カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

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キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

カテゴリ: 人間を考える

最近、週末の土曜日に「天才!志村どうぶつ園」という番組を見ている。

10年以上続いている長寿番組なので、以前もチラッと見たことはあったかもしれないけれども、ほとんど興味が湧かなかったのは「どうせ品種が良く血統書などが整ったペットショップに並ぶような犬猫の紹介番組だろう」と思いこんでしまっていたからかもしれない。

ところがたまたま偶然に、この番組をじっくり見たら、そういう品種紹介の話以上に、行政で殺処分される運命になったペットの救済活動にも目線を向けた番組制作をしていて、番組内容について全く誤解していたことがわかった。 

スポンサーあっての民放にも関わらず(仮に不利益となる業種があったとしても)社会的な問題に対する視点を失わずに番組制作していることに好感を持つとともに、先入観を持っていたことを申し訳なく思った。

殺処分されるペットの数というのは、 年間で10万匹を超えるらしい。

飼えなくなったペットや野良犬野良猫は、保健所を経由して各地の動物愛護センターに送られるが、長期の収容はできないため、一週間程の保護期間の後は殺処分される。 

しかしそういう動物たちをセンターから引取って、新しい飼い主に斡旋する団体(や個人)も存在している。
 
番組では、殺処分をギリギリ逃れた野良の仔犬を、人間に慣れさせるために、番組のどうぶつ園園長である志村さんが寄り添って育てるコーナーがある。

野良犬でしかも仔犬の場合は、想像する以上に人間に対し警戒心が強くて痛々しいほどに怯えている。

そんな
野良犬に対し、志村さんは、穏やかに優しく声をかけ、愛情深く撫で、時にはじっと忍耐強く反応 を待つ。

志村さんの、あの独特のトボけた雰囲気で優しく動物と接する感じがいい。

ポチと名付けられた野良犬が、少しづつ志村園長に慣れ、警戒心を解いて活き活きとしてくる様を「番組を通じて出演者や視聴者が観る」というそれだけの話と言えばそれだけの話だが、このいのちと魂の救済のプロセスに感動がある。

創られた感動の押しつけではない。

偽ることができない動物だから、これは脚色のない真実のドキュメントで、視聴者は愛による救いの実現を目の当たりにして、やはり心が動き感動する

世界には、人間でありながら、ポチ同様の運命におかれる人がいるということや、キリスト教的には御父の慈しみを想うということも出来ないこともない。

いろいろなことに想いが拡がり、いろいろな想いとともに余韻が残る。

視聴者が、志村園長の動物への接し方に共感するのは、ポチのような哀れな存在に対して「どうしてもほっとけない」というような感覚が呼び醒まされるからなのかもしれない。

この「どうしてもほっとけない」という感覚は、何処から来るのか?

以前、聖書の創世記第1章の「神はご自分にかたどって人間を創りだされた」という箇所の解説をしてもらうなかで「『かたどり』『似姿』の意味というのは肉体ということではなく『神の存在は愛』だから『愛を知る存在』という意味ではないか?」という話を聞いたことがあった。

「どうしてもほっとけない」という感覚が、もともと人間に備わっているものならば、この「神の似姿」の話は、納得できるような感じがした。

2045年問題、あるいはシンギュラリティという言葉が話題になっている。
人工知能(AI)が人間の知能を超えるというのが2045年らしい。
確かに、チェスや将棋の勝負では、名人でもコンピュータに負け始めているというニュースを耳にしたような気がするし、自動車の自動運転技術についての話題も増えた。

自動運転については、今年の秋にも高速道路でトラックによる社会実験があるらしい。
宅急便のヤマト運輸がAmazonの配送量の増加で業務オーバーになっているという直近の問題をふまえれば、自動化に適する高速道路での長距離輸送は自動運転に任せて、宅配の方に人員をシフトしていくというような事は思っている以上に早く進むような気もする。

医療の世界も劇的に変わると言われている。
外科手術のような職人的な技が活きる部分はともかくとして、診察などではビッグデータにつながることで大幅に診療の精度が高まることが期待されている。

AIに判断してもらった方が正確で正しい、あるいは効率も良く生産性も高いとなれば、いままで人間が担ってきた多くの仕事がAIへ移行していくことは避けることはできないような気もして、社会が根底から変わる予感がする。

裁判官のような法曹関係の仕事も、判例がビッグデータ化されることで、AI化が可能という説もある。

いくらビッグデータ化されても、それは無理だろうと思ったら、IBMのワトソンというAIは、ディープラーニングという手法で、インプットされた情報を自ら解析して判断を下すということを繰り返しながら、その経験の蓄積によって「学ぶ」らしい。

AIが、自ら学んで人間の知能を超えたとされたとき、はたしてAIのワトソンは、意思を持っているのか?意識があるのか?愛がわかるのか?心を持つのか?というところは気になるところだ。

「愛とはなんですか?あなたは愛を持ってますか?」とワトソンに問いかけたとき、なんと答えるのだろう。

やはり「わかりません。私にはありません」と答えるのか。

それとも、予想もしない答えをするのか?


