カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ: イマドキのカトリック教会

あらためて、御復活おめでとうございます。

本日の復活の主日のインターネットの配信ミサで、菊池大司教様は説教で次のように述べられた。

「皆様、主イエスの御復活おめでとうございます。

今この瞬間にも、世界中で、そして日本でも、多くの人がいのちを守ろうとして、いのちを救おうとして、力を尽くしておられます。感染が拡大し続け、いったいいつまでこのような状態が続くのだろうかと、先行きを見通すことが難しい中で、なんとかいのちの危機を食い止めようと努力する人たちの存在は、希望の光です。医療従事者に感謝し、その健康のために祈ります。

いのちを守るための闘いが続いている直中で、わたしたちは、新しいいのちへの復活という、わたしたちの信仰にとって、最も大切な出来事を記念し、祝っております。いのちを守る行動が、これほどまでに注目され、その価値が強調された四旬節と復活祭を、経験したことがありません。

多くの人が、とりわけわたし自身を含めた医学の素人が、今年の初め頃には、事態がこんなに大事になるとは思っていませんでした。世界中で段々と深刻さの度合いが増すに連れて、危機感を強めてこられた方も多いと思います。わたし自身も、一月半ば頃から今に至る三ヶ月間、東京教区をあずかる立場にあってどういう判断をするべきなのか、悩みました。医療の専門家にも何度も相談をしました。的確で時宜を得たアドバイスをいくつもいただきましたが、同時に専門家の間でも、事態のとらえ方が異なり、様々な意見があり、難しい選択を迫られて困惑することもたびたびありました。

まだ終息に至っていない現時点で、その決断の可否を判断し評価することはできませんが、教区全体で公開のミサを中止にするという判断は、簡単に到達した結論ではありません。その判断が、一〇万を超える東京教区の信徒の方に及ぼす影響を考えたとき、いのちを守るためにとるべき最善の道はどこにあるのか、逡巡を重ねてきましたし、今でも毎日、刻々と変化する状況を目の当たりにして、次の決断へと悩む日々が続いています。

しかし常に念頭に置いているのは、神からあたえられた賜物であるいのちを守るために最善の道を探ることであり、同時に、信仰のうちに神への信頼を失わない道を探求することであります。

人類は今、いのちの危機に直面していると言っても過言ではありません。人類全体に影響を及ぼすいのちの危機は、凄まじい強力な伝染病や、星の衝突や、巨大地震や火山の噴火といった天災ではなく、たいしたことのない風邪のようだと当初は言われた、ウイルスによってもたらされました。大混乱をもたらす災害によっていのちの危機が明白に生じるのではなくて、知らないうちに感染しそれが知らないうちに拡大し、いまは危機的状況なのだと何度も自分に言い聞かせなければ忘れてしまいそうな弱々しい形で、わたしたちに迫ってきました。

これまでの歴史の中でわたしたちが築き上げてきた世界が、大げさな言い方かも知れませんが、これほど簡単にいわば存亡の危機に直面するとは、思ってもみませんでした。

今般の感染症の拡大という理不尽な出来事は、混乱と恐れと悲しみをわたしたちにもたらしていますが、同時に、少し立ち止まって、今までの世界の歩みを見つめ直し、新しい世界へと変わっていく道を探るよう、わたしたちを促しているようにも思います。

教皇フランシスコの回勅「ラウダート・シ」にあるように、わたしたちはいのちを守るために、総合的なエコロジーの観点から、地球環境問題をはじめとした人間のいのちを取り巻く様々な課題に取り組むことが必須であると議論を続けていました。

わたしたちの共通の家をまもり、将来の世代によりふさわしい環境を残していく責任を果たすためには、「この世界でわたしたちは何のために生きるのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちの働きとあらゆる取り組みの目標はいかなるものか、わたしたちは地球から何を望まれているのか」といった問いに答えていかなければならないと、教皇は回勅で呼びかけます(160)。

わたしたちは、現時点では、感染症の前にまさしくなすすべもなく、途方に暮れていのちの危機に直面しています。加えて、この事態が、人類の歴史の中で、今回が最後であると、いったい誰が断言できるでしょうか。わたしたちは、自らの存在の意味を、あらためて問い直すように、招かれています。


コリントの教会への手紙に、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」という言葉が記されていました。

