志賀太郎親次は、豊後の有力な国衆である志賀一族のもとで生まれる。
祖父 道輝と父 道易はキリシタンではない。むしろ大のキリシタン嫌いで通っていた。
12〜3才の頃、豊後国主の館から送られてきた侍女が親次が初めて接したキリシタンである。十字を切る不思議な仕草が好奇心を掻き立てた。「いかなるわけでそのような業を根気よく続けるのか」とうるさく訊ねてやまなかったと記されている。
侍女より少しづつキリシタン宗門の教えを聞くうちにキリシタンになりたいとの意欲が次第に高まっていく。
祖父も両親も、さかんに信心をそらそうとするがゆるがなかった。
親次には20代の年若い叔父(志賀親教)がいたが、この叔父がキリシタンであり、両親はこの叔父との接触をいやがった。見張りがつけられたが寝たふりをして、見張りが寝たのを見計らって抜け出して叔父を尋ねる。
叔父 親教もなんとかこの若者を助けたかった。

こうしたなか、父 道易と共に臼杵を訪れる機会が生じるのだが寺社見学と称して、ついに宣教師カブラルのいる教会を訪れた・・・
以降、親次の夜逃げ?は教会に向うこととなるが、朝4時がおとずれても帰ろうとせず、無理やり帰らさせたと記録にある。宣教師も大変である。

こうした夜逃げもついにばれて、厳重な監視のもと教会との接触を完全に断たれた。
司祭達も彼を不憫に思い洗礼を授けることを考え、国主 宗麟を尋ね相談をするが
「今、洗礼を授けても勘当される。親次は志賀一族の領主となる身であるゆえ、家督を次いでからでも遅くなかろう。主君となれば誰も邪魔するものはおらぬ」
戦国大名だけに現実的である。

教会との接触を断たれた親次だが、彼の左腕には小柄で刻んだ十字の印があった。親次はあきらめていなかった・・・・