カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: イマドキのカトリック教会

とてもイヤな記事をツイートで見てしまった。

上智大学教授である中野晃一さんの安保法制の演説についてである。

この中野教授は、首都圏の教会で頻繁に、カトリック正平脇の集会や学習会の講師をされている人。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/268381
 
このURLの安保法制反対の集会の演説は、教会とは直接関係はない場での話なので、本来は文句を言う筋合いはない。

ただ、カトリック信者としてどうしても拒絶してしまう言葉を見つけてしまった。

「野党の共闘にも、ぜひその踏み絵を踏ませようじゃありませんか。

 どっち側に着くんだ?

 国家権力の暴走に組みするのか?

 それとも個人の尊厳を守る私たち個々人の連帯の側に来るのか?

 はっきりさせようじゃありませんか。」


たとえ政治的な意見表明の文脈の中であったとしても上智大教授でありカトリック正平脇の学習会での講師をされている方が「踏み絵を踏ませようじゃありませんか。」という言葉を発することのできるということに、私は驚きを禁じ得なかった。

「踏み絵」 という言葉は、私にとっては一瞬で脊髄反応がおきてしまう言葉である。

中野教授がカトリック信者かどうかは知らない。

しかし「踏み絵を踏ませようじゃありませんか。 という言葉にカトリック信者がどのような思いを持つかも解っていない人が、 カトリック正平脇の学習会での講師 をしているのである。

いったい カトリック正平脇は、 この人物から何を学んでいるのか?

「個人の尊厳を守る」とか美辞麗句を並べても、絵踏みをさせられた人々の心の痛みがわからないのならカトリック信者にとっては、この人のすべての言葉は虚しい。

私にとっては、安保法制の是非よりも、「踏み絵」 という言葉を弄ぶことのほうが、はるかに大きな問題と感じる。

「踏み絵」の苦しみは歴史に残る事実であり、少なくとも教会においては軽々しく扱う言葉ではない。その感性に、教会の学習会で講師をする適性を疑う。

ほんのひとかけらでもその苦しみを想う気持ちを失ったら日本のカトリック教会はもう終わりだ。

私は 「踏み絵」 という言葉を弄ぶような人の話を、一言たりとも聞こうと思わない。


今回のブログ記事は事前告知。

一年に一回だけ行なわれるラテン語ミサが二つあり、11月は少し慌ただしい。

一つは東京。目白カテドラル
「荘厳司教ミサ」
主催は、カトリック・アクション同志会
11月7日(土)13時40分から

http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/25thmassinfo.html

ラテン語通常形式で、グレゴリオ聖歌による歌ミサ。
主司式は岡田大司教様。加えて多数の司祭による共同司式。

このミサには、もう過去5回与っている。
私は、バンドミサに嫌気がさして一時は教会に来なくなったことがあったような人間だから、教会に立ち帰った後は、このミサは私の大きな心の支えになってきた。



もう一つは京都。北白川教会
「ローマ典礼特別形式歌ミサ」
主催は、UVJ(ウナ・ヴォーチェジャパン)
11月22日(日)14時から

http://uvj.jp/mass/6304/

初めてこのブログを読まれる方のために、少し補足すると、UVJ
(ウナ・ヴォーチェジャパン)は、 「特別形式ミサ」の擁護と促進を目的とする国際団体の日本支部で、信心会として東京教区で活動を認められた2010年設立の比較的新しい信徒団体である。

「特別形式ミサ」というのは、第二ヴァチカン公会議以前のラテン語のミサで、通称トリエント・ミサとも呼ばれるミサのこと。

一般に
トリエント・ミサというのは、現在のミサに切り替わる前のミサと思われがちである。

しかし近年になってベネディクト16世教皇様の教令によって、現在のミサは「通常形式ミサ」で、トリエント・ミサは「特別形式ミサ」と位置付けられている。

したがって、いまこのミサを捧げられることがあっても全く問題はないし、UVJは東京教区で信心会として認められている信徒団体であることを、重ねて強調しておきたい。

このUVJ の「特別形式ミサ」は、東京で毎月定例ミサがあるのだが、関西でも、かろうじて一年に一回だけはなんとかあって、それが今年は、上述の「11月22日(日曜日)」になる。


もっとも関西では、カトリック聖歌集で歌うことができる、シンプルで基本的なラテン語ミサである「 天使ミサ」ですら滅多にない。

そもそもその
カトリック聖歌集を処分している教会が少なくないのである。

私の教会遍歴のなかでも
「日本ではラテン語ミサなど無理」というようなことを言う教会役員がいたが、そういう教会では、既にカトリック聖歌集が処分されていて 天使ミサ」 排除し消滅させるための一行程となっていた。

