カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: 人間を考える

クオリアという言葉を最近になって知りました。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えると、意識として何らかの質感が経験される。その質感のことをクオリアと呼ぶらしい。
例えば「赤」という光の波長を「赤いという色」として感じる感覚みたいな・・・
ただ外部からの刺激(情報)を客観的な情報として認知する感覚というだけでなく、その認知に伴う主観的な情動の動きはたらきを含めるニュアンスがありそうで、「クオリア」とは何かということが、科学と哲学の両面でテーマになっているようです。

「認知」の状態から「意識」や「心」というものを探り考えるときに「クオリア」は鍵となる言葉になります。

Wikipediaで「クオリア」の意味を調べましたが、難しくてわかったようなわからないような感じで、はたして私の教養や知見で理解することができるのかというのはあるのですが、ただ私の場合、信仰というものがかなり感覚的なので、クオリアという言葉がどうしても非常に気になってくるわけです。

「クオリア」という言葉はアウグスティヌスの著作「神の国」にもでてくるらしい。

先日の復活節第二主日の福音書朗読はヨハネ福音書20節でした。

「私はその手に釘の跡を見、私の指をその釘の跡に入れ、私の手をその脇に入れるまで信じない」

「あなたの指をここに出して私の手を見なさい・・・」

「あなたは私を見たから信じたが私を見ずに信じる人は幸いである」

という聖書のなかでも有名な箇所ですが「クオリア」の概念を頭に入れて読み返すととても含みのある文章に感じてきます。


立花隆さんの「臨死体験」を読んでから「心はどこにある?」ということが気になっていますが、「クオリア」というものに対する好奇心もまた、その関連のなかにあります。

こんなことをアレコレ考えていたら(アレコレ考えてもしかたないんですが・・・)慶応大学の前野隆司教授という方が「脳はなぜ心を作ったのか?」「脳の中の私はなぜ見つからないのか?」という本を書かれているという話を聞きました。

この本はストレートに「自己意識の座」というか「情動の主体」というか「クオリア」が関係してきます。

前野教授は、キャノンでヒューマンロボット研究をしていくなかで脳と心の構造に興味を持ったという非常にユニークな脳研究者。

にわか読書で果たしてどこまで理解できるのかというのはありますが、おそらく「脳の働き(脳の部位)に心が見つからない」という内容であれば、そこのところまではおそらく共感できるような気がします。

ただし「意識は幻想であり、無数の知覚情報を事後的に承認し、それを記憶として保持する際に生起している感覚でしかない」という話になってくるらしく、もうそうなるともう宗教観の違いが明らかになってくる。

私は「意識は幻想」と断定してしまうと、説明できないつじつまが合わないということが多くでてくるような気がします。

ひとこと「霊魂」という言葉をおけば「幻想」ではなくなるのに・・・と思ったり。

しかし極端な主張であるがゆえに、問題提起になってます。

子供のような素直さで「しるし」を見たい気持ちもまた、神を求める情熱の現れのようにも思いますが脳研究者の「心」というものを解明しようという気持ちもまた「しるし」を求める気持ちなんでしょうか?

はたして本当に「心」は幻想なんでしょうか?

クオリアっていったい何なんだ???どこにある???

だいぶ前からどうしようか迷っていたのですが、もうケニッチーというハンドルネームが、イメージ的にちょっと年齢に合わなくなってきている(もともと年齢と合ってなかった?(笑))感じだと思っていましたので、コテハンを打ち破って、とうとうついにHNを改名します。

これからは、ハンドルネームを「カトリ」にします。 
よろしくお願いします。

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ということで本題。

このところ立花隆さんの本、 「臨死体験」を読んでいたのですがようやく読み終えました。

いわゆる「臨死体験」特に「体外離脱」という現象に対し 「現実体験」なのか「脳内現象」なのかを科学的なアプローチを持って徹底的に解明しようとした本。

非常にスリリングな本でした。

立花さんの、あくなき探究心には本当にまいりました。
凄い人ですね。

後半になると「脳内現象説」が強まっていきます。

「臨死体験」は脳の側頭葉の働きが関連しているのではないかという推論がしだいに立ってくる。

話の展開として、ある意味「心」というものが、 「魂」「霊魂」の「働き」ではなく「脳」の中に収納されるのではないかという考え方も迫ってくる。

「心は脳が生み出している」という説は「霊魂」の不在を示すようで、やはり怖い。

脳研究は、外的刺激に対し、脳が認知、判断、指示を下すという情報処理の部分については、いろいろとわかってきているらしい。

脳研究によって「心」がどこにあるか解明される日が来るのでしょうか?