スピルバーグの「A.I」という映画や「アンドリューndr114」「アイ,ロボット」といった、
心を持つ
AI(人型ロボット)を描いたSF映画は既にある。
どれも面白そうな映画だが、人間自身が「心はどこにあるのか?」という心脳問題に決着がつけられない(おそらく永遠に決着しない)なかで、先走って「AIも心を持つ」と結論づけているような気もする。

神の被造物である人間ですら 「塵にすぎないお前は塵に返る(創世記3章)という儚い存在であって、 その人間が創ったAIなのだから、いくら桁違いの知能を持つ存在となっても、やっぱり「心」は持てないじゃないかと、私はなんとなく思ってしまうが、果たしてAIのワトソン君はなんと答えるのだろうか?


NHK大河ドラマで戦国時代が舞台になる時は、キリシタンの武将が登場することがあるが、今年の「真田丸」では明石全登という武将が登場した。
高山右近、蒲生氏郷、黒田如水、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠のあたりまでは名前がでてもそこから先はクリスチャンでも知らなかったりするのだが、それ程に有名ではなくても、やはり信仰を持ったがゆえに大きな歴史のうねりに巻き込まれた武将がまだまだ存在し、古文書に名を残しているという事実に、また好奇心が疼く。

関ヶ原合戦当時の総人口は1200万人とも2000万人とも言われているようだが、最盛期(1610年頃)は60万人まで増えたというキリシタンの人口を当てはめれば、人口構成比としては現在の3倍以上の比率になる。

明石全登が登場している大阪夏の陣は、ちょうど高山右近が日本から追放されマニラで亡くなった年(1615年2月)の夏でもあって、キリシタン禁教令の出された1612年とも合わせて見れば、「豊臣氏の滅亡」という歴史上のポイントは、キリシタン史的にも歴史の転換点だったということになる。
明石全登も、大阪城で徳川の大軍を目の前にして後々のキリシタンの行方をも想っただろう。

来年の2月7日に日本のカトリック教会にとって念願の高山右近の列福式があるが、右近がマニラに流された時の日本の有り様にも想像力を働かせ、感覚的に少しでも実感の伴うものにしたいと思ったりする。


くしくもこの高山右近列福式と重なるイベントとして、もう一つキリスト教界隈で大きな注目を集める話題は、遠藤周作さんの代表作で問題小説でもある「沈黙」が映画化されて、年明けの2017年1月21日から公開されるというニュースだ。

高山右近の国外追放以降のキリシタンの歴史というのは潜伏キリシタンの歴史になるが、「沈黙」の舞台は、世界史でも類を見ない熾烈な迫害が記録として残るそのキリシタン禁教令下の日本になる。

ハリウッドのマーティン・スコセッシ監督によって映画化されていて、近いうちに公開されるという噂は、今年の年初には既に伝わっていた。
年内の封切り公開とされていたので少し遅れたが、ホームページでは既に予告編が公開されている。 

一般的にもシリアスで重い映画には違い無いが、カトリック信者、キリスト者にとっては当事者意識を持たざるを得ない為にかなりきつい映画で、予告編でちらっと見た描写だけでも精神的に充分に滅入るものがあった。 
全編を映画で見れば、小説で想像するものとは比較にならない映像の生々しさによって大きく心が揺さぶられるのは間違いない。

そもそもハリウッド映画にむいているような小説では無い。
小説では主観描写と客観描写を混ぜることで「直接語らずに間接的にわかる」ところがあるが、客観描写であるオランダ商館員日記や切支丹屋敷役人日記の部分を、映画でどのように表現するかは難しいとも思う。
同じ遠藤さんの純文学作品でも「侍」のほうが舞台となる場所が多くて多様だから映像的に絵になり易く、こちらの方がおそらく映画化に向いていたとも私は思う。
それでも「沈黙」が映画化されたのはスコセッシ監督の20年越しの想いの強さによってらしい。