もちろん、関西を広く見渡せば、グレゴリオ聖歌を守り続けるグループが存在する小教区もまだあるのだが、少なくとも私がよく知る小教区はどこもかしこもカトリック聖歌集は存在していないのは事実だ。

なにゆえに日本の教会が、かくも「ラテン語、グレゴリオ聖歌の排除、消滅」にエネルギーを注ぐのか、その理由は、全くもって私にはわからない。

しかしこのようにラテン語、グレゴリオ聖歌においては荒廃してしまった関西で、「天使ミサ」どころか「ラテン語特別形式ミサ」が捧げられ、声高らかにグレゴリオ聖歌が歌われるという意義はとても大きい。




少しでも上述のミサに興味を持たれた方で、まだ与ったことのない方には次のことをお伝えしたい。

初めてラテン語ミサに与る際には、ラテン語の祈りやグレゴリオ聖歌を、知識として知っているかどうかは重要ではないということをである。

我々の普段与るミサからラテン語は排除されてきたのだから、わからなくて当たり前で、知識はゼロでいいので躊躇することなくこのミサに与ってほしい。

大切なことは、先ずは、このミサに与ることで、ミサの持つ本来の豊かな姿というものを体感し、日本の教会から失われているものの大きさをわかってもらうことのほうが重要と思うからだ。

ラテン語、グレゴリオ聖歌は、第二ヴァチカン公会議前はもちろん、公会議後もしばらくは、日本の教会には間違いなく存在していた。
NICE(
ナイス)などの、「典礼を生き生きとしたものとするために刷新する」 という方針のもとに、伝統は意図的に排除されてきたのである。

現在の日本のカトリック教会のミサは、日本への文化的適合(とされているが単純化平易化である)によって、古代から受け継がれ育まれてきたカトリック教会の伝統的なミサの持つ美しさ豊かさがあまりにも薄められてしまっている。

取り戻さなければ、おそらくこれ以上、日本で「麦穂」は育たないんじゃないだろうか・・・

フィーリング信徒である私は、そんなことを思う。

また晴佐久神父の話になるが、「教会の外に救いなし」という言葉の解釈を「救いのあるところが教会」と言葉を逆転させて話されているのを聞いたことがある。
(記憶があいまいだが、確かネットの「俗は聖の器」の講話だったと思う http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110726)

一言でズバッと切る晴佐久神父の歯切れの良さを実感した講話だったが、この言葉は、私にとって「教会」を求める旅を促す言葉になっている。


ボンクリであった私が、かつて全く教会に足を向けなかった時期があることは、このブログでも何回も書いた。

毎日歯を磨くように毎週日曜日にはミサに与るというのは、そのこと自体は信仰の土台を固めるということではとても大事なことだと思う。

しかし信徒数が極端に少なくキリスト教が浸透しているとはいいがたい日本という国では、生活習慣だけでは信仰が持続しないということを私は自分の人生経験によって体感している。

やはり「教会に対して救いを求める気持ち」がないと駄目なのだろう。


晴佐久神父は「ミサには完璧な救いがある」とも言う。 

私が、晴佐久神父に共感するのは、おそらくこの教えによって教会というところに希望を持つ事ができるからだ。


しかし・・・

自分では「ミサに救いを見出す感性」を磨いているつもりでも、現実には実感を伴わない事がどうしてもある。


やはり第二ヴァチカン公会議以降、あまりにも多くのミサ典礼の改革が行われ、日本でのミサは変わり過ぎた。

いや、進行形でまだまだ変わり続けている。今年もまた、年末の待降節から「跪き」が全廃されようとしているのである。   

私には、その変化の先にあるものが全く見えないし、わからない。
目的が曖昧なまま、ただ彷徨っているようにしか見えない。


ミサ典礼が次々に変わろうが惑わされずに順応でき、改革に積極的に関わって教会を「現代的?」にどんどん変えたいと思う信徒はストレスも無いだろうから、それでもいいだろう。
そういう信徒が小教区の主軸になって、教会(小教区)はさらに変わっていく。

取り残される私は、心の中で違和感と空虚感が広がっていくだけだ。

今はもう、そういう積極的改革順応教会には見切りをつけ「比べてみれば」というレベルでほんの少しでも良いところが残っている教会(小教区)のミサに与るだけ・・・ 

日常の主日ミサでは、小さくささやか救いを求め彷徨い続ける。

果たして、まだ脱落せずにやっていけるか、以前のように厭気がさしてしまうのか・・・

瀬戸際での喘ぎというところだろうか・・・


ただし、以前私が教会から脱落してしまった時とは、大きく違っている事が一つある。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)が認められて、この日本でも、東京で毎月定期的にミサが行われているという点だ。

