カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ: イマドキのカトリック教会

前回「私の居住地域一帯の小教区教会はどこもかしこもグレゴリオ聖歌は皆無」というようなことを書いたけれども、今の所属教会は、3年程前に近隣の教会を見定め直して一番良いと思ったところに籍を移し直した結果なので、そのことはもう納得済みというか、現在の日本のカトリック教会では、大なり小なり似たような感じだろうから、現状では多くを求めるのは無理で、今はしかたがないとは思っている。

おそらくグレゴリオ聖歌のミサに、ほぼ毎週与れるという高い条件で探せば、現実にはUVJの特別形式ミサぐらいになってしまうのが、おそらくありのままの今の日本の教会の姿だろう。

ミサでの聖歌の影響というのはとても大きい。
移籍前の教会はグレゴリオ聖歌どころか定番のカトリック聖歌も全く歌わない教会だったので、これがかなり辛かった。

もっともこの教会は、聖歌以前にかなり特異だったのが「聖櫃が主聖堂に無い(従って聖体ランプもない)」という聖堂設計の問題があった。
これは単なる設計ミスではなくて、結果的にこのことは「刷新された新しい教会の姿」というメッセージだったことが、その後にあったいろいろなことで今となってはよくわかった。

教会というところは、世俗的な尺度では、まあだいたい穏やかな善意の人の集まりで、この教会での人間関係も普通ではあったが、そういうことで妥協できないのは私の性分で「もはやここはカトリックでは無い」と感じてケジメをつけた。

やはりいろいろな意味で「御聖体」が中心に無ければカトリックでは無いだろう。

思えば穏やかな善意の人の集まりなのに、何かと揉め事の多い教会ではあった。
教会籍を変わったことは本当に良かった。

いまの所属教会では、たとえグレゴリオ聖歌が無くても「あの頃を思えば・・・」というような慰め?とともに、平穏な気持ちで毎週のミサに与れてはいる。


ところが、その今の所属教会で、その平穏を破る良い変化が起きた。

春の異動で地区ブロックに移ってきた若いアジア人司祭の発案で、平日のミサ後に、聖体賛美式を行うことになったのである。

なんとか仕事の都合をつけて与ってみたが、これが本当に良かった・・・

若い司祭が、御聖体を向いて跪き頭を下げる。
それも床に頭がつかんばかりに深く深く頭を下げる。

私も倣って、目の前にある存在が何なのかを所作で、自分に言い聞かせる。

私にとっては、やはり聖体賛美式は「御聖体」に対する信仰を、極めてわかり易く再確認する場なのだと思った。

話を冒頭のグレゴリオ聖歌に戻すが、この聖体賛美式では、Tantum ergo(タントゥム・エルゴ)を歌ったので「私の居住地域の小教区教会ではグレゴリオ聖歌は皆無」という発言を撤回しなければならなくなった。

平日ミサという限られた場だったけれども、このことがいろいろなことに影響する予感を感じ、所属教会が一歩、良い方向に変わるスイッチが入ったような感じがしている、

これはきっと、私の所属小教区のだけのことではない。
今、日本の教会がまずしなければならないことは、どこでもすっかり廃れてしまっている聖体賛美式なのかもしれない。

ヨーロッパでの聖母被昇天ミサでは、閉祭の聖歌は Salve Regina (サルヴェレジナ)が定番らしい。 

少し期待して、所属教会とは違う場所で 被昇天ミサに与ったら、そのとおりだった。 

後で友人に聞くと、他の教会でも Salve Regina を歌ったところは何箇所かあったようだ。

最後に一曲だけグレゴリオ聖歌を歌ったぐらいでは、ラテン語ミサとは言い難いけれども、それでも関西でグレゴリオ聖歌を歌うミサはあまりにも少ないので、このくらいのことでも嬉しい。

ラテン語ミサ通常文のキリアーレの場合だと、聖母の祝日ミサで用いられるのは9番のクム・ユビロ (カトリック聖歌集505番 Cum jubilo)のはずだ。
実は、このクム・ユビロ(Cum jubilo)のラテン語聖母被昇天ミサが、大阪北部の方であって、満員だったそうだ。

Salve Regina にしろ、Cum jubilo にしろ伝統的なグレゴリオ聖歌を唄うミサが、ちょっと増えてきたのだろうか? 

あるいは私が関心を持っているからこういう情報に敏感になるだけなのか?