生前、遠藤さんもスコセッシ監督の代表作である「タクシードライバー」について、ご子息に「あの映画は観た方がいい」と語っていたらしいから通じ合う何かがあるのかもしれず、スコセッシ監督による映画化は天国で喜んでいるかもしれない。


かつて日本のカトリック教会では長崎教区などで、小説「沈黙」は、信仰の為には読まない方がいいという評価がされたらしい。
現代の日本のカトリック教会がこの映画版「沈黙」に、どのような反応をするかはわからない。
ただし聖職者も含めた感想は多く出るような気はするし、聖職者ほど積極的に語ってほしい。

この映画をどのように受け止めるかによって、信仰にどのように活きるのか、活かされるのかが大きく変わるのだろう。
受け止め方によっては、逆効果ともなり得る。

とりあえず見に行ってみようというのではなく、この映画の場合は小説の方から注意深く細部も読み、どのような受け止め方をするかイメージをしながら見に行った方がいいかもしれない。

観に行くタイミングを図りかねているが、それでも観に行くことになるのは十中八九、間違いはなく、四旬節を迎えた中で、時に直視できなくなるような心の痛みを抱えながら観るのかもしれない。


待降節の最中にあり、希望を持って主の降誕を迎える時なのに、なんともタイミングを外した内容になってしまった・・・

それ程にこの映画は気になって仕方がない・・・

先週の土曜日に京都カテドラルで待降節黙想会があった。

いろいろな用事が溜まっていてどうしようか迷っていたが、やっぱり行くことにしたのは、黙想会の指導司祭が、以前から評判を聞いていた カルメル会の中川博道神父だったことが理由として大きい。

こういう事もささやかな決断なのだけれども、結果としてやはりアクティブな方を選択して良かった。

「この時が来るのを待ってた!」と思う程に、私にとっては期待をはるかに超えた黙想会になったような気がする。


中川師は、第一講話の冒頭、NHKの「ためしてガッテン」などの引用もしながら、現代人のストレスに対処するためのメンタルヘルスの視点から「黙想」の科学的な効用を説明をされた。

短時間であっても静かに自分を心を見つめる時間を持つ事で、心の健康はもとより生産性も向上するという。
繁忙とは、実態だけでなく「繁忙感」による「心の気ぜわしさ」でもあって、多かれ少なかれ、慌ただしさを抱えながらも、黙想会に参加してきた人たちの、気持ちを切り替えるところからスタートさせるというところが上手い。

もちろんこのわかり易い話は イントロで、しだいに心の階層の深くに話は進んでいき、グイグイ話に引き込まれる。

話は、硬軟織り交ぜながら内容が多岐にわたり、しかも一つ一つの内容が精緻に関連しているところがあってポイントをまとめるのが難しいが、どういうことを話されたか断片的に列記すると、

祈りは注意によって成り立つ。どんな注意をしているかということが、どんな祈りをしているかということを大きく左右する。

「キリストに会いたい」という教会の門の前に立つ人に対し、私達はどのように会わせるのか?
そもそも私達自身がキリストに出会えているのか?

主キリストは、受難の始まり(捕縛のとき)と復活の時に、「誰を探しているのか」と尋ねられている。主が言われた言葉は「最終的に、私達は誰を探しているのか?」という私達に向けられた言葉である。

というようなことを話されるのである。

中川神父は、表情が柔和でしかも大変優しい綺麗な声の温厚な紳士なのだけれども、問いかける言葉は鋭い。

しかしその問いかけによって私達を突き離すのではなく、

アビラの聖テレジア、十字架の聖ヨハネ、などの聖人たちは、主キリストと出会うためにどのようにしてきたか?

という話の展開が次にある。

「問いかけ」「ヒントを示し」「考えさせる」という構成になっている。

時に離れたりしたこともあった私と教会との関係は、私の人生の歩みと同じ長さになるわけだけれども、出会ってきた神父は、教区司祭や活動修道会の司祭がほとんどで、観想修道会との縁は少なかった。
というか、やはり観想修道会は少ないので、求めなければ出会え無いのかもしれない。

中川師の話をどれだけ私が理解できたかは心許ないけれども、もしかしたら、私にとってこれほど内容が濃い講話はいままで経験してこなかったかもしれず、これは大変な出来事だったのかもしれないとじわじわと想い初めた。

