カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの著名人・キリシタン・外国人宣教師 > 戦国期江戸期のキリシタン

江戸時代中期に「親指の聖母」を携えて、日本に渡来したシドッチ神父は、江戸キリシタン山屋敷に収容される。

江戸キリシタン山屋敷は、元々は、宗門改役大目付だった井上筑後守の小日向下屋敷である。
井上筑後守は、殉教者を出さずに転ばせることに力点を置いたので、棄教したバテレンの住まいが必要で、キリシタン山屋敷はその為の場所だった。
棄教したジョセフ・キャラ神父(改名後は岡本三右衛門。遠藤周作「沈黙」のロドリゴのモデルとされる)もここに収容され生涯を終える。

ただしシドッチ神父の場合は、江戸時代中期の1708年(宝永五年)の渡来で、それまでの宣教師とは繋がりがなかったし、直接的にはポルトガルと関係がなくローマの使節であることを強調したためか(宣教をしない条件のもとではあるが)棄教は迫られず、祈祷書の所持や祈りまで許された。

加えて、新井白石という聡明な儒学者との真摯な対話がなされたこともあって、凄惨な記録の多いキリシタン迫害の歴史の中でもささやかな救いになっている。 

新井白石は、シドッチ神父の処遇に際し「第一にかれを本国に返さるる事は上策なり」と上申している。

残念ながら受け入れられなかったが、この上申には
「シドッチがキリシタンであるのは生国の慣し。直ちに処刑するは容易いが心なき技。仁にもとるゆえ易しくない」
「拘禁の継続は役人にも長く心労をかけるばかりか囚人に対し残酷な処置。容易いようで最も面倒」
という内容もあって、先入観に捕われず目の前の現実を直視した上で倫理的に正しい判断を行おうとする理性と温情を感じることができる。

新井白石はキリスト教は全く理解しようしなかったが、シドッチ神父との対話で得た知識を元に「西洋記聞」を記す。

新井白石との出会いがあったためか、または重文の「親指の聖母」の所持者であったためか、シドッチ神父については関心の持たれ方が幅が広く書籍が多い。

近年では、古居智子さんの「密航 〜最後の伴天連シドッティ〜」という本がある。
「羅馬人と出会い候こと一生の奇会たるべく候」という白石の言葉が、本の表紙の帯にあり、新井白石がシドッチ神父との出会いをどのように感じていたかを垣間見れる感じがする。
古居さんは、屋久島への関心からシドッチ神父の話を知ったようで、屋久島上陸の際の描写が特に細かい。
この本は読み応えがあってとても良かった。

サレジオ会のタシナリ神父の書かれた「殉教者シドッティ」という本もいい。
キリシタン屋敷跡が住宅地になる前に調査した記録をもとに大変細かく書かれている。 
キリシタン山屋敷を正確に詳しく知ろうとする気持ちが、図解などを交えた緻密な描写にも現れている。
この本には、ジョセフ・キャラ神父(岡本三右衛門)の墓が、調布のサレジオ神学院に移されているということも書かれてある。
手触りの感覚で当時を偲ぶ手助けになる本という感じがした。


高木一雄さんの「江戸キリシタン山屋敷」という本は、キリシタン屋敷を話の中心に、年譜を追いながら、様々な殉教者や棄教者が、江戸で繋がり重なっていった歴史を綴っている。
この本で新たに知る人物や歴史がある。


こういったシドッチ神父の話を知る中で、新井白石以外にも彼と関わった人物で、どうしても気になる存在があった。
シドッチ神父の中間となった長助、おはるという老夫婦である。

二人はシドッチ神父の身の回りの世話をするための中間であった。

元々は、罪人(キリシタン?)の子供であったため、幼少からキリシタン山屋敷で養われ外に出ず、岡本三右衛門の中間も務めていたらしい。三右衛門の後家と共に墓参りをした記録があるようだ。

一方、キャラではなく黒川寿庵(明国人の修道士、キャラと共に棄教)の中間であったという説もある。
寿庵から洗礼を受けたとも、その時は受けなかったがシドッチ神父から受けたとも言われる。
洗礼については諸説が多くて真実は定まらない。

ただし長助、おはるは、絵踏みの記録があるので、表面上はキリシタンを棄てたことになっていたのだが、シドッチ神父との出会いによって心境に変化が生じ、信仰を明らかにした。

審問後の白石の「本国に返さるる事は上策」という上申は叶わなかったものの、緩やかなものであったシドッチ神父の幽閉は 、この長助、おはるの信仰の告白によって大きく変わる。
このときは将軍家宣の病死に伴い白石もまた権力を失い、シドッチを庇うものはいない。

