カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: 人間を考える

「楽園」という言葉を聞いて、頭の中でどういう場所を想像するかといえば、やはり「南の島」のイメージになるという人が多いと思う。

ただ日本では昔から「南の島」を想像していたようには思えないし、「楽園」という言葉そのものも、江戸時代からあったような感じもしない。

おそらく明治の文明開花のなかで、西洋から伝わったイメージであって、言葉もその訳語なのではないだろうか?

もしかしたらは、「旧約聖書、創世記の失楽園の話を翻訳するにあたって『楽園』という言葉が誕生したのかもしれない」などと想像したりもする。

その「楽園」が「楽園=南の島」のイメージになったのは、これもまた西洋社会からで、その思想の源流があるようだ。
理想郷を求めてタヒチに移り住んだ画家のポール・ゴーギャンもその一人である。

「YOUCAT(堅信の秘跡)」という本に、そのゴーギャンについての興味を深い話が載っている。

ゴーギャンは「楽園」である「南の島」へ旅立つにあたって「やっと自由になれる。お金の心配もなく、これからは愛し、歌い、死ぬのだ。」というような手紙を書いている。

ゴーギャンが、このような気持ちを持つようになった背景には、ジャン=ジャック・ルソーの思想に「高貴な野蛮人が住む理想郷」というような概念があって、当時のフランス社会において、その理想郷に対する憧れがあったようだ。

「高貴な野蛮人」とは
■自然と完全に調和した生活をおくっている
お金を必要としない
やさしく無垢で愛し合っている
罪や犯罪がいかなるものか知らない
嘘を知らない
自分たちを支配したり裁いたりする者を必要としない
という人々であって、
南海のどこかにそういう人々が住む理想郷があると考えていたらしい。

ところが現実に、「南の島」に渡ってみれば、憧れは失望に変わる。

高貴な野蛮人は、あらゆるたぐいの病に苦しみ、過酷な生存競争をし、厳格な道徳規範を持っていたし、ゴーギャンもまた輸入品の保存食で生活をし、絵のモデルにお金を払わなければならなかった。

ルソーが思索し、ゴーギャンが想像したような「楽園」はこの世には存在していなかったのである。

「YOUCAT(堅信の秘跡)」という本は青年向けカテキズム(カトリックの教えを解説する入門書で<堅信の秘跡>はその分冊)なので、カトリック教会では、ルソー、ゴーギャンの考えるようなロマンティックなこの世の「楽園」は、ある意味、冷たく突き放すようにバッサリと否定しているということになる。

ルソーやゴーギャンと同じ「楽園」のイメージを持たないまでも、現代社会を生きる中で、時に私も「世俗的な楽園」を、空想したり憧れる事があるわけで、ルソーやゴーギャンとそれほど変わらないような気もする。

「私たちは、既に一度、「楽園」から追放された身であるがゆえに、楽園に戻るためには、ある『門』をくぐらなければならない。」というのが、カトリックの原罪の概念で、同時に『門』への道への招きになっている。

理想郷の不在という「失望」もまた、新たなスタート地点であるということなのかもしれない。





聖書には、そのままで受け止めるのは難しく躊躇する箇所がある。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10)

先日の7月2日の主日ミサの福音書朗読の箇所であり、偶然にも、ちょうど小倉昌男さんの評伝を読んで思い浮かんだ箇所でもあった。

二者択一を迫り、突き放すような感じがして悩む。

こういう理解が難しい福音書朗読の後の説教で、どのように受け止めたら良いのかということを教えてもらえる説教はいい。 

偶然にもこの日は、所属する教会ではない別の場所で、個人的にも尊敬している神父のミサだったので、この解釈が難しい箇所を理解するうえではタイミングが良かった。

あいまいな記憶だが、以下のような説教だった
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「ふさわしくない」という言葉は、「切って捨てるような印象」があるのは確か。

ただ「ふさわしい」という言葉は「釣り合っている」という意味もあり、「ふさわしくない」という状態に対し「天秤が傾いて釣り合っていないようなイメージ」を私たちは 持つことができる。

この福音は「私たちを切り捨てるような言葉」としてではなく「(天秤が傾いていないか)私たちに問い掛ける言葉」として受け止めるべきである。

私たちは、今日までの人生での歩みの中で、神様と何かを天秤にかけているのではないだろうか?

私たちは、そういった人生の節目において、何かを捨て、何かを残してきた。いろいろと整理してきた。

わたしたちの信仰の原点には「自分のしてもらいたいことを人にする」という教えがあるが、自己本位な選択、
自分勝手に生きる選択をして信仰よりも別のものを優先したことが、はたして無かっただろうか?
そのとき天秤は、やはり傾いていたのではないだろうか?