皮肉な事に、通常形式のミサが変われば変わるほど、特別形式ミサの煌めきが増していく。

たとえ何ヶ月に一回であっても、強烈な煌めきを発するこの不変のミサに与れる事は、永遠で普遍の神秘に誘なわれるようで、大きな心の支えであり心の救いだ。

ミサに救いを得られる実感」というものは人それぞれだろうが、私の希望の場所はここに一つあるのだろう。

冒頭の晴佐久神父の「救いのあるところが教会」という言葉を、私にとって現実のものとしてくれる「サンクチュアリ」は、存在している。

もちろん、東京の特別形式ミサだけではなく「サンクチュアリ」はまだまだあると信じている。

晴佐久神父の説教が魅力に溢れているという事は、説教集が本になり評判にもなっているし、拙ブログでもリンクさせてもらっている「福音の村」ブログ http://www.fukuinnomura.com/ を読んでもらえたら、共感する人も多いと思う。

洗礼を授けた人が、積み重ねで850人を超えているらしい。

目に見える「実績」が、「優れた宣教者」証明になっていると言っていい。

しかし、晴佐久神父の傑出しているところは、実はそれだけではないと私は思っている。

「優れた宣教者」の魅力に加えて、あと二点。


ひとつは、神父としての一番基本的な役割で、教会(小教区)という共同体で最も期待される、「良き司牧者」であるということ。

この司牧者としての魅力は、現実の多摩教会の姿が証明する。

晴佐久神父という人が、おそらく「具体的な行動で実践してかたちにして示す人」なのだろう。 
霊的指導というものが、多摩教会の姿に現れているように感じるのである。

ホームページにもその片鱗はあるが、実際に訪ねたら、活き活きとしている様や新しい人をお招きしてもてなす姿勢というものが、インフォメーション、心地良さそうな歓談スペースなど随所に現れている。 聖堂に連なるエントランスに受付係がいるという教会(小教区)も、他に見た事がない。全体的に教会もキレイだ。
「お客さんに来てもらいたい」という気持ちの現れだろうか? 

「ミシュランに教会部門があるとしたら三ツ星を目指したい」というジョークが晴佐久神父のエッセイにあった。

良い宿、良いレストランかどうかは一泊、一食すればわかるように、良い教会もまた、一度訪ねれば、わかることも多いかもしれない。

要は「教会が『常に新しい人を迎える』という、社会に対し開かれた姿勢」に満ちているということだ。

晴佐久神父は、「居心地の良さ」という表現をしていた様に思う。
意味的には「ホスピタリティ」「おもてなし」という言葉でもいいかもしれない。

初めて来た人にも、所属している人にも「居心地の良い」ところ。

自然に人が集まるという事に、あたりまえの理がある。

私の場合も実際に、第一印象がイマイチで、掲示物と配布物が散らかっているような「汚ないな〜」と感じた教会は、いつの間にか御縁が無くなっている。
こういう教会に限って、お題目だけは「開かれた教会」とか言って、アホなイベントで聖堂を使っていたりするのである。

「居心地の良さ」という事は一面的な事にすぎず、それで司牧者としての全てを語るのは無理があるとか、本質的な事ではなく表面的な事と思う人もいるかもしれないが、司牧の結果のひとつの「現れ」であると私は受け止めたい。

おそらく「究極に『居心地の良い』ところは、天国」ということを、晴佐久神父は言いたいのだろう。


最後はミサという祭儀を行う「祭司」としての魅力。

晴佐久神父のミサは、説教のインパクトが強いのでそちらのほうが話題になりやすいのだが、実は大変丁寧な司式で、これもかなり印象的なのである。

一言一句、一挙手一投足の全てに想いがこもっているような・・・

そしてミサの入祭のときに十字架と祭壇へする一礼が本当に長い。

20秒ぐらいは礼をしたまま・・・

この所作で、ミサに与る全員の集中力が高まる。

丁寧な動きと静かな間。 

私の所属教会では「どんなミサでも自然と気持ちが引き込まれる」という具合には、なかなかならない。
秘跡の有効性は変わらなくても、淡々とこなすような進行に感じるミサも少なくない。
私の方が、かなり意識してモチベーションと集中力を高めて緊張感を保つ事が必要な場合も多いのである。