しかし「自己という意識の主体が脳にあり、行動の主体、思惟の主体、情動の主体も脳にある。」という自己意識の座、存在主体のところまでは、なかなか迫り切れないようです。

いくら研究に研究を重ねても、脳の内部に自己意識の中枢が見えてこないため、第一級の脳研究者であっても 「やはり『意識の中枢』は脳にはない」という主張もあるらしい。

少しホッとします・・・

脳研究者には悪いですが 「『意識の中枢』は『私』そのもの。『心』が脳研究でわかってたまるか!」と思ってしまいました。


ソマディタンク(音や光や臭いを遮断し体温と同じ温度で体が沈まないための液にポッカリ浮かぶもの)というものがあるという話も印象に残りました。

外的刺激を限りなく遮断し、筋肉を限りなく弛緩させ感覚を極力遮断するための特殊な装置。

自分の体が消えて、意識の点になったような錯覚になるらしい・・・



「いのフェス」というイベントで、晴佐久神父と社会学者の宮台真司さんの対談がありました。
その対談が youtube でアップされてます。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=SgvbysxCb2o
https://www.youtube.com/watch?v=dNICTl652Rk

実際に行かなくても(行けなくても)、いとも簡単に動画で見ることができる。
何かと文句を言うことの多い世の中ですが、便利さということではありがたい世の中でもあります。

対談は「普遍性」についての話が多かったですが、このあたりは想像の範疇。
晴佐久神父のいつもの話を、本ではなく動画で観れて聴けたのはやはりよかった。

ただし今回、この対談でちょっと印象に残ったのは、(新鮮ということもあってだと思いますが)対談相手の宮台さんが話した、現代社会における「『恨み』のエネルギー」の強さということについてでした。

あらためて「恨み」という事について考えさせられた感じ。
「恨み」というのは「許し」の対極にある感情だし、文字で「恨み」という字を見ると、ほとんどの人はあまり肯定したくない心の動きだと思います。

しかし・・・

例えば、私も「半沢直樹」を観てましたが、「半沢直樹」はどう見ても「正義」というより「復讐」「報復」の話なんですよね。

大ヒットですよね・・・

私も含め多くの人々が、実は「復讐」「報復」が好きなんでしょうか?

ドラマ仕立てになっていると、弱者の「仇討ち」には、拍手喝采するんですよね・・・

現代の「仇討ち」は、相手を平伏させることみたいです。

マスメディアの報道姿勢を見ていても、「恨み」を増幅させたり、「正義」にすりかえ批判のかたちで「報復」を正当化しているように感じることもあります。
なにか「恨み」の怨念をエネルギーとして原動力にしているような・・・

「恨み」というより「嫉妬」の場合もあるのかな?
いずれにしてもネガティブな感情・・・

しかしこれは自分の胸に手を当てて考えても、無いとは言えない感じ。充分に注意しないといけない。

どちらかというとサヨク的な思考に、この「恨み」の怨念が混入しやすいと思います。やはり階級闘争が思考のベースにあるからでしょうか。

もちろんサヨクに限ってということではない。中国や韓国のナショナリズムには「恨み」の怨念が充満してます。

ただし「恨み」をエネルギーの原動力にしている限りは「平和」はないということだけはわかります。

カトリックに限らず、クリスチャンの場合ですが、社会問題に目を向けるあまりサヨク的階級闘争的な「恨み」の怨念みたいなものに警戒心がない無防備な人が少なくない感じがします。

