カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: イマドキのカトリック教会

新型コロナの影響で、小教区ミサが、4月になっても無い見通しになってしまったので、
東京カテドラルでの非公開ミサを YouTube で見た。

菊池司教が、説教でベネディクト16世教皇の「苦しみ」についての講話を、何回にもわたって
引用されたのが印象的だった。

 

 

荘厳司教ミサがあり、特別形式ミサもあり、教皇様来日もあった密度の濃い11月が過ぎて、ようやくいつもの日常に戻った感じがする。

教皇様のミサには、結局行けなかったけれども、東京ドームのほうは多言語の祈りが混じり合うミサだったようだ。

日本のカトリック教会は、高齢者と定住する外国人の増加が進んで、近未来の日本の一般社会を垣間見るような集まりになっている。

直近の東京教区時報で菊池大司教のお話(カテキスタ養成講座の講話)が載っていたのを読んだのだけれども、少子高齢化だけでなく大都市への人口流入の影響も大きく、もともと分母がそれほど大きくないのが日本の教会だから、地方では、これからは存続させることが困難になる小教区が続出する見通しらしい。

増加する外国籍信徒に対し、日本の教会に集う仲間として親しみを持つだけでなく、教会のもとでの一致により、日本の教会の支え手となって欲しいという想いも感じた。

教会での聖職者の叙階までの仕組みについてはよくわからないが、もしかしたら定住外国籍信徒からの聖職者の召命を期待しているのかもしれない。

ただし私は、そこでどうしても疑問点が膨らんでしまう。
課題認識も想いも理解するけれど、典礼の視点でも課題解決をして欲しいと思うからだ。

東京ドームの教皇ミサのような多国籍言語のちゃんぽんミサでは、お互いに苦労を伴う。
教会の共通の言語であり、共通の信仰の遺産である、グレゴリオ聖歌のミサにすれば良いだけの話だ。

日本の教会の抱える課題解決のためにも、司教様がたには、ここで決断をして欲しいと願う。


話がちょっと変わるけれど、11月にあった特別形式ミサは、外国から訪日してくださった神父様の司式だったのだが、ミサ後の懇談で、特別形式ミサについての海外事情について興味深い話を聞いた。

パリなどの教会では、特別形式ミサも日常化していて、通常形式ミサと特別形式ミサが同じ教会で時間をずらして行われているらしい。
そういう教会がところどころにある。

一瞬、日本の教会の外国人のための英語ミサのような位置づけかなと思ったが、多国籍化であってもパリに住むアフリカ諸国の人はフランス語を話す人が多いだろうから、それはちょっと違う感じがする。

「特別形式を求める人が増えているのですか?」とたずねたらちょっと予想外の答えだった。

「(特別形式の宣教会の)召命が多いから」らしい。

「需要」もさることながら「供給」が多いということだった。

ちょっと目からウロコだった。


7月15日は「海の日」であるとともに「産みの日」。

この日、中絶禁止を訴える「マーチフォーライフ」というプロライフのデモ行進が
有志によって、東京で行われる。

7月15日16時集合
カトリック築地教会

【マーチフォーライフ2019】
https://www.marchforlife.jp/march-for-life-japan2018-1

 海外でも同じ「マーチフォーライフ」は行われていて、アメリカでのワシントンDCでのデモは、50万人の規模らしい。 

カトリック信徒で、このデモに関わる人が多いのか、集合場所はカトリック築地教会になっていて、行進前の15時から「産まれる前の子どものための」ミサがある。
ただし、教会が主催しているのではないので、カトリックではない多様な人が、主旨に賛同しデモに参加しているようだ。

カトリック教会の教えとして堕胎は禁じられているので、「マーチフォーライフ」は、教会内で本質的に意見が別れる余地は無いと思う。

ただし世俗の価値観のほうはかなり多様化し意識が変化してきている感じがする。
自由な意思でなんでも自己本位な決定を行うことを良しとする考え方が、以前より社会に蔓延している感じがするから、世俗的にはプロライフとは対極のプロチョイス支持派は少なくないだろう。

同性婚の容認など、家族のあり方の基本的な姿を転換する考え方についても、いつの間にか社会の意識が変わってきている。
そういうリベラルな価値観の影響を受けてか、カトリック信徒でも、LGBTのグループがあるということを最近になってTwitterで知った。

しかしカトリック教会の教えそのものの本質は変わらず「同性の婚姻」は認めていないはずだ。

表現の仕方が新しいスタイルになっても、カトリックの教えを体現するマーチフォーライフのようなアクションが行われていることにホッとする。

青年向けのカトリック要理書であるYOUCATに、次の言葉が引用されている。

「教会は需要が減れば製品を変える商売のように振る舞ったりしない」(カール・レーマン枢機卿)
 
教会に対して安心と信頼を感じさせてくれる言葉だと思う。

来住神父について検索していたら、「キリスト教は役に立つか」についてのキリスト新聞社のインタビュー記事が見つかった。

まず冒頭に「教会のなかで私もずっと孤独を感じてきました。」という話があって驚いてしまったが、今の日本のカトリック教会の状態を冷静に見て判断し、的確な課題提起をされていて、私は共感する部分がとても多かった。

こういう本音?をズバリ語る神父は決して多くはない。

このインタビュー記事を読んで、私は「こういう神父様を待っていた」という感じがした。
以下引用したい。

http://www.kirishin.com/2017/06/27/6888/

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本書の帯に「イエスの教えは『孤独』に効く」と書いていただきましたが、わたし自身も教会の中でずっと孤独を感じてきました。わたしが教会の現場に深く関われる人間だったら、そもそも本を書くようなことはしていないと思います。わたしはそういうことをしないのではなく、できないのです。

