳩が聖霊のシンボルとして描かれるとか知らなかった。
知らないことを知ると見方が変わりますね。
しばらく宗教美術の話が多くなると思いますが、よろしければおつきあいください。

というわけで、またもや西美の話になりますが、実は彫刻もインパクトがあったんです。
地獄の門 ロダンの「地獄の門」
「13-14世紀イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリ の叙事詩『神曲』地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門」を主題としたもの。
黒くぬめっと光るゴテゴテした塊が、ねじくれた人の姿だったりして、かなりおどろおどろしい。
残念な事に私はダンテの「神曲」を読んでいないので、ストーリーに思いをはせる事は出来ませんでしたが、造形を見るだけでもあまりのおどろおどろしさに心臓の鼓動が早くなりました。

神曲では「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という言葉が銘文であるとのことですがどこかにあるのでしょうか?
探しましたがよくわかりませんでした。

仮にもしこの扉を開くとなにが見えるのか?
別の世界、地獄の世界がひろがるのか?
「ドラえもんのどこでもドア」のようですが怖いですね。

開いても見える情景が変わらなければ、それはそれで恐ろしい。
この世が地獄ということになりますからね。やっかいな彫刻です。
開かないように塊にはなっていると思いますが・・・

一目見たら、目に焼き付いてしまう。強い印象を残した彫刻でした。

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