社会への問題意識に「恨み」がないかどうか、よくよく考える、自問自答することが必要。

もちろん「痛み」に寄り添うことに目を背けるわけじゃない。
しかし「恨み」を超えていかないと・・・

人間というのは、(私のことも大いに含めて)やはり未熟な生き物なんですね・・・

更新がずいぶん遅れてしまいました。

原因は Twitter です。。。

おしゃべりするのには有効なツールだし、いいツイート、金言もあるのですが、私にとっては情報量が多すぎるしスピード感が私に合っていないというか、なにかいろいろな情報に振り回されるような感じがして、自分に向いていないということを痛感します。

週に一回か二回、印象に残ったことなどを書きとめていくぐらいのスピード感。
やはりブログのほうがちょうどいい感じ。

しばらく Twitter はお休みして、またブログのほうに軸を置こうと思います。

ということで本題に入りますが、このところ、東大医学部教授で救急医療の先端におられる臨床医の矢作直樹さんという方が書かれた「人は死なない」という本を読んでました。

淀川キリスト病院ホスピス医の柏木哲夫さんの話に影響されたからでしょうか。
病院における人の死について、いろいろと関心が向きます。

もしも、私がもしものとき・・・

おそらく「東大医学部の先生に視てもらえるのならば、もう大丈夫かな。助かるかも。」と思いそうですが、矢作直樹さんのこの本では「月にロケットを飛ばせる時代になっても、医療現場ではわからないことだらけ」と書かれてました。

これだけ医学が進んでも、あたりまえですが人間の体はそんなに単純ではないんですね。

やはり先端医療の最前線に身をおいているだけに医療の限界も感じるのだと思います。

そして矢作直樹さんご自身の経験によると、生死の境を分けるような極限の医療現場においては、とても不思議な事が起きるらしい。

その経験をもとに、この本「人は死なない」は書かれています。

「気功」についての驚くべき話。

そして「臨死状態 臨死体験」のなかでの「体外離脱」の話も・・・

これって「幽体離脱」のことですよね。

そしてそして「憑依現象」についても!!!

「えっホントですか?ホントにあるんですか!!!」


と心の中で思いながら一気に読みました。

そういえば、立花隆さんも「臨死体験」についての本を書いていたんですよね。

先日、朝起きたときの話なのですが、突然「こむら返り」になって、ギョギョギョでした。
(こういうニュアンスの時は「じぇじぇじぇ」じゃない?でしょうね)

足が全く動かないのです。

初めてではないですが焦りました。
自分の意思で自分の身体が動かない感覚・・・

足が石になって固まっていくような恐怖!!
(ちょっと大袈裟ですかね・・・笑)

旧約聖書に「ソドムとゴモラの街が天の火で滅ぼされた時に、振り向いて街を見たロトの妻が、塩の柱になってしまう」という話があります。
石じゃなくて塩の柱ですが・・・

あるいはギリシャ神話の「メデゥーサの話」とか・・・

人が固まって石みたいになる話は多いんじゃないでしょうか?

後でそんなことをチラッと思ってしまいました。


自分の体ですら自分の意思で動かない。

こういう経験をすると、なんでもかんでも自分の意思で動かせているというのは大間違いということに気づかされます。

突然雨が降るのも、突然自転車にぶつかりそうになるのも、偶然といえば偶然・・・

天気予報を見て雨がふるのを知っていたつもりになっても、予想以上の雨で電車まで止まる。途中の駅で足止めをくらう。
「あ〜あついてないなあ。まさかこんな事になるとは・・・」というようなことは山のようにあるわけです。

「運がいい」「運が悪い」「ついてる」「ついてない」というのは、全て自分の意思以外の偶然なんですよね。

そして私ごときの数十年の人生においても、「強烈な偶然」(こむら返りではないですよ)というのはやはり何回かある。

そういう経験は、後で振り返ると「『偶然性』に自分以外の何かの意思が働いていたんじゃないか」とどうしても思ってしまいます。
「やはり神様のシグナルだったのかな?」みたいな感じ・・・

私のプリミティブな信仰の原点ですが・・・

ところで、「こむら返り」というのは、夏場の夜に中高年におきやすいらしく、水分補給が大切みたいですね。




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