長助、おはるは、地下牢に移されたシドッチ神父と共に、江戸での最後の殉教者となる。 
苛酷な時代の中で、キリシタン山屋敷に関わり続けた人生であった。 
キリシタン山屋敷の記録と共に、長助、おはるの名前が残り、私たちはその哀しみに満ちた生涯を想い、祈ることが出来る。

シドッチを含めたこの三人の江戸での最後の殉教は、1714年正徳四年)。
時代は既に、八代将軍徳川吉宗の時代になっている。

江戸でのキリシタンの記録は途絶え、日本では、潜伏キリシタンとなった長崎の信徒のみが公には知られないままキリスト教徒として存在することになる。


長崎の潜伏キリシタンの存在が知られるのは、幕末の日本に来訪してフランス寺(大浦天主堂)を建てたプチジャン神父と出会う1865年(元治二年)である。


シドッチの来訪については、だいたいのいきさつを知ってはいましたが、今回の本「密行 最後の伴天連シドッティ」を読んで、その足跡、人間像を、より詳しくに知ることとなりました。

著者の古居智子さん。かなり綿密な下調べをする方ですね。
テンポや全体の構成、章の区切り方もいい。
通勤電車のなかでの読書でも読み易い感じでした。
古居さんのこの本で新たに知ったことをふまえて、少しポイントを整理したいと思います。

シドッチの来訪(上陸した時)の日本の状況、全体像の俯瞰ですが、時代背景は、江戸時代中期の西暦1708年。将軍は綱吉(五代)から家宣(六代)に変わろうとする頃。
島原の乱の終結(1638年)からは70年が経過してます。
キリシタン禁教令は徹底され、潜伏キリシタンを除けば、聖フランシスコ・ザビエル以降の宣教の成果はすべてリセットされた空白の状態で、日本の西洋社会との窓口は長崎の出島のオランダ商館のみという状況。

キリスト教宣教ということでは、歴史の連続性がないピンポイント的な来訪ですよね。
これはやはり第一の特徴です。

もちろんポイントはそれだけではありません。

第二は、シドッチは、スペインやポルトガルなど覇権国の司祭ではなくローマ教区の司祭、布教聖省直属の宣教師であり、来訪にあたってローマ教皇の命令書が存在していた可能性があったということ。
ローマの外交使節として受け止めるかどうかというのも尋問のポイントだったようです。

第三は、シドッチ自身が、神学やスコラ哲学だけではなく、地理学、天文学、科学、人文学の面でも卓越した知識人であり、尋問した側も江戸時代随一の知識人とも言われる儒臣 新井白石だったということ。
尋問、審判、詮議という枠組みを超えた、知的「対話」となったということは、やはり新井白石の存在が大きい。
また白石がこの経験を「西洋紀聞」に書き残したことによって、現代の私たちがこの対話を知ることができたわけですよね。

第四は、持参した「親指の聖母」画が、現代に残ったということ。

親指の聖母48












その後の明治時代の禁教令解除までの時間の永さや、幕府崩壊の混乱を思えば、残ったということが運命的な感じがします。
しかもシドッチの遺品ということがわかったのは、白石がシドッチの所持品の写し絵を残していたからのようです。

以上が、私の主観で思いつくままに列記したポイントですが、やはりシドッチと新井白石との遭遇ということが非常に印象的で、次回は、引き続き白石との対話について書いていきたいと思います。

通勤電車での読書が、私の日課だったのですが、ここのところ全く本を読めてませんでした。

原因はやはりスマホです。

いつでもどこでもネットにつながる環境になると、頭の中にある気になるワードを、すぐ検索してしまうクセがついてしまって、無目的にやたらとネットサーフィンをしてしまう。

揺れる電車で小さなスマホの画面を覗き込んで、なんか眼にとても悪い感じ。
画面が小さいから、しらずしらずに、かなり小さな文字をおいかけているハズです。

入る情報も断片的で深みがない。

ということで反省し、久しぶりにまた本を読み始めました。

P1030907
「密行 最後の伴天連シドッティ」という本。

入念な資料のの下調べをもとに、シドッティの日本密行への軌跡と、新井白石との出会いが、とてもスリリングに描かれていて一気に引き込まれてしまった・・・

2日で読み終えてしまいました。

やはり、本を読まないといけないと痛感。

すみません。前フリが長くなりすぎましたのでブックレビューは次回ということでお許しを・・・

モーツアルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ですが、御ミサで聴いた事がありました。
いつだったかよく覚えていないのですが、確か四谷のイグナチオ教会だったと思います。聖体拝領のときに聖歌隊が歌っていたような記憶。

