西郷がどのように思われていたかということに対して次のようなエピソードがある。
桐野の無鉄砲な指揮によって田原坂で敗戦した後、薩軍は散ちりじりになるが、西郷の決起に心をよせて軍に加わっていた豊前の中津隊の増田宋太郎が隊を解散しようという時に、
「吾、此処に来り、初めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」と涙を流しながら語り、その後、城山に向かい増田宗太郎は討死した。
若い藩士が切腹するときの作法を語り合っているときに「切腹はいたかぞ〜」と話していた西郷は、自分の死に際しても切腹はしなかった。
「晋どん、もうここでよか」西郷の最後に発した言葉。
「ごめんやったもんせ」西郷が最後に耳にした介錯する別府晋介の言葉。
「吾、此処に来り、初めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生を共にせんのみ」と涙を流しながら語り、その後、城山に向かい増田宗太郎は討死した。
若い藩士が切腹するときの作法を語り合っているときに「切腹はいたかぞ〜」と話していた西郷は、自分の死に際しても切腹はしなかった。
「晋どん、もうここでよか」西郷の最後に発した言葉。
「ごめんやったもんせ」西郷が最後に耳にした介錯する別府晋介の言葉。
飾らない人柄そのままの最後だが、何故か印象に残る。
桐野利秋や篠原国幹、別府晋介、村田新八、宮崎八郎・・・・皆、討死した。
城山を攻撃する鎮台兵には、百姓、町民が多数入り交じり武士としての惻隠の情もなかったらしい。
戦闘の興奮状態から、薩軍兵士の遺体の着衣を引きはがし体の一部を切り落とすなどの残虐行為が多数あったという。
ただ政府軍にも薩摩の士族がいたため、かろうじて西郷の遺体は侮辱されることはなかった。
西南戦争は最後の国内戦争で、西郷の死で武士の時代は終わった。
ところで、野村忍介だが、軍議において現実的な彼の献策はことごとく桐野にはねられてしまうが、戦略的にはかなり優れていたらしい。西南戦争の後期では、野村忍介の隊は大いに奮闘し政府軍を驚かせたという。
最後の最後まであきらめずに、思いを貫く。
野村忍介は死なず生き残った。
野村忍介も印象深い人物である。
桐野利秋や篠原国幹、別府晋介、村田新八、宮崎八郎・・・・皆、討死した。
城山を攻撃する鎮台兵には、百姓、町民が多数入り交じり武士としての惻隠の情もなかったらしい。
戦闘の興奮状態から、薩軍兵士の遺体の着衣を引きはがし体の一部を切り落とすなどの残虐行為が多数あったという。
ただ政府軍にも薩摩の士族がいたため、かろうじて西郷の遺体は侮辱されることはなかった。
西南戦争は最後の国内戦争で、西郷の死で武士の時代は終わった。
ところで、野村忍介だが、軍議において現実的な彼の献策はことごとく桐野にはねられてしまうが、戦略的にはかなり優れていたらしい。西南戦争の後期では、野村忍介の隊は大いに奮闘し政府軍を驚かせたという。
最後の最後まであきらめずに、思いを貫く。
野村忍介は死なず生き残った。
野村忍介も印象深い人物である。