おそらく今回の黙想会だけでは済まず、以後、宇治カルメルの黙想会にも行くかもしれない。
そういう変化によって、大袈裟かもしれないが人生も変わるだろう。

良き師との出会いというのは、あらためてとても大きな御恵みだと思い、神様に感謝した。

カルメル会宇治修道院の中川博道神父の講話の資料を手に入れたのでご紹介したい。

中川神父が東京から京都に異動されたのは2〜3年前だったと思う。
関西にいることは知っていたが、いままで話を聞く機会をなかなか持てないでいた。

説教の評判については聞いていたが、実際に読んでみると、ぐいぐいと話に引き込まれる。
言葉の運び方の上手さもあるが、誰もが悩み、教えを乞いたいと思うテーマを選ばれていることもあるのだろう。

教会で聞きたい話というのは、こういう話だ。

読むだけではなく、いつかは、直接、話を聞きたい。

今回の講話では、聖ヨハネ・パウロ二世の「サルヴィフィチ・ドローリス」という書簡がテーマにとりあげられている。

「苦しみの意味」についての講話で、以下はその内容である。
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「苦しむものとともに苦しむ神   〜サルヴィフィチ・ドローリスより苦しみのキリスト教的意味を探る〜」

■苦しみの中から生まれた書簡
「サルヴィフィチ・ドローリス」はヨハネ・パウロ二世が二度にわたる暗殺未遂事件によって心身ともに深く傷つかれた中で書かれた 圧倒的な迫力を持った書簡です。この中でヨハネ・パウロ二世は、苦しみは人間に付随する普遍的テーマであり、人間は苦しむ者である、そしてそれはどこにいてもどの時代にも変わらない現実であると言っています。

■本当の自分へ呼ばれる
苦しみの意味を探し求めることの中に、自分が自分になってきたプロセスがあります。苦しみの中で本当の自分へと呼ばれていくのです。ヨハネ・パウロ二世は、わたしたちの苦しみはキリストの苦しみに結ばれて、人の贖い、救いに必ず結びつくということを示しています。
自分が苦しむこと、乗り越えようとしてもがき続けることが、それがどんな苦しみであったとしても、主において受け止めて生きていくということが、人の救いに結びついていくのです。

■苦しみの二つの側面
苦しみには二つの側面があります。苦しみには人間的な意味として、自己を超越させながら本当の自分になっていく道が隠れていると同時に、超自然的な(神の)意味として、キリストとともに苦しむことによって人の贖い、救い、神との出会いの回復がなされていきます。
この書簡の中から見える苦しみについてのモティーフ(動機)は、二つのポイントがあります。
苦しみによってわたしたちは本当の自分へと抜け出ていくこと、そしてこの苦しみは、キリストとともに苦しむときに、人が神と出会っていくこと、贖いを実現していくことです。

■人生の振り返りと意識化の必要
 苦しむというテーマが人間のテーマであるとするならば、人間そのもののテーマを考えるとき、神との関係性なしに人間のことはわかりません。苦しみの意味がわかるということは、人間の意味がわかるということ、そして神の本質がわかるということであり、つまり神のもとにいけば苦しみの意味がわかるのです。自分は何を苦しんできたのか、という人生の振り返りをすすめます。苦しみの意味を考えることは、自分の人生を考えることと重なるからです。意識化して整理することによって、「なんとなくの不安」がすっきりします。不安をかきたてられたり、先が見えなくて苦しみを募らせていくようななかで、いくつかの言葉が自分を支えてくれることがあります。

■苦しむものとともに苦しむ神
イエス・キリストは苦しみへの究極の答えです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)という聖書の箇所から、わたしという存在は、父と子と聖霊の交わりの神が、独り子を失ってでも失いたくないと思った存在なのです。またキリストの十字架の出来事を通して、キリストのおかげでわたしたちが苦しむことの中に意味が生まれました。ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは、誰のために苦しんだのか、ということを絶えず明らかにしています。自分を愛してくださった究極の相手である神のために苦しむということなしに、究極の苦しみは耐え得ないのです。ヨハネ・パウロ二世ははっきりと、苦しみは試練だと言います。これは「善きサマリア人」につながることですが、善きサマリア人はキリストの生き方にわたしたちが招かれるということです。「追いはぎにあった遭った人」、つまりひどい目にあって立ち上がれないくらいに傷ついている人、奪われた人、そのような人はまわりにたくさんいます。ヨハネ・パウロ二世がすすめることは、そのような人に近づいていって、自分の一日を捧げてでも、自分に痛みが伴うことでも、寄り添うことです。そうしていくことで人は必ずこの苦しみが自分の救いになり、また人の救いにつながっていきます。苦しみの救いの働きの意味はこのようなところにあるのです。

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