グレゴリオ聖歌が、もし次々に復興していっているのならば、少し光明がさしてきているような感じがするが、正確にはわからない。 

私の居住地域一帯の教会は、いまだにどこもかしこも完璧にグレゴリオ聖歌を歌わないし、大阪教区京都教区内を転々とした私の教会遍歴の中では、グレゴリオ聖歌を歌う教会は皆無だった。

同じ教区内でも、小教区によって極端な温度差がある。


こういう「どこの教会に行けばグレゴリオ聖歌のミサに与れるのか?」という情報を、インターネットで拾えないのはなんでだろうと思ってきたが、別の教会で典礼委員をしている友人にリアルな話を聞けば、主任司祭というのは、反対意見が出れば実施を躊躇するものらしい。

大阪教区というところは、教区時報に「ラテン語ミサ反対」を公言する聖職者の投稿が掲載される風土だから、グレゴリオ聖歌を続けていることをネットに載せる事で、思わぬ変な横ヤリが入る可能性をデメリットとして危惧する気持ちは、わからないこともない。

ラテン語やグレゴリオ聖歌に反対するということが、そもそも間違っているのにもかかわらず、そういう誤った意見に振り回されて萎縮しているというのはもどかしい限りなのだけれども、それが現実の姿ではある。


上記のような話を聞くことができたのは、先週末に信徒団体の集まりがあったからだが、他の小教区の状況を知るという意味でも、信徒団体の目的に沿ってラテン語グレゴリオ聖歌によるミサの実現を共に目指すという事においても、小教区を越えた「絆」を持つ意義は大きいとあらためて思った。

ラテン語ミサに与るためには、自分一人で探すよりも、同じ想いの人の集まりに参加する方が話は早い。
信徒団体に加わることから事は始まるということが言えるのかもしれない。


ラテン語ミサの有無というだけでなく、跪きを止めるなど、少しづつ少しづつ、ミサ典礼から荘厳さが失われてしまって久しい。

典礼で何かが変わるごとに何かを失ってきたと思われる方、グレゴリオ聖歌のミサを探しておられる方に、是非、UVJのような信徒団体に加わることをお勧めしたい。

「祈り」について、 Wikipedia で調べてみた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%88%E3%82%8A

信仰生活において「祈る」ということは、あまり深く考えることもなく慣習として何気なく行っているが、「そもそも『祈り』とはどういうことか?」という視点でわかりやすく説明されている。

Wikipediaによると、祈りとは「賛美、感謝、嘆願、とりなし、静聴、悔改」であり、キリスト教の場合は 単に自分の願いを披露するのではなく、自身の信仰に基づいた決意表明」と定義されていた。

加えて、伝統的教会とプロテスタントとの、祈りについての姿勢の違いについても書かれている。

「私的(個人ないし集団)な祈りの場合、定まった祈祷文をもちいるものと、自由で自発的な祈り(自由祈祷)があり、伝統的教会は祈祷文を奨励し、プロテスタント教会は自由祈祷を奨励する。」とある。

確かにカトリック教会では、
個人的な場から集団の場になればなるほど、自由祈祷はあまりしないような気がする。

自由祈祷というものは、
もしかしたら自己本位な見方 によって 知らず知らずに信仰の中身が教会から 離れてしまう 危険、リスクのようなものがあるかもしれない。 

つまり祈祷文には教会の教えから離反しないように補整する機能があるようなことも想う。

祈祷書 例えば 「祈りの友(カルメル会編)」 の目次を追っていくと、「試練のときの祈り」「友のための祈り」「子供の誕生を待つときの祈り」「死に直面している病人のための祈り」など様々な人生の場面場面での祈祷文がある。

よく「どのように祈ったらいいのか?」というようなことが言われることがあるが、祈祷書があることを前提にすれば、祈りとは、
先ず 祈祷文をありのままに読んで、その一言一句の意味を噛み締め、そのうえで 自分の心の整理し、 神様と対話をしていけば良いのだろう。
祈祷文とは、そのような 自分の心の整理をする ツールと考えればいい。

そんなふうに考えると、祈祷書というのは、神様と対話するためのマニュアルみたいな感じなのかもしれないとも思った。

私の場合は、なんだかんだで下の写真の5種の祈祷書と出会っている。
祈祷書UP

別に
コレクション しているわけではない。
ただもらいものがベースだったところに、自分で求めて購入した左の2冊「祈りの友(カルメル会編)」「カトリックの祈り(サンパウロ編)」が増えたので、ちょっとしたボリュームになってしまった。

「祈りの友 (カルメル会編) は内容的に 非常に充実していてとても気に入っている。
多くの文語の祈りが残され口語も並記。
「文語の祈り」愛好者の気持ちも汲み取った現時点で最も使いやすい祈祷書だと思う。

ただ、「連祷」が不十分なことが欠点だったのであらたにまた「カトリックの祈り(サンパウロ編)」を購入した。 

「カトリックの祈り(サンパウロ編)」は、 文語の祈りにこだわるのならば「祈りの友」より文語数は多いと思う。
「連祷」も「祈りの友」よりも充実。

文語口語併記は、「主の祈り」「アヴェマリア」「栄唱」三つで、日々の祈りを口語に差し替えて、全体的な構造としては、 少し抜粋されてはいるが「公教会祈祷文」(文語のまま)と言ってもいい。 
ただし、文語の使徒信条(つまり使徒信経)は「日々の祈り」の群に含まれたためか載ってない。
祈りの友」と「カトリックの祈り」は、ちょうど相互補完のような関係で、「カトリックの祈り」は祈りの友」の追補版のような存在と思ってもいいかもしれない。