やはり「きれいな曲」だなと思いました。
ただその時は数あるラテン語聖歌といっしょくたにして「やはりラテン語聖歌はいいな」というような感じ方・・・

実はよく聴いているのは(ipodですが)最近です。

モーツアルトはあらゆるところで耳にするので、どうしても食傷気味で、望んで聴こうと思わなかったのですが、この「
アヴェ・ヴェルム・コルプス」は繰返し繰返し何回も聴いてしまう。
噛めば噛むほど味が出るなんとかみたいで、10回続けて聴いても飽きない。心境の変化に自分でも驚きです。

グレゴリオ聖歌で男性のアカペラを聴いて、アヴェマリアでソプラノの良さ、テノールの良さを実感した後だったので混成4部合唱の良さを体感しているのかもしれませんね。

もちろん圧倒的な旋律の美しさというのは確かにある。

しかし心を揺さぶられるのはそれだけはなく、その歌詞にもあると思うのは、やはり私がカトリックだからなのでしょう。

目をつぶって聴いていると、いろいろなイメージが広がりますが、哀愁のある旋律と、キリストの受難を唱う歌詞は、やはり鎮魂の曲で、殉教について思わされます。

cujus latus perforatum
unda fluxit et sanguine.
貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。

Esto nobis praegustatum
in mortis examine.
我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。

のところです。

amakusasirou zinntyuuki 11

私の場合は「綸子地著色聖体秘蹟図指物・天草四郎陣中旗」などもイメージのなかに登場してきます。
漢字で書くと違和感があるけど、ビジュアルを見ると違和感はないでしょ。。。

アヴェ・ヴェルム・コルプスが、島原の空に響く情景を想像していると涙がでてきます。

美しいなメロディーですから、ちまたの結婚式場のチャペルで歌われることもあるようです。歌詞の意味を理解して歌われていないのですね。

私もイグナチオ教会で聴いたときは歌詞を理解してなかったわけで、同じだと思うとかなり恥ずかしい。というかもったいないことをした。
もう一度聖堂のなかで、御聖体を仰ぎ見つつ聴きたいと思います。

加えて、もう一言。

この一曲をもってモーツアルトの偉大さがわかる
と言われる珠玉の名曲なのに、聖堂の中で、あまり聴かれない唱われないというのは、なんとももったいないことですよね・・・

その昔、ダリオ高山飛騨守(高山右近の父)は宣教師から「あなたは何を望んでいるか?」と聞かれた際、「聖なる御教えのもとに日々を過ごせる事が出来て何も望むものはない」と答えるのだけれども、しばらくしてから「う〜んやっぱり」という感じで「もしかなうのならば、この目でローマを見て、パパ様に拝謁したい!」と答えたそうです。

ダリオ高山飛騨守の人柄を知るエピソードで好きな話です。

(この話のソースはフロイスの日本史なんですが、書いてある場所がわからなくなった!少し表現は違うかもしれません。すみません)

そもそもが、始めは大のキリシタン嫌いで、こらしめてやろうとしてロレンソを呼びつけたのに、話を聞いているうちに感化されて自分もキリシタンになってしまったんですよね。
可笑しいけど、素直さに心がひかれます。愛すべき人柄ですよね。

またまたこんな話もある
高山父子の主君である荒木村重が信長に謀反をおこした時、右近と飛騨守は、右近は大元の主君である信長、飛騨守は直接の主君である村重ということで意見が割れ、飛騨守は信長派が大勢となった高槻から出て村重のもとに立ち去るのだけれども、親子で敵味方に分かれたシリアスな道中の中で、ロザリオを忘れた事に気づいてあわてて侍者を引き取りに向わせたという。
こんな話がなぜ残っているのか不思議。
宣教師達には、飛騨守のそそっかしいところが人間くさくて印象に残ったのでしょうね。

凄惨な迫害の歴史の少し前に、こんな記録が残っていることに、少しホッとするものがあります。

当時と今とでは、違うとこは違うけど同じようなところもある。
なにか親しみがわきますね。

私の、もう一つ別のブログ「日本の名聖堂 100選」http://blog.livedoor.jp/kenitchie-seidou/
「日本の名聖堂 100選」の選考作業を開始しました。
伝統様式の名聖堂をアーカイブとして見れるようにしていきたいと思います。ご興味おありの方は、どうぞぜひご覧下さい。




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