カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: 世の中のことについて

来住神父と曹洞宗僧侶の南直哉さんとの対談本で「禅と福音」といういう本を読んだ。 

宗教間対話なので、 神学的哲学的な内容になるため、さらっとは読めない。
内容には引き込まれるが、自分が話の内容についていけてるのか確認するために何回も読み返すので、この読後感想にも時間がかかった。

前半は、お互いの信仰に踏み込んでいくスリリングな神学的対話で、それぞれの立場から質問し合うのだが、宗論を闘わすというわけではなく、好奇心のままに探求し合う感じで、私の場合は、来住神父の答えを読んでいくことで、あらためて要理を学び直しているようにも思ったし、また逆に仏教に対しては、日本人の視点からその深遠さを覗かせてもらったような感じもあった。

ただこの対談は、そういう教理的な神学対話だけではなく、現実世界の善悪の判断が必要になる問題に対し、宗教者としてどう向き合うかというところに、話が発展している。 

そういう問題に倫理的に答えを出していくところにこそ、宗教者の出番があり、その覚悟が問われていると僧侶の南さんは語る。 

例えば、今年の座間の事件のように、現代でも直視することが辛い残虐、凶悪で異常な犯罪が時に発生する。
一方で、死刑という制度をどうするかということに対しては、その刑罰の存在が問われている。

死刑制度の問題に対し、社会秩序の維持という「道徳」の視点や、過去からの「掟」ではなく「倫理」的な視点から、善悪の根拠を示すというのは仏教的には難しいらしい。
しかし南さんは「善の根拠」という本を書かれたこともあって「人が実存する以上、善悪なしにはすまない」とこだわる。

この死刑制度の是非に対しては、日本の司教団や教皇フランシスコは、はっきりと死刑反対のメッセージを出しているが、来住神父は、次のような見解を述べている。
本人も言われているが、カトリック教会内ではかなり少数意見だと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私が言うことは、超少数派の意見として聞いてください。
死刑への賛成・反対は、非常に重要な二つの観点の相克であって、意見が二分するのは当然だと思います。カトリックなら当然に死刑廃止論であるべきだ、ということにはならない。

私自身は原理的には死刑制度存置論者です。正義の観点からして、この人は死刑にすべきだというケースはありえます。その余地は残しておくべきです。

そういうと、「目には目を」という考えはいけないと言われるのですが、別に殺人を犯した人みんなを死刑にしろと言いたいわけではない。一方で加害者の命、これから実りあるものになるかもしれない人生がある。その価値は私も認めています。

しかし一方で、ここに理不尽に奪われた人間の命がある。
加害者の命が神の前に尊いのであれば、失われた被害者の命も尊い。
地上から失われてしまった命は「もう仕方がない」それを奪った命が大事だとは、キリスト教の立場からも言えないはずです。
創世記には「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(4・10)
という言葉があります。

まずそのふたつの価値を認めた上で、動機や殺害の具体的な仕方を考える。
加害者がのうのうと生きていて、被害者の家族が悲嘆の底に沈んだままというのは、どうしても看過できないといった特別なケースにおいては死刑もありうるということです。ギリシャ哲学における正義は「つりあい」の感覚ですから。

とはいえ誤審の可能性は無視できないほど大きいので、現実的な選択肢としては「終身刑ありの死刑廃止論」を支持するでしょう。誤審は本当に多い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

社会においては、悪魔的とも言える残虐な事件が、現実にあるのであって、「加害者がのうのうと生きていて、被害者の家族が悲嘆の底に沈んだままというのは、どうしても看過できない」という見方は、私にもある。

実際には、有期刑の最長が30年になったため、無期懲役の判決は最低でも30年間は仮釈放は無いということになったらしい。
無期懲役が事実上の終身刑になっていくのであれば、死刑が(誤審リスクや刑務官の負担の問題を思えば)廃止できればそれにこしたことはない。

ただし「『文明国ならば死刑廃止は当然』というような、上から目線の涼しげな意見に対し違和感がある。」という感覚には共感するし、「応報の正義を無視した社会は寛大なように見えて堕落する。」という意見は偽りのない正論だと思う。


また来住神父は次のような発言もされている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「戦争の問題は、カトリック内でもデリケートな話題ですが、実をいうと、私は旧社会党が主張していた「非武装中立論」には我慢できない。無責任な議論だと思っています。(中略)
それなら戦争がおころうとしたときにどうするのかと問われざるをえない」