使徒言行録にあるパウロの宣教のように、人間がある方向へ進む場合、最初から「これが大事だ!」と行くというよりも、ある方向が行き詰まったので、やむを得ず別の道に行ってみたら宝があったという方が多いのではないでしょうか。

わたしは司祭になる前に製造業で働いていましたが、神父になりたかったというよりも、行き詰まった感じがありました。「このままではうまく行かないな」と思ってこちらに来た。でもいざ教会に入ってみたら、やはり教会の主流ではうまくやれず、また傍流へとずれ、気が付いたら周辺で本を書いていたという感じです。

書きながら気づいたのですが、『キリスト教は役に立つか』の中でわたしが本当に書きたかったことは、「ゆるいキリスト教」の再発見かもしれません。カトリック教会が高齢化で人数も減り、勢いが弱くなっているのと反比例するかのように、「キリスト者は世のため人のために働くべき」という文書が増えている印象があります。つまり「叱咤激励するキリスト教」です。

「福音」というのは「幸福の音信」であり、まずキリストを信じるようになった人が幸せになるという話だと思います。ところが「キリスト者たるもの、たとえ迫害を受けても人を幸せにするために刻苦精励しなければならない」と、倫理化されがちです。わたしは学生運動の時代を知る世代ですので、「君たちは第三世界の虐げられた民衆と連帯しないでいいのか! プチブル的幸福に安住しているのではないか!」という、あの恫喝的なアジを思い出してしまうのです。

もちろん、キリスト教は「世のため人のため」に尽くすはずのものだとは思います。しかしそれ以前に、信じた人が幸せにならなければならない。そこにいるあるがままの人をまず認めるというのが福音の始まりです。

イエスと1対1の関係を深めることそのものが信仰者の幸せ。「〜であるべき」という話はその後です。自分たちが幸せである根拠をもっと語り、確認していく。そしてそれを育てていくのが本来のあり方ではないかと。

社会正義に貢献する、モラリッシュなエネルギーを得るためにキリスト教徒になるわけではありません。イエス様と親しく話して、愚痴も聞いてもらえるようになれば、徐々に心が柔らかくなり、たまには善い行いもするかもしれません。

「愛は使えば使うほど増えるもの」と言う人がいますが、そう簡単に言ってほしくない。人は資質的にも、気力的にも体力的にも限界のある存在だと認めるのがキリスト教でしょう。信仰さえあれば何でもできるというのは、むしろグノーシス主義だと思います。

今日のカトリック教会はその傾向を持ちつつあると危惧します。それに対する不満が、この本を書かせた一つの理由かもしれません。

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前回「私の居住地域一帯の小教区教会はどこもかしこもグレゴリオ聖歌は皆無」というようなことを書いたけれども、今の所属教会は、3年程前に近隣の教会を見定め直して一番良いと思ったところに籍を移し直した結果なので、そのことはもう納得済みというか、現在の日本のカトリック教会では、大なり小なり似たような感じだろうから、現状では多くを求めるのは無理で、今はしかたがないとは思っている。

おそらくグレゴリオ聖歌のミサに、ほぼ毎週与れるという高い条件で探せば、現実にはUVJの特別形式ミサぐらいになってしまうのが、おそらくありのままの今の日本の教会の姿だろう。

ミサでの聖歌の影響というのはとても大きい。
移籍前の教会はグレゴリオ聖歌どころか定番のカトリック聖歌も全く歌わない教会だったので、これがかなり辛かった。

もっともこの教会は、聖歌以前にかなり特異だったのが「聖櫃が主聖堂に無い(従って聖体ランプもない)」という聖堂設計の問題があった。
これは単なる設計ミスではなくて、結果的にこのことは「刷新された新しい教会の姿」というメッセージだったことが、その後にあったいろいろなことで今となってはよくわかった。

教会というところは、世俗的な尺度では、まあだいたい穏やかな善意の人の集まりで、この教会での人間関係も普通ではあったが、そういうことで妥協できないのは私の性分で「もはやここはカトリックでは無い」と感じてケジメをつけた。

やはりいろいろな意味で「御聖体」が中心に無ければカトリックでは無いだろう。

思えば穏やかな善意の人の集まりなのに、何かと揉め事の多い教会ではあった。
教会籍を変わったことは本当に良かった。

いまの所属教会では、たとえグレゴリオ聖歌が無くても「あの頃を思えば・・・」というような慰め?とともに、平穏な気持ちで毎週のミサに与れてはいる。


ところが、その今の所属教会で、その平穏を破る良い変化が起きた。

春の異動で地区ブロックに移ってきた若いアジア人司祭の発案で、平日のミサ後に、聖体賛美式を行うことになったのである。

なんとか仕事の都合をつけて与ってみたが、これが本当に良かった・・・

若い司祭が、御聖体を向いて跪き頭を下げる。
それも床に頭がつかんばかりに深く深く頭を下げる。

私も倣って、目の前にある存在が何なのかを所作で、自分に言い聞かせる。

私にとっては、やはり聖体賛美式は「御聖体」に対する信仰を、極めてわかり易く再確認する場なのだと思った。

話を冒頭のグレゴリオ聖歌に戻すが、この聖体賛美式では、Tantum ergo(タントゥム・エルゴ)を歌ったので「私の居住地域の小教区教会ではグレゴリオ聖歌は皆無」という発言を撤回しなければならなくなった。

平日ミサという限られた場だったけれども、このことがいろいろなことに影響する予感を感じ、所属教会が一歩、良い方向に変わるスイッチが入ったような感じがしている、

これはきっと、私の所属小教区のだけのことではない。
今、日本の教会がまずしなければならないことは、どこでもすっかり廃れてしまっている聖体賛美式なのかもしれない。

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