公教会祈祷文は、この2冊の原点のような存在だから、
他の類を見ない存在。祈祷書としてこれはもう別格。 文語の格調の高さの味わいだけでなく、教会がどのような祈りを残してきたかということを知るうえで の資料価値があり、存在感は突出している。

「日々の祈り」は、2005年に編集された比較的新しい祈祷書でカトリック中央協議会が出しているので、現在の
デフォルト、 標準の祈祷書といえるだろう。
ただし祈祷文の数は少なく、全て口語のみ。

「これだけでよい」という割りきりかもしれないが なんとなく味気ない。
この祈りを本を毎日丁寧に祈っている人もいるだろうから、内容が悪いとは言わないけれども
、上の3冊と比べれば、 内容に奥行きがない感じはする。
この
「日々の祈り」の内容は 「祈りの友 「カトリックの祈り」に全部載っているから、この2冊を持っていたら、この 「日々の祈り」は、サイズも変わらないから正直なところいらない。

一番右端の「カトリック祈祷書(東京教区司祭協議会編)」は、1970年代の典礼も含めたいろいろな刷新が盛んになり始めた頃に編集された祈祷書である。

巻末に聖書抄、詩編抄があって読み物としての良さがあるが、カトリック祈祷書なのであって祈祷書という本の目的と合っていない。

祈祷書の編集の仕方がおかしく迷いがあるような感じがする。
より問題なのは、公教会祈祷文の様々な祈りを、単純に口語化しているだけではなく内容も変えていることだ。
おまけに「〜だ」「〜である」というような
独り言のような変な祈祷文になっているので「ナンダコレハ」というような奇妙な祈祷書になっている。
この祈祷書は、ちょっとあまりよろしくない。
余計な
祈祷文 がないだけ 「日々の祈り」のほうがまだ良くて、中途半端に古い1970年代の祈祷書はやっぱり疑問が多い。
この本は祈祷書としては使えないので、聖書抄、詩編抄と思うことにしているが、こういうところにも教会の刷新に伴う試行錯誤(というより混迷)の来歴がみてとれる。

長崎教区編集のカトリック祈祷書はとても良いという話も聞く。
私は、もうこれ以上はいらないのだけれども、なんとなく欲しくなってしまうのは私の取捨選択の歩みのなかで好奇心が湧くからなのだろう。

ユーザーレビューのようになったが、つまり祈祷書もいろいろ。

拙ブログをお読みいただける読者の皆様方も、自分のスタイルにあった良い祈祷書と出会われることをお祈りしたい。

新しく祈祷書を買った。

個人的には公教会祈祷文に依存はしているのだが、現在の教会に所属していれば、やはり不便ではあって、共唱でも使える個人所有の祈祷書が欲しかった。

買ったのは「カトリック祈祷書 祈りの友」というカルメル会で使用している祈祷書で、カルメロ神父が編集されている。

この祈祷書が良いと思ったのは、口語の祈りだけでなく古い文語の祈りを「伝統的な祈り」として併記しているところだ。

巻頭言のところで、奥村一郎神父が次の言葉を寄せている。

以下引用
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(前略)
第二バチカン公会議後、あらゆる方面で教会も大きく変化しました。
それも新しいものが生み出されるというより、古いもののとりこわしが始まりました。
どんなことでも「とりこわし」は乱暴なもので、早いものです。
教会の中における「祈りの生活」もその例外ではありませんでした。
ミサの形式から祈祷書、その他ロザリオの祈りとか十字架の道行、聖体信心、免償など、かつては熱心に実行されていたものが、急速に忘れられ、すたれていきました。
現代の教会の危機のひとつとして「祈りの喪失」が挙げられるのもそのためです。
しかし「祈りの心」というのは、正しく解すれば「人間の心」と同意語であるはずです。
祈らないというのは死んだのと同然です。
(中略)
今の日本の教会では、なお文語を好まれるかたもあり、他方若い世代には口語体でなければ祈りになじめない人もいます。
したがってこの本では、文語体と口語体、古いものと新しいものを合わせながら、各自が好みに従って選べるようにしてあります。
どんな形、どんなことばにせよ、要は「祈る」こと自体が大切なのですから、祈りやすいようにという配慮からそのように編集されているわけです。
70年代は教会にとってもなお過渡期な時代でしたが、一応その間の成果を総括的にまとめ、80年代からの新しい聖霊の息吹きをまつ心の場をととのえてくれるために、この祈りの小冊子が役立ってくれますならば幸いに思います。