「キリスト者は『神と対話できる自分』を普段から養う努力をして、何か起こったときには、神と対話しつつ、自分の責任で行動を決めるしかない。」

「『私はキリスト者だから、こう主張する』とは言えても、『キリスト者なら、こう主張するはずだ」とは言えないのです。日本のキリスト教の内部ではこれがはっきりしていない気がします。ここを誤ると、自分と見解を同じくしないキリスト者を『それではキリスト者とは言えない』という非難を投げつけることになります。」

「『自分の主張を国は採用しないだろう』という前提で戦争に反対するのだとしたら、それは現実に責任を持つ人の態度ではないと思えてならないのです。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーー
来住神父は「カトリック内(特に聖職者)ではマージナルな存在」と書かれているが、現実に向き合う姿勢が、非常に素直な感じがした。

私が共感した箇所は、上記以外にも多くあって書ききれない。

マージナルな存在」である来住神父に共感する私もまた、 きっと「マージナルな存在」なのだろう。

最近、週末の土曜日に「天才!志村どうぶつ園」という番組を見ている。

10年以上続いている長寿番組なので、以前もチラッと見たことはあったかもしれないけれども、ほとんど興味が湧かなかったのは「どうせ品種が良く血統書などが整ったペットショップに並ぶような犬猫の紹介番組だろう」と思いこんでしまっていたからかもしれない。

ところがたまたま偶然に、この番組をじっくり見たら、そういう品種紹介の話以上に、行政で殺処分される運命になったペットの救済活動にも目線を向けた番組制作をしていて、番組内容について全く誤解していたことがわかった。 

スポンサーあっての民放にも関わらず(仮に不利益となる業種があったとしても)社会的な問題に対する視点を失わずに番組制作していることに好感を持つとともに、先入観を持っていたことを申し訳なく思った。

殺処分されるペットの数というのは、 年間で10万匹を超えるらしい。

飼えなくなったペットや野良犬野良猫は、保健所を経由して各地の動物愛護センターに送られるが、長期の収容はできないため、一週間程の保護期間の後は殺処分される。 

しかしそういう動物たちをセンターから引取って、新しい飼い主に斡旋する団体(や個人)も存在している。
 
番組では、殺処分をギリギリ逃れた野良の仔犬を、人間に慣れさせるために、番組のどうぶつ園園長である志村さんが寄り添って育てるコーナーがある。

野良犬でしかも仔犬の場合は、想像する以上に人間に対し警戒心が強くて痛々しいほどに怯えている。

そんな
野良犬に対し、志村さんは、穏やかに優しく声をかけ、愛情深く撫で、時にはじっと忍耐強く反応 を待つ。

志村さんの、あの独特のトボけた雰囲気で優しく動物と接する感じがいい。

ポチと名付けられた野良犬が、少しづつ志村園長に慣れ、警戒心を解いて活き活きとしてくる様を「番組を通じて出演者や視聴者が観る」というそれだけの話と言えばそれだけの話だが、このいのちと魂の救済のプロセスに感動がある。

創られた感動の押しつけではない。

偽ることができない動物だから、これは脚色のない真実のドキュメントで、視聴者は愛による救いの実現を目の当たりにして、やはり心が動き感動する

世界には、人間でありながら、ポチ同様の運命におかれる人がいるということや、キリスト教的には御父の慈しみを想うということも出来ないこともない。

いろいろなことに想いが拡がり、いろいろな想いとともに余韻が残る。

視聴者が、志村園長の動物への接し方に共感するのは、ポチのような哀れな存在に対して「どうしてもほっとけない」というような感覚が呼び醒まされるからなのかもしれない。

この「どうしてもほっとけない」という感覚は、何処から来るのか?

以前、聖書の創世記第1章の「神はご自分にかたどって人間を創りだされた」という箇所の解説をしてもらうなかで「『かたどり』『似姿』の意味というのは肉体ということではなく『神の存在は愛』だから『愛を知る存在』という意味ではないか?」という話を聞いたことがあった。

「どうしてもほっとけない」という感覚が、もともと人間に備わっているものならば、この「神の似姿」の話は、納得できるような感じがした。

2045年問題、あるいはシンギュラリティという言葉が話題になっている。
人工知能(AI)が人間の知能を超えるというのが2045年らしい。
確かに、チェスや将棋の勝負では、名人でもコンピュータに負け始めているというニュースを耳にしたような気がするし、自動車の自動運転技術についての話題も増えた。

自動運転については、今年の秋にも高速道路でトラックによる社会実験があるらしい。
宅急便のヤマト運輸がAmazonの配送量の増加で業務オーバーになっているという直近の問題をふまえれば、自動化に適する高速道路での長距離輸送は自動運転に任せて、宅配の方に人員をシフトしていくというような事は思っている以上に早く進むような気もする。