今日の列王記のエリシャの話を私たちのこととして受け止めるならば、私たちも生活の中で、何度も預言者に出会っている。
ある時は父、母の姿で、または妻、子供、友人として・・・
そのときに、
一杯のを差し出すような 愛を込めた行いによって、私たちは神と出会うのかもしれない。

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記憶をたどりながら印象に残った言葉を羅列した感じなので、ちょっとニュアンスが違うかもしれないが、印象的には上記のような話だったように記憶している。

実際には、この私の覚え書よりも、もっと豊かな表現をされるし、とてもソフトな語り口なので、実際に説教を聞くと、はるかにインパクトがあったのだが、それを表現しきれないのがもどかしい。

乗り越えたと思えるほどに納得したとは思えないし、理解できているのかどうかは自信が無いが、とても心に響くものがあって、腑に落ちないようなモヤモヤした感じではなく、少しホッとしたような気持ちで、家に帰ることができたのは幸いだった。

最近、書店に行くのが、少し億劫になっている。
ネットのおかげで、ちょっと知りたいという程度の情報や知識ならば、検索によって余分な手間をかけずダイレクトに手に入るいうこともある。
あるいは、書店というところが、店舗の大型化によって置いてある本がかなり増えていて、選べる自由もあるけれども、選べることでの負担が増えている感じがすることも原因かもしれない。

目的の本を探すのは大変だし、関連する本も多過ぎてなかなか選べない。

書店という場所が、徐々に私のキャパシティを超えた場所になってきている感じがするので、あまり目的を決めず、時間も割かないようになってきた。

しかしそれでもチラッと視線に止まり何気なく手にとる一冊はあり、そういう本は、もう自分で選んだという気がしない。
神様が出合わせてくれたような感じに思えるのかもしれない。

先週の日曜日にもそういう出合いがあって、ヤマト運輸の経営者として、宅急便というサービスを生み出した小倉昌男さんの評伝である「祈りと経営」という本を買った。
祈りと経営 
どちらかというとビジネス書に分類され、前半はヤマト運輸や福祉財団についての話が主となるが、小倉昌男という人の実像を明らかにしていくなかで、次第に小倉家の「家族」の話に舞台が移っていく。
その展開に引き込まれて、2日で読んでしまった。

ノンフィクションでありながら、ミステリアスな展開ゆえにドラマティクな「物語」になっている。

小倉昌男さんの人生は、ビジネスの世界における優れた経営者としての成功と評価実績とは裏腹に、家庭においては大変重い苦悩を背負っていた人生でもあったことを知った。

その苦悩に真正面から向かい合ったという事に対して、優れた経営者としての姿以上に、その誠実な姿勢に大変な尊敬を覚えた。

権力が嫌いで、企業経営でも福祉財団でも常に弱い立場の側に立って事業を進めている。

小倉さんはカトリックで、福祉財団への巨額の寄付は、弱者に目線を向けるキリスト教の影響が、実践のための動機になったように思う。
もともとキリスト教の別会派ではあったようだが、奥さんの影響を受け転会されている。

ネットサーフィンで、いろいろなブックレビューを読んだが、この本は読後の印象の大きさを伝える投稿が多い。
しかし様々な受け止め方がされていて、小倉さんの苦悩の重さに対し「仕事では成功しても家庭では失敗」いう表現をする人もある。
小倉さんの家庭における苦しみに対し、あたかもその苦しみを取り除くことができるものであるかのように「失敗」という表現をしてしまうのはどうなのだろうか。

なかなか受け止めることができないことだけれども、人生に於いては、何の落度がなくても取り除くことができない苦悩や苦しみを背負わなければならない場合がある。

聖書における旧約聖書のヨブ記や、私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9:23)というキリストの御言葉を、おそらく小倉さんもまた、思い浮かべることが少なくなかっただろう。

そういった苦しみに、どう向き合うかで生き方も変わるし、人生もまた変わるものであるということを、小倉さんはご自身の生き方を通じて多くの人に教えてくれているようにも感じた。 

重い内容だけども、一気に読み終えることができたのは、著者である森健さんの、ストーリーとしてまとめる構想力や文筆力の巧みさがあるが、当事者の家族の証言を載せる取材力も凄いと思った。

苦しんだ当事者が心を許してインタビューを受けるほどの信頼感が生まれた背景には、森さんのジャーナリストとしての姿勢に、誠実さを感じるところがあったのだろう。

登場人物(証言者)が多く、人物を錯綜してしまうところがあったが、強い印象を残す本だった。

著者の森さんは「世を見回せば、似たような境遇の人はいくらでもいるはずだ」とあとがきでふれている。
小倉さんの苦悩は、現代に生きる多くの家族と共通する苦しみなのかもしれない。

小学館ノンフィクション大賞を受賞している。
賞の歴史上初めて選考委員全員が満点をつけて受賞したらしい。

私もこの本は、多くの人にお薦めしたい。

最近、週末の土曜日に「天才!志村どうぶつ園」という番組を見ている。

10年以上続いている長寿番組なので、以前もチラッと見たことはあったかもしれないけれども、ほとんど興味が湧かなかったのは「どうせ品種が良く血統書などが整ったペットショップに並ぶような犬猫の紹介番組だろう」と思いこんでしまっていたからかもしれない。

ところがたまたま偶然に、この番組をじっくり見たら、そういう品種紹介の話以上に、行政で殺処分される運命になったペットの救済活動にも目線を向けた番組制作をしていて、番組内容について全く誤解していたことがわかった。 