仮に、説教が下手で司牧がちゃんとできていなくても、この丁寧なミサに与れるだけでもよいと思ってしまうぐらい・・・



「優れた宣教者」 「良き司牧者」 「祭司」どの面でも傑出している。

多摩教会の信徒は、かなり幸せと言えるかもしれない。

正直な話、独り占めはズルい。

晴佐久神父は、もはや突出して凄い神父になってきているのかもしれず、もしかしたら教会(教区)はもっと大きな役割を与えることになるのかもしれない。

ちょっと最近マンネリ化傾向にあるので、以前の記事を更新したい。
(既読の方は申し訳ありません)

2012年6月の内容だが、
3年も経過しており、自分でも客観的に読めるのが面白い。
最近は
「子供とともに捧げるミサ」に慣れてしまっているだけに、当時の自分の感覚が新鮮。
最近は文末を「です」「ます」でなく「だ」「である」にしているので合わせ修正した。

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「あの人は宗教にはしって」言われてしまうときの宗教の姿というのはあまり既知でも普遍的でも型どおりの宗教でもないという感じ。
既知ではないものに対する警戒感も含んで、なんとなく不信感がただよっているような・・・

きつい言葉だが「キワモノ」という見られかただろうか?

一般的な日本人のイメージにとってカトリック教会ははたして「キワモノ」なのか?

日本においては、神道仏教のような存在感はなく、やはり「日本古来の宗教ではないヨーロッパの宗教」というイメージがやはり強い。
しかし世界宗教としての存在感と歴史と伝統はあるから「キワモノ」というよりも、どちらかといえば「ヨウモノ」「ハクライモノ」といった感じではないだろうか。

カトリックはヨーロッパで育まれたわけだし、やはり圧倒的にヨーロッパの情報量が多いから、やはり一般的にはヨーロッパの教会のイメージになる。

素直に見ればそうだと思う。

やはりカトリックはローマンカトリック。
近年は直接ヨーロッパを訪れ、自分の目でその教会文化を見る人も少なくないから、体感的にもそう思う人は多いと思う。

かねてより私は、今の日本のカトリック教会が、ローマンカトリックとしてのイメージを変えよう、「刷新し型を破ろう」としている事を危惧している。

なぜか?

「型を破ろう」
とすればするほど一般的なイメージとのギャップが生じてイメージが掴みにくくなるからだ。
「なぜ、あえてわかりにくくする必要があるのか?福音宣教と言いながらそれはおかしい。『ヨウモノ』『ハクライモノ』でいいじゃないか。」
なんてことを思う。

わからなくなることでイメージが「キワモノ」になりやしないだろうか・・・・・

先日、偶然「ギター伴奏のフォークミサ(子供とともに捧げるミサ)」に遭遇し与ったが、やはり危惧を再認識した。聖歌に宗教的な響きがなくローマンカトリックのイメージがしない・・・
キリスト教の信仰を持たない一般的な日本人の目には、おそらく「ギター伴奏のフォークミサ(子供とともに捧げるミサ)」は「既知ではなく」「普遍的とも思えず」「習俗ではない」と映るのではなかろうか。

私には、ローマンカトリックの正統イメージから離れ、浮かび上がってただようようなふにゃふにゃ感を感じてしまう・・・

バチカンのイメージを払拭した日本独自のカトリック教会のような姿を指向すればするほど、「既知でもなく普遍的でもない新興宗教のような」イメージになっていくような感じ。
一般的な、普通の、素直な、ローマンカトリックのイメージを壊す必要は全くないと思うのだが。

自ら「へだての壁」を築いているんじゃないだろうか・・・

「表層的な事を言うな!」と言われそうだが、私のような教義理解の浅いフィーリング信者にとっては、そこで躓きかねない。

イメージ、感性というものは「型がある」という意味で、とても大事なことで「ヨウモノ」「ハクライモノ」であってもきちんとした流儀があれば、尊重されると思う。

「こんなんもあります。あんなんもあります。どれもこれもみんなカトリックです。」と言われても、そんなふにゃふにゃしたものが信用されるだろうか?

やはりキワモノと思われるのはいやだ。

私は「子供とともに捧げるミサ」がミサとして有効ではないと言いたいわけではない。
多くの教会に幼稚園が併設されている現状を考えれば、幼稚園との関係性において、子供たちを主に考えるミサがある事も理解しようと思っている。
ただしそれは幼稚園行事の延長で行われれば良いのであって、普通の主日のミサで行う必要があるのだろうか?
ほとんどが大人ばかりなのに「子供とともに捧げるミサ」をする理由がわからない。

「子供とともに捧げるミサ」も何回もあると慣れてしまって、小教区では違和感に麻痺してしまっている人も多い。
しかし、一般的な世間の目線で客観視する必要はあると思う。

私は、ローマンカトリックの正統なイメージを大切に思っているので「子供とともに捧げるミサ」に与ると、どうしても複雑な心境になってしまう・・・・・


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