医療の世界も劇的に変わると言われている。
外科手術のような職人的な技が活きる部分はともかくとして、診察などではビッグデータにつながることで大幅に診療の精度が高まることが期待されている。

AIに判断してもらった方が正確で正しい、あるいは効率も良く生産性も高いとなれば、いままで人間が担ってきた多くの仕事がAIへ移行していくことは避けることはできないような気もして、社会が根底から変わる予感がする。

裁判官のような法曹関係の仕事も、判例がビッグデータ化されることで、AI化が可能という説もある。

いくらビッグデータ化されても、それは無理だろうと思ったら、IBMのワトソンというAIは、ディープラーニングという手法で、インプットされた情報を自ら解析して判断を下すということを繰り返しながら、その経験の蓄積によって「学ぶ」らしい。

AIが、自ら学んで人間の知能を超えたとされたとき、はたしてAIのワトソンは、意思を持っているのか?意識があるのか?愛がわかるのか?心を持つのか?というところは気になるところだ。

「愛とはなんですか?あなたは愛を持ってますか?」とワトソンに問いかけたとき、なんと答えるのだろう。

やはり「わかりません。私にはありません」と答えるのか。

それとも、予想もしない答えをするのか?


スピルバーグの「A.I」という映画や「アンドリューndr114」「アイ,ロボット」といった、
心を持つ
AI(人型ロボット)を描いたSF映画は既にある。
どれも面白そうな映画だが、人間自身が「心はどこにあるのか?」という心脳問題に決着がつけられない(おそらく永遠に決着しない)なかで、先走って「AIも心を持つ」と結論づけているような気もする。

神の被造物である人間ですら 「塵にすぎないお前は塵に返る(創世記3章)という儚い存在であって、 その人間が創ったAIなのだから、いくら桁違いの知能を持つ存在となっても、やっぱり「心」は持てないじゃないかと、私はなんとなく思ってしまうが、果たしてAIのワトソン君はなんと答えるのだろうか?


アメリカでは人工妊娠中絶に反対するプロライフ運動が盛んで、大規模なデモが行なわれる事があると聞いた事があった。

ワシントンで行なわれるマーチフォーライフというデモは、参加者が50万人にもなるらしく、フランシスコ教皇も「祈りを持って参加する」というメッセージを出されている。

いままで知らなかったが、このマーチフォーライフは2014年から日本でも行なわれているらしい。

2016年の今年も、先日の参議院選挙があった7月10日日曜日に東京であった。
優生保護法が成立したのが7月13日なので、毎年7月の第二日曜日に行うことにしているようだ。

「脱原発デモで「子どものいのちを守ろう」と叫んでいるひとが中絶を容認していたら、それは木を見て森を見ない態度と言わざるをえません。」

と代表の池田さんはネットで語っている。

  http://prolife.jp/mfl.html

マザー・テレサも「平和に対する最大の脅威は中絶」であり、「中絶の現実に比べればどんな悲惨な戦争も驚くに値しない」という言葉を残したらしい。

マザー・テレサが来日した1981年から35年も過ぎているのに日本の社会に改善の兆しはない。


プロライフ運動に対しては、なぜか日本のカトリック教会も反応が非常に鈍い。
無反応に等しい状態といってもいい。

「いのちへのまなざし」という司教団メッセージが出たことはあったが、安保法制反対、憲法改正反対というような体制批判のためにそそぐエネルギーには遥かにおよばない。

例をあげれば、カトリック正平協が出している「すべての人のいのちと平和な暮らしのために。教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙出来ない」という冊子がある。
 
例によって、ごちゃごちゃと体制批判政権批判がいろいろ書かれている。

ところが「教会は人間のいのちと尊厳に関する問題に沈黙出来ない」と表紙に書いておきながら、堕胎という最もわかりやすい「人間のいのちと尊厳に関する問題」に対する記述は一言もない。

正平協にとって、こういう言行不一致は気にならないようだ。

美しく聞こえる言葉は、共産主義に迎合したリベラルな政治活動をするためのプロパガンダで、堕胎によって命を絶たれる胎児に対しては黙殺するのが現在の日本のカトリック正平協の姿だ。

