カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

カテゴリ:カトリックの著名人・キリシタン・外国人宣教師 > 大友宗麟・義統

天正14年 大友宗麟の謁見を受け太閤秀吉は島津討伐を決意し、九州の役は「豊臣政権対島津」の戦いとして一気に拡大する。

豊後においては大友義統に加勢する形で、仙石 秀久、長宗我部 元親、十河 存保が布陣するが、軍監仙石秀久の無謀な作戦によって大敗を喫する。戸次川の戦いと言われる。
十河 存保、長宗我部 信親が陣没。

長宗我部 信親を討ったのは岡城包囲の先鋒を務めたあの「鬼武蔵」新納 忠元である。継戦中にもかかわらず信親の遺骸を引き取りにきた長宗我部側に対し、涙して遺骸を引渡し土佐まで僧を同行させたという。
Wikipediaによると、島津家では勇猛果敢な敵将に対し敬意を惜しまない家風であり、(仙石勢と比して)徹底抗戦した長宗我部勢に対する敬意があったとされる。
最高責任者でありながら逃亡した仙石秀久は「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」と嘲られた。

フロイスによると長宗我部 元親は受洗しており、信親も入信を考えていたとされるが、フロイスの日本史は洗礼名のみの記述も多く、筆者は未確認である。

大友義統は加勢を受けてまでの大敗で、志賀親次の大勝利に対し対照的な結果となり大きく面目を失うこととなる。
親次に対し嫉妬の炎を燃え立たせたかどうかは想像ということになるが、確かに親次に対して以後執拗ないやがらせを行っていく。

国崩しについて書いた際、「柴田リイノ(下の名前不明)という勇将が討死した」と書いたが、「柴田リイノ」の最後についてホームページで詳しく書かれている方が見つかった。

フロイスが記した「柴田リイノ」は柴田長門入道礼能のことで、息子の柴田玄蕃允と共に壮絶な最後を遂げたことがわかった。

臼杵城包囲の際、宗麟が「薩摩両台の手引きに 柴田紹安が向うと聞く、柴田長門入道礼能父子は、同姓の親類なれば、薩摩方へ志を寄せないか」ともらしてしまい、それを人づてに聞いた礼能は、身の証を立てるために、大門を開けさせて島津の陣にいる柴田紹安と対面対決しようとする。

両陣の将兵の見守る中、大声でかけあうが対面かなわず、「紹安への体面は久方ぶりに候。よって一品送り申さんと、種子島小筒一挺持参いたしたが、体面なければ残念なる事かな。是非なく皆々にお見せ申さん」と玄蕃允と共に一瞬にして薩摩勢の騎馬武者二騎を撃つが、島津勢の一斉射撃の反撃を受けて絶命する。

柴田礼能と玄蕃允父子の討死を知り、自らの失言によって忠臣を失った宗麟は慟哭したという。

後に薩摩方に寝返っていた柴田紹安も恥じ、大友側に帰陣しようとして島津の将兵に討たれた。

NHKの大河ドラマにはおそらくならない一地方の戦国史なのだが、ドラマティックな話である。

その最後を克明に記述されている戸次鑑連の末裔の方のホームページ
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/sibataoyako/sibataoyako.html
ご紹介させていただく。
志の高い人物の最後を、簡単な一文ではなく詳しく知る事ができたことに感謝したい。
つたない私のブログよりも、はるかに文章が格調高く感動を受けた。
さらにご興味をお持ちの方は、上記のアドレスを尋ねていただけたら幸いである。


佐伯惟定の栂牟礼城のほうはどうだったか?
佐伯惟定は和睦に訪れた島津の使者をその場で切捨てた。
怒った島津軍は総掛かりで攻めたが、自ら退路を断った惟定らの猛烈な反撃を受け撤退する。
和睦に訪れた使者を切るというのは、現代人の感覚では「なんと惨いことを」と思うが、その事が城内の雰囲気を引き締め徹底抗戦に向わせたのも事実である。