1980年2月 洛南にて                           奥村一郎
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教会の変化に対する奥村師の心情が垣間見えて興味深い。

奥村師が言われているとおりで、心配りがとてもきめ細かい祈祷書で、文語体と口語体併記というだけではなく、検索もとてもしやすい編集になっている。

初版は1980年だが、最新の第13版は、2011年改定の「聖母マリアへの祈り(アヴェマリアめぐみに満ちた方)」も載っている。

お祈りがし易いというだけではなく感心するのは、様々な聖人の祈りなど多彩なお祈りが載っているところで、ミッシェル・クオストという人の「神に聴くすべをしっているなら」という本から「主よ、時間はあります」という祈り?が紹介されていて、この文章が良かった。

「主よ、もしや、あなたの時間設定がまちがっていたのでは、どこか大きな狂いがあったのではありませんか?1時間が短すぎ、1日が短すぎ、一生が短すぎるのではありませんか」というようなドキッとすることを書きながら、最後に「あなたがわたしに下さった時間の中で、あなたがわたしにせよ、とおっしゃったことを、心静かに行うことのできる恵みをただそれだけを、あなたからいただきたいのです。」と結んでいる。 

こういう祈り?というか文章を挿入することも驚きだったが、その次にある祈りが、幼いイエスの聖テレジア「私のいのちはひととき」という言葉で始まる「今日の歌」という祈りになっていて、このような編集のセンスの良さもあって、ついついページをめくる祈祷書となっている。

このカルメル会の「祈りの友」は、サッと目を通しただけでも、直感的に良い感じがした。

もう14万5千部になっているらしい。

拙ブログをお読みいただいている皆様にも、是非オススメしたいが、もしかしたら既に持っておられる方も多いかも・・・

列福式も終わり、2週連続の特別形式ミサも終わって、大きな行事の後の寂しさもあって、昨年末の待降節の黙想会で関心を持った「十字架の聖ヨハネ」について買っていた本を読み始めた。

しかしどうも黙想会の時の話と内容が一致しない。

何かおかしい。変だ変だと思っていたら、なんと私が買った本は「十字架の聖パウロ」についての本で、別の聖人と間違えて買っていた。

とはいえ、こうした買い間違いも不思議な出会いで、十字架の聖パウロが御受難修道会の創立者であることを知った。

「主イエス・キリストの御受難(を想うこと)は、霊的完徳に達する最短の道」
「十字架に釘付けられたイエスの足跡をたどるべきことをしっかりと肝に銘じておきなさい」

という感じの、どちらかというと厳しい話が続く。

十字架の聖パウロは、幼い頃に十字架につけられたイエスの絵の意味について母親に尋ねたとき「神様があなたをとても愛していらっしゃるから、私たちのために苦しみを受け死んでくださった。」という答えを受けた。
その答えによって「神のものに全くなりきってしまいたいという強い願望を生じさせ、自分はいつでもこのこと記憶していた」と語っている。

十字架の聖パウロは「わたしの望みはイエスと共に十字架に釘付けられること」という言葉をしるし、御受難とは現実の全てを見る光として近づく。

「十字架の聖パウロ」は、18世紀の聖人であって教会の歴史のうえではそれほど昔の人ではない。

十字架の聖パウロを魅了した「磔刑のキリストの御絵」だが、最近の新しい教会(聖堂)では、「磔刑のキリスト像」が少しづつ消えていて「復活のキリスト像」になってきている。

このことについて、仲間と話題になったとき、「磔刑のキリスト像の酷たらしい姿を見るだけで拒絶してしまう人がいるかららしい」という話を聞いた。

そういう変化は、教会のながい歴史の中でも近年というか現在になってからの変化で、かつその変化の大きさというのは、とても大きな変化であるということを感じた。
「磔刑のキリスト像」を「復活のキリスト像」に変えていくというのもアジョルナメント(現代化)の一つなのだろうか?


ところで、少しここで話が逸れてしまうが、「十字架の聖パウロ」で、ネット検索を続けていたら「聖パウロ」繋がり検索結果で、予期せぬホームページに出会えた。

教会関係ではちょっと珍しい(?)おしゃれで美しい魅力的なホームページで、話題にイマドキ感があって見て読んで楽しくおもしろい。

管理人の聖パウロ修道院の修道士TomaPさんの素直でやさしい人柄も伝わってくる。
http://www.tomap.info/

良いホームページだと思った。

上記の「磔刑のキリスト像」のような話や、典礼についてのことでは疑問に思うアジョルナメントも、TomaPさんのイマドキのおしゃれなHPを見て、宣教においては重要で必要なことのようにも思う。

アジョルナメントが必要なところが、現在の日本の教会は少しズレているのかもしれない。

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