美辞麗句をいくら並べても本当の弱者に寄り添う姿勢は全く見えない。
 
カトリック信者でもカトリック正平協にそっぽを向く人が少なくないのは、こういう偏向的で偽善的なところが嫌なのだろう。


アメリカのマーチフォーライフでは、「見捨てられた人のために口を開け(箴言31-8) という聖句が引用されるらしい。

「もの言えぬ人の命を守る」ためには原点にあるプロライフについてスルーすることはありえないという素直な動機が、
50万人デモという大きなうねりとなっている。

日本のマーチフォーライフ代表の池田さんは、ワシントンDCの50万人デモに参加した印象を、次のように語っている。

やさぐれた思春期以来、こんなにも希望に満ちた光景に出会うのは初めてでした。世界が変わりました。そして、ここから世界が変わると確信しました。興味は喜びに変わりました。気がつけばハッピーの渦のなかにいました。もはや誰も、やさぐれている必要はありません。ここに来て声をあげるのです。傷を負っていたひとも笑顔で前を向きます。いのちを守ろう! 一点の曇りもないその思いから、世界は変わるでしょう。政治が、経済が、そして表現の可能性が変わるでしょう。

中年になっても私は「やさぐれた」ままだが、池田さんは「マーチフォーライフ」によって閉塞感から既に脱出されているように感じた。

今回の地震被害は大きく、大震災の様相を呈している。

様々な募金が行われ始めているが、それぞれに用途が違うので見極めながら複数の募金を行ったほうが良いようだ。

「義援金」という名前の募金は被災者に直接届くものになるらしい。

日本赤十字  だけでなく 熊本県  も募っている。
(※「熊本市」のサイトもあったがアクセス集中だろうか?繋がらなくなってるようだ。)

「支援金」という名前の募金は、災害被害にあった公共機関への寄付になるようで、
熊本市は、熊本城の修復再建目的の支援金を募っている。

現時点では、被災地域での救援活動に費用がかかるから、支援団体への寄付も、同時に行ったほうがいい。

カトリックの場合は、 カリタスジャパン がある。
収支報告の細かさではカトリック信者ではない方からも評価があると言われている。
カトリック福岡司教区  でも募金を募っている。熊本の教会のためにも募金が使われると思う。

このような事態を迎えての支援というのは、物的支援、経済的支援というものが、先ずは有効で効果的な支援だ。

こういうお金の話を主とするならば、
世の中の声の中には
「無理のない範囲で支援して普段通りの生活を続ければいい」
「自粛して経済活動が冷え込めば、結果的に被災地支援にならない」
という意見もある。

理屈に合っていて現実的な考え方だと思うが、自分本位な表現で、傷ついた被災者への共感、祈りの姿勢に乏しいような気がする。
「自分の普段通りの生活は変えたくない」という気持ちがストレートに表われているようでザラザラした感じだ。

もしかしたら 「被災地の人たちが悲惨な状況にあるなかで普段通りの生活を続ける」ことに対する「やましさ」から、募金額が増えるということもあるのかもしれないが、 多くの場合は 「無理のない範囲で支援して普段通りの生活を続ければいい」という姿勢ならば、人間とは弱い生き物だから 、日常的な空気感のなかでは 募金をしようと思う心の動きも鈍るのではないだろうか?

経済的に豊かな人は違うかもしれないが、庶民的には、 募金しようと思えば何かの支出を削ることにはなると思うし、そういう(募金に回す為に自分の事での)支出抑制は、あって当然である。

世間で言われる「自粛」の定義がよくわからないが、被災地被災者というかたまりではなく、傷ついた一人一人の人間の苦しみ悲しみに寄り添うためには、自分は傷つかずに経済の好循環によって支援の有効性だけを満たせば良いということではないような感じがする。

「やましさ」という心の動きも、被災者に対する心が疼きから生まれるものであるかもしれず、やはり被災者への同情や共感が出発点にあって事は動く。

心の疼きは祈りの起点だ。

キリスト教的には、被災者の為に祈り、犠牲を捧げる事は尊い。

マザーテレサの元で働いていた 片柳神父が次のようなメッセージを発している。

「祈りなど無駄だ」と言う人がいますが、そんなことはありません。相手の顔を思い浮かべ、相手の悲しみと苦しみを想像しながら必死に祈るとき、自分のすべきことが分かるからです。

祈りが、犠牲や行動を促すというメッセージである。

「祈りと共に行動する」あるいは「祈りながら行動する」
私はこちらの姿勢のほうが、被災者に対して誠実であり、素直な感じがする。


人間には、利己的な心と利他的な心があって、 この二つの心の間を日々、振り子のように 揺れ動く。

利他的な方に振れたときに始まる心の動きというのは、すでに祈りが始まっているということなのかもしれない。

やはり苦しむ人が多くいる今の状況では、振り子を利他的な気持ちの方にあえて振った方がいい。

↑このページのトップヘ