カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: せごどん

西郷がどのように思われていたかということに対して次のようなエピソードがある。

桐野の無鉄砲な指揮によって田原坂で敗戦した後、薩軍は散ちりじりになるが、西郷の決起に心をよせて軍に加わっていた豊前の中津隊の増田宋太郎が隊を解散しようという時に、
「吾、此処に来り、初めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」と涙を流しながら語り、その後、城山に向かい増田宗太郎は討死した。

若い藩士が切腹するときの作法を語り合っているときに「切腹はいたかぞ〜」と話していた西郷は、自分の死に際しても切腹はしなかった。
「晋どん、もうここでよか」西郷の最後に発した言葉。
「ごめんやったもんせ」西郷が最後に耳にした介錯する別府晋介の言葉。
飾らない人柄そのままの最後だが、何故か印象に残る。

桐野利秋や篠原国幹、別府晋介、村田新八、宮崎八郎・・・・皆、討死した。

城山を攻撃する鎮台兵には、百姓、町民が多数入り交じり武士としての惻隠の情もなかったらしい。
戦闘の興奮状態から、薩軍兵士の遺体の着衣を引きはがし体の一部を切り落とすなどの残虐行為が多数あったという。

ただ政府軍にも薩摩の士族がいたため、かろうじて西郷の遺体は侮辱されることはなかった。

西南戦争は最後の国内戦争で、西郷の死で武士の時代は終わった。

ところで、野村忍介だが、軍議において現実的な彼の献策はことごとく桐野にはねられてしまうが、戦略的にはかなり優れていたらしい。西南戦争の後期では、野村忍介の隊は大いに奮闘し政府軍を驚かせたという。
最後の最後まであきらめずに、思いを貫く。
野村忍介は死なず生き残った。
野村忍介も印象深い人物である。


せごどん=西郷さんの人柄を物語るエピソードはあまりにも多く焦点が絞りにくい。

西南戦争での西郷をとりまく人々も非常に個性的な感じがする。

なかでも「ぼっけもん」そのものといった桐野利秋や篠原国幹の個性は強烈!

また逆に、西郷を慕いつつも新しい時代を理解している村田新八や野村忍介などもいる。
(少し余談。野村忍介は、信教の自由について西郷を説き、西郷の一筆を持って大山県令に掛け合って解禁の高札を県下にかかげさせたらしい。薩摩ではキリシタンだけでなく浄土真宗もご禁制だったとか。)

はたまた、ルソーの「民約論」をふところにいつも入れていた自由民権主義者の熊本の宮崎八郎とかもいて・・・

さらに戊辰戦争での、西郷の温情(庄内で敗将の藩主酒井候に対し礼をもって遇し藩士を感激させた)に恩を感じて、元庄内藩士が加わる・・・

決起した薩軍。
封建秩序の復活を願う復古主義者から自由民権主義者までの両極の人々を包含し、同床異夢の状態で一路東京を目指す!
共通項は西郷を慕う同志であるということのみ!

非論理的だけど、義と情で結束する浪花節。
私も平和な時代に生きていながらなぜか血が騒ぐ不思議な共感。

そこまでに、多くの人が慕う西郷とはいったい何者なのか・・・・・

ちょっと今回はカトリックから離れた話

「せごどん」
とはいったい何のことか?

新しい創作丼でも恐竜の名前でもない。
当時地元では「うどさあ」とも呼ばれていたとも聞く。
少し沖縄料理の名前のようでもあったりもする。

「せごどん」
とは「さいごうどん」→「西郷さん」→「西郷隆盛」のことだ。

「西郷さん」のイメージは勝海舟との江戸城無血開城の交渉をした偉丈夫のイメージが強い感じがするが、私は司馬遼太郎さんの「跳ぶが如く」の影響で、維新後〜西南戦争のイメージも大きい。

歴史上の人物評価では、よく信長、秀吉、家康の3名が、比較され「誰が一番か?」なんて話がよくあるが、この3人の非凡な才能は認めるものの、やはり狡猾、残虐で人柄は好きにはなれない。

「せごどん」のように人柄が慕われ愛された人は日本史のビッグネームのなかでは異彩をはなっている感じがする。

「敬天愛人」 の人であることを想えば、もし聖書を読んでいたとしたら「こいは、よかこつが書いてあるとじゃなかか」と気に入りそうな気もする。

「ラストサムライ」という映画の主人公のモデルにもなった。
映画としては面白かったが、神風連と西南戦争の話が混ざった創作されたストーリーとなり、主人公も「せごどん」のイメージとだいぶ違った。

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