復活された主の新しいいのちへと招かれている教会には、常に新しいいのちを生きるために、その立ち位置を過去に固定させ留まることなく、前進し続けることが求められています。

実際、今般の出来事によって、聖堂に共に集い、聖体祭儀にあずかって、キリストの体における一致を体験することができなくなっている教会は、半ば強制的に、そのあり方を変革するように求められています。

聖体祭儀がその中心であることには何も変わりがないものの、それができなくなっている今、世界中の教会は、共同体のきずなを確認し深めるために、様々な手段を講じています。このようにインターネットを通じてミサを中継している教会も多くありますし、講座や祈りを、配信し始めたところも少なくありません。日本だけではなく、世界中です。司祭や信徒が個人で発信を始めている例も少なくありません。

心の避難所である教会の存在は、どの時代にも重要です。祈りを捧げる聖なる場所も信仰には必要です。共同体の皆と共に、一緒に賛美を捧げる場所は、わたしたちにとって欠かすことができません。わたしたちの信仰は、共同体の信仰です。ですから教会に集まると言うことが、消滅してしまうわけではありません。

しかし、今回の事態はわたしたちに、目に見えない教会共同体のきずなを深めることの大切さ、そして目に見えない教会共同体のきずなは、毎日の家庭や社会での生活にあってもつながっていることを、あらためて自覚させてくれました。すなわち、わたしたちの信仰は、日曜日に教会に集まってきたときにだけ息を吹き返すパートタイムの信仰ではなくて、教皇フランシスコがしばしば指摘されるように、フルタイムの信仰であることを、思い起こさせてくれています。

インターネットで様々な場所からのミサの中継があることで、選択肢が増えたと喜んでおられる方もいるのかも知れません。

違うのです。
インターネットを通じて、教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきたのです。教会は生活とかけ離れた存在ではなくて、毎日の生活の中にあるものとなったのです。教会は特別なところではなくて、普段の生活の一部となろうとしています。

教会は、社会から隔離された避難所ではなく、社会の荒波の直中にある一艘の船です。港に繋がれている船ではなくて、荒波に乗りだしている船です。

同じ船に乗っている仲間として、そのきずなをあらためて確認し、いのちの危機に直面している世界の直中で、復活された主イエスの新しいいのちへの希望を、光り輝かせる新しい教会となりましょう。」



コロナの影響で、教会でのミサに与れない現実の中で、インターネットの配信ミサについて
「インターネットを通じて、教会が皆さんの毎日の生活の中にやってきたのです。教会は生活とかけ離れた存在ではなくて、毎日の生活の中にあるものとなったのです。」
という 見方を示されたのが、新鮮驚きだった。 


 

主の御復活。おめでとうございます。

復活徹夜祭のミサに与れないのはとても残念だけれども、非公開であっても、
こうして行われているミサに、youtube によって寄り添うことができたことは
とてもありがたかった。





聖金曜日の典礼は、聖週間のミサのなかでも普段のミサと内容も雰囲気もかなり違う。

こういう一年に一回の特別な典礼を、今年は映像による体験で与かっている。

コロナ危機によって参加非公開であってもyoutubeで配信していただけることは、大変ありがたい。

今年はこの典礼を、多くの小教区の司祭が、信徒不参加の中で司祭のみで捧げていることになっているのだと思う。



菊池大司教の youtube 中継動画の聖木曜日のミサに与った(視聴)

正直、聖週間でも木曜日は仕事で御ミサに与らなかった年が多いのだが、今年はyoutubeなので、逆に与れている?のは不思議な感じがする。

御聖体を仮祭壇に移されるミサの後の聖体安置式の記憶があいまいだったのだが、菊池大司教は聖体安置式で、聖体賛美式のように跪づかれての献香をされた。

跪かれている司教様の姿が非常に印象的だった。


小教区のミサに与れないので、菊池司教の youtube 中継動画のミサを見るのが日曜日の日課になってきた。

受難の主日の説教では、
今の世界の状態は「2020年のはじめからいまに至るまでの体験は、目に見えないウイルスとの戦いの中で、いつでもいのちの危機に瀕する可能性を持っている弱いものであることを自覚させる体験」と表現し、同時に教皇フランシスコの「ひとつの船に乗っていたことに気づかさせられた」という講話を引用をされた。

  

↑このページのトップヘ