スポンサーあっての民放にも関わらず(仮に不利益となる業種があったとしても)社会的な問題に対する視点を失わずに番組制作していることに好感を持つとともに、先入観を持っていたことを申し訳なく思った。

殺処分されるペットの数というのは、 年間で10万匹を超えるらしい。

飼えなくなったペットや野良犬野良猫は、保健所を経由して各地の動物愛護センターに送られるが、長期の収容はできないため、一週間程の保護期間の後は殺処分される。 

しかしそういう動物たちをセンターから引取って、新しい飼い主に斡旋する団体(や個人)も存在している。
 
番組では、殺処分をギリギリ逃れた野良の仔犬を、人間に慣れさせるために、番組のどうぶつ園園長である志村さんが寄り添って育てるコーナーがある。

野良犬でしかも仔犬の場合は、想像する以上に人間に対し警戒心が強くて痛々しいほどに怯えている。

そんな
野良犬に対し、志村さんは、穏やかに優しく声をかけ、愛情深く撫で、時にはじっと忍耐強く反応 を待つ。

志村さんの、あの独特のトボけた雰囲気で優しく動物と接する感じがいい。

ポチと名付けられた野良犬が、少しづつ志村園長に慣れ、警戒心を解いて活き活きとしてくる様を「番組を通じて出演者や視聴者が観る」というそれだけの話と言えばそれだけの話だが、このいのちと魂の救済のプロセスに感動がある。

創られた感動の押しつけではない。

偽ることができない動物だから、これは脚色のない真実のドキュメントで、視聴者は愛による救いの実現を目の当たりにして、やはり心が動き感動する

世界には、人間でありながら、ポチ同様の運命におかれる人がいるということや、キリスト教的には御父の慈しみを想うということも出来ないこともない。

いろいろなことに想いが拡がり、いろいろな想いとともに余韻が残る。

視聴者が、志村園長の動物への接し方に共感するのは、ポチのような哀れな存在に対して「どうしてもほっとけない」というような感覚が呼び醒まされるからなのかもしれない。

この「どうしてもほっとけない」という感覚は、何処から来るのか?

以前、聖書の創世記第1章の「神はご自分にかたどって人間を創りだされた」という箇所の解説をしてもらうなかで「『かたどり』『似姿』の意味というのは肉体ということではなく『神の存在は愛』だから『愛を知る存在』という意味ではないか?」という話を聞いたことがあった。

「どうしてもほっとけない」という感覚が、もともと人間に備わっているものならば、この「神の似姿」の話は、納得できるような感じがした。

2045年問題、あるいはシンギュラリティという言葉が話題になっている。
人工知能(AI)が人間の知能を超えるというのが2045年らしい。
確かに、チェスや将棋の勝負では、名人でもコンピュータに負け始めているというニュースを耳にしたような気がするし、自動車の自動運転技術についての話題も増えた。

自動運転については、今年の秋にも高速道路でトラックによる社会実験があるらしい。
宅急便のヤマト運輸がAmazonの配送量の増加で業務オーバーになっているという直近の問題をふまえれば、自動化に適する高速道路での長距離輸送は自動運転に任せて、宅配の方に人員をシフトしていくというような事は思っている以上に早く進むような気もする。

医療の世界も劇的に変わると言われている。
外科手術のような職人的な技が活きる部分はともかくとして、診察などではビッグデータにつながることで大幅に診療の精度が高まることが期待されている。

AIに判断してもらった方が正確で正しい、あるいは効率も良く生産性も高いとなれば、いままで人間が担ってきた多くの仕事がAIへ移行していくことは避けることはできないような気もして、社会が根底から変わる予感がする。

裁判官のような法曹関係の仕事も、判例がビッグデータ化されることで、AI化が可能という説もある。

いくらビッグデータ化されても、それは無理だろうと思ったら、IBMのワトソンというAIは、ディープラーニングという手法で、インプットされた情報を自ら解析して判断を下すということを繰り返しながら、その経験の蓄積によって「学ぶ」らしい。

AIが、自ら学んで人間の知能を超えたとされたとき、はたしてAIのワトソンは、意思を持っているのか?意識があるのか?愛がわかるのか?心を持つのか?というところは気になるところだ。

「愛とはなんですか?あなたは愛を持ってますか?」とワトソンに問いかけたとき、なんと答えるのだろう。

やはり「わかりません。私にはありません」と答えるのか。

それとも、予想もしない答えをするのか?


スピルバーグの「A.I」という映画や「アンドリューndr114」「アイ,ロボット」といった、
心を持つ
AI(人型ロボット)を描いたSF映画は既にある。
どれも面白そうな映画だが、人間自身が「心はどこにあるのか?」という心脳問題に決着がつけられない(おそらく永遠に決着しない)なかで、先走って「AIも心を持つ」と結論づけているような気もする。

神の被造物である人間ですら 「塵にすぎないお前は塵に返る(創世記3章)という儚い存在であって、 その人間が創ったAIなのだから、いくら桁違いの知能を持つ存在となっても、やっぱり「心」は持てないじゃないかと、私はなんとなく思ってしまうが、果たしてAIのワトソン君はなんと答えるのだろうか?


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