常時戦争。人が死ぬのは日常茶飯事。
戦国時代の感覚は現代の日本人にはなかなか実感できないが
戦国の人々が現代人以上にこの世ははかなさを感じ、心の救済を求めたのは自然な感じがする。
キリスト教が現代以上に、当時の日本人の間に広まったのもそのためだろう。

話が変わるが、当時のキリシタンたちが宣教師から与っていたミサというのは、カトリック教会ではトリエント・ミサと呼ばれ、1570年に定められてから1970年ごろまで行われていたラテン語で行われるミサである。
戦国時代と現代では、世界観が全く違うのだが、ちょっと前の1970年まで続いていたという事実に驚くものがある。人が心の奥で求めるものは同じなのである。

訳文を読んだ事があるが格調の高さに衝撃を受けた。
途切れてしまうのはあまりに惜しい。
トリエント・ミサによって当時のキリシタンとつながることができるのである。
私は歴史の重みを実感したい。

なおトリエント・ミサは現在でも全く行われていないわけではなく復活推進の動きがある。応援したいと思う。

宗麟の籠る臼杵城。
佐伯惟定の栂牟礼城。
志賀親次の岡城。

今日は臼杵城の話。
島津の進攻を受け大混乱に陥りながらも、臼杵城は3方を海に囲まれる天然の要害であったため容易には落城しなかった。耳川の戦いではまったく役にたたなかったポルトガル製の大砲が、このときは役立つ。一発の砲弾で何名もの兵士が吹飛ばされ、勇猛果敢な島津の将兵も衝撃を受けたらしい。この大砲は「国崩し」と呼ばれ、何故か実物が靖国神社にある。

もっとも、臼杵城の城外では、熾烈な戦いが行われ柴田リイノ(下の名前不明)というキリシタンの勇将も討死している。

天主堂(教会)は城外にあったため、荒らされても不思議ではなかったのだが、何故か島津の将兵は何も略奪をしなかった。
皮肉なことに、島津が去った後に援兵として訪れた、秀吉配下の仙石秀久の軍によって略奪された。


「国崩し」についてちょっと余談。

10月にカトリック正義と平和協議会の全国集会がさいたま市であり、靖国神社を見学するらしい。
宗麟や宣教師を守った「国崩し」を見ておいてもらいたい。

威勢のいい掛声とともに日向攻めの総大将となった田原紹忍だが、薩摩と雌雄を決する耳川の戦いにおいて、序盤で形勢が不利と見るや一目散に敗走している。

この田原紹忍には跡継ぎがなく京都の柳原家という公家より養子を迎えているのだが、この養子である田原親虎は容貌がいいうえに立ち振る舞いもよく、和歌や書道、茶、武術、乗馬が巧みでなかなかの人物だったらしい。頭の回転も早く聡明だった。この親虎がキリシタンに惹かれた。
「キリシタンになりとうございまする」と紹忍に話したとたん、幽閉するなどあの手この手で妨害が始まるのだが、どうしてもあきらめさせることができなくなったとき、紹忍は勘当し親子の縁を切っている。

田原紹忍が日向より敗走する際には、この田原親虎が守り助けた。ひどい仕打ちを受け恩を感じるほどの事はなかったと思うのだが、田原親虎はこのとき重傷を負ってしまい、まもなく息をひきとったという。

田原紹忍は豊後に帰るやいなや、己の敗戦責任を転嫁するため「戦に負けたのは、お屋形様が邪教にたぶらかされ、神仏をないがしろにしたためだ」との反キリシタンキャンペーンを開始する。
このキャンペーンは効を奏し、家督を譲られていた大友義統が棄教してしまい、豊後宣教は大きく挫折した。ドンパウロ志賀親次が存在感を示し始めるのは、もう少し後である。

田原紹忍は意外にしぶとく、大友家が豊後改易となった後も中川秀成に召し抱えられるなど、うまく立ち回っている。

しかし最終的な歴史の評価は狡猾な男として、彼に厳しい。








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