カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

カテゴリ:カトリックの教え、信心について > カトリック教会の伝統

ロザリオ














右は、祖母の形見分けでもらったもの。
雰囲気が数珠のようで「コンタツ」と呼びたくなる感じ・・・

左はイタリア製。 四谷のドンボスコで1000円ぐらいでした。

せっかく二つあるので、それぞれお祈りを変えています。

「コンタツ」のほうは、主祷文(天にまします)、天使祝詞(めでたし)用。

イタリア製のほうは、ラテン語 Pater Noster   Ave Maria 用。

時間がないときは一連だけでもいいということを知ってから、少し気軽に始めやすくなりました。
しかし不思議なことに、祈り始めると結局、一環になることが多い感じ。

一連と一環という区切りが、絶妙のボリューム感ですね。

なかなか毎日祈ることができないですが、連続して唱えるのが心地良いと感じるときがあります。



街では、アクセサリーとしてロザリオを身につけている人も、ときどき見かけます。

「ロザリオ アクセサリー」でググると、いろいろなアクセサリーロザリオがでてきて興味深いです。
「フランス教会正規品」というサイトもありました。

正規品というのは「正規のカトリックの数珠」ということなんでしょうね。

ロザリオをアクセサリーとして首にかける人は、純粋にアクセサリーとしてなのか? 少し「お守り」的な気持ちもあるのか? 

はたしてどちらなのか聞いてみたくなる感じがしますが・・・

ただしアクセサリー用ロザリオ(ロザリオとしては不正規品?)は、首にかけたときの後ろの部分の珠が省略されていたりするようです。

装着したときの感じを良くするためでしょうか?

ロザリオの祈りが一環にならず中途半端ではあります。

首にかけている人を教会でみかけたことはありません。

カトリック的には、アクセサリー用ロザリオというのは、やはり違和感がありますね。

「信仰について」を読み返して、あらためて強く印象に残った部分・・・

前回の繰返しになりますが

「教会が、礼拝の荘重さと荘厳さをもって神の美、信仰の喜び、闇と誤謬に対する心理と光の勝利を表すのは断じて自信過剰ではない。典礼の豊かさは、 ある種の聖職者の富ではなく、万人の富であり、貧しき人々の富であり、彼らはそれを熱望こそすれ、少しもそれにつまづいてはいない」

という箇所。

ちょっと縮めて(縮めていいのかな?)

「荘厳な典礼は万人の富、貧しき人々の富」
ということなのですが、とても大切なメッセージだと思いました。

「意味がわからないのにありがたがるのは変だ」ということで、日本の多くのカトリック教会がラテン語やグレゴリアンを止めてしまったわけですが、ほんとに良かったのだろうか?

やはり「美の追放」のように思えてなりません。

もちろん各国語の訳文で、その意味を補足する必要はあると思いますが、追放はいけない。

ラテン語そのものが「『神の美』を讃え『信仰の喜び』を表し『神の聖性』を表現する」ためのひとつの手段のようにさえ、私は思えてきました。

私の場合は、まさに「ラテン語をありがたがっている」と思います。

「ありがたい」
と思う感性・・・

文字を読めない中世の農奴が大聖堂のステンドグラスを仰ぎ見る。

そんな感じ。

未熟で暗愚な信仰なのかもしれませんが・・・

そもそも「意味がわからないのにありがたがる」というのは本当に変なのだろうか・・・

以前 拙ブログで「故郷の味は体が覚えている(2012年9月29日)」というダサい記事を書いたことがありました。

「外国に移り住んで永い間日本に帰国していない人に味噌汁を飲ませたら泣き出した」という話。
「味噌汁の味は望郷の味」ということなのですが、「五感で感じた事を体が覚えている」ということを、やはり自分の体験でも実感する事があります。

先日与ったトリエント・ミサでは、カトリック聖歌集541の Ave Maria を唱ったのですが、この聖歌はわたしにとって、かなり感覚を刺激する感じ・・・

この Ave Maria は、東京カテドラルの荘厳司教ミサでもよく唱われますね。
荘厳司教ミサ初体験のとき、このメロディーを聴いたとたんに、ゾクゾクっとして感動のあまり卒倒!しそうになりました(笑)
あのカテドラルで1000人に近い参列者が唱う迫力というのは、確かにあるのですが、あの時は本当に久しぶりに聴いて望郷の思いような思いがこみあげてきたんですよね。
もう涙目です。。。

Salve Regina もいいですよね。
Ave Maria にくらべ明るい感じですが、どことなく寂しさがただようような感じもします。
以前、修道会のお葬式(告別式)の一番最後で、棺に蓋をする際、仲間のブラザー達が Salve Regina を唱っておられて、そのときの印象が強烈に残ったからかもしれません。 

このAve MariaSalve Regina も定番のグレゴリアンですが、残念ながら私の所属教会ではカトリック聖歌集が置いてない事もあって、自分の教会では唱ったことがない。
典礼聖歌集とカトリック聖歌集をちゃんと両方置いている教会では、時折、唱う機会もあるでしょうから、教会によってもこれはかなり温度差があります。

所属教会でも、祝日のミサでは聖歌隊がポリフォニーのラテン語聖歌を唱いますが(それはそれで悪くはないのだけれども)「カトリック聖歌集」の聖歌ではない。

今の所属教会では、どうしても飢餓感が湧いてしまう・・・

上述の「望郷の味噌汁の味」は、私のカトリックライフにとっては「カトリック聖歌集」なのでありました。

Twitterのほうは、もう手がまわらず、タイムラインを眺めさせてもらうだけになっているのですが、つい目が止まってしまうツイートがあります。

なかでもお気に入りなのが、聖ホセマリア・エスクリバーのメッセージをアップするツイート。

アップしてくださる方に感謝です。

聖ホセマリア・エスクリバーとは?

オプスデイの創始者。。。
1992年に列福。。。
2002年に列聖。。。

列福から10年という異例の早さで聖人となりましたが、40年ぐらい前には存命だったわけで、現代社会を生きた聖人として、ビデオ(動画)が存在しているという、極めてユニークな聖人です。

この聖ホセマリア・エスクリバーのメッセージがスゴい。

まさに金言です。

「いま言ったことを優しい口調で落ち着いて言いなおしてみよ。そうすれば、あなたの言い分はもっと説得力を増すだろう。そしてとくに大切なのは、神にそむくようなことにならなくてすむことだ。」

「あなたには、好奇心と自己顕示欲はありあまるほどあるが、犠牲の精神は欠けている。」

他人に犠牲を強いない犠牲をえらびなさい。」

「俗にいう<平等>は、<不正>の同義語であるとは思わないか。」

「神のもとに導いてくれないものはすべて邪魔者である。引きぬいて、遠くへ投げすてよ。」

もうタジタジとなるというか・・・耳に痛いというか・・・

しかし、強力に引き寄せられるような・・・

Twitterは、著書「道」から、選ばれた金言がアップされてますが、
「拓」(ひらく)「鍛」(きたえる)という本も気になってきます。
書名がいいですよね。

「買って読もうかな」と思案中。

読みかけ本が山のようにたまってしまっているので、またもやウジウジ悩む今日この頃・・・


日本にいるカトリックの皆様

神に感謝!!

我らの教皇が決まりました!! 

新しいパパ様と、前のパパ様に

神のご加護と祝福がありますように!

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