カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

カテゴリ:カトリックの著名人・キリシタン・外国人宣教師 > 志賀親次

家内安全、無病息災、学業成就などなど、初詣をする人の思いはそれぞれだと思いますが、願いをこめて手を合わせる気持ちはわからないことはありません。

昨年の年末、電車の中で「せがれが受験なんだけどどこに初詣しようか思案中。上の子は○○神社にお参りしたのだけど志望校あかんかった。今度は別のとこにしようと思って・・・」なんて会話も耳に飛び込んできて、日本はやおおろずの神々の国なんだなあとあらためて感じました。

私はカトリック信徒ですが、やはりお正月となると神社仏閣を訪ねたくなるもの。はたしてカトリックではなかったらどこにお参りするのか?

関西だったら楠木正成を祀っている湊川神社。
鹿児島だったら、おそらく南州神社。
靖国神社、護国神社の可能性も高い。日本のために亡くなっている人が祀られているから。

なんて事を家族に話すと、「ふつうは祭神が何かなんてことはそんなに意識しないけど。家に近いとかご利益があったとかでお参りするんじゃないの」という返事・・・・

年末にmaggieさんのブログに吉祥寺五右衛門さんが、「多神教は、自分に神様を合わせる」と書かれていましたが、この感覚はそのとうりですね。

そう考えると、湊川神社や南州神社、靖国神社護国神社とかにこだわるのは墓参りに近い感覚かも。
ふつうの初詣の感覚とは少し違うのかもしれませんね。

「志賀親次は少年のころに教会に行くことを阻止されたときに、腕に十字の印を切り刻んだ・・・・」
私はこの激しい話が好きで、どこでもいいんだったらいかん方がましと思ってしまうんですよね。

ということでやっぱり私は教会にお参りさせていただきます・・・・







桑姫社という祠があるらしい。
http://nagasaki-r.seesaa.net/category/5389381-3.html

先述の浦上淵村の庄屋 志賀家が関係する。

桑姫社は豊後(大分県)のキリシタン大名・大友宗麟(そうりん)の子義統の娘阿西(おにし)・マキゼンシャを祀ったもの、マキゼンシャは、大友家の没落(天正15年・1587)後、重臣志賀大内蔵親成はのがれ長崎に亡命、この地淵村に隠れ住んだ。のち、姫を尾崎屋敷に迎えた。

とされている。

宗麟の娘、マセンシアのことが頭をよぎったが、マセンシアではなく義統の娘。阿西御前とも呼ばれていたらしい。

志賀大内蔵親成のほうはよくわからない。
ひょっとしたら親次本人ではないのだろうか・・・

志賀親次の残像が長崎に残っているとしたら、非常に感慨深い。



浦上村淵庄屋志賀家の墓碑というものが、長崎の稲佐悟真寺後山の墓地にある。
現在の場所へは慶応2(1866)年に寺野郷(城山地区)から移されたそうである。
昭和52年3月25日長崎市指定史跡に認定されている。
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-08.htm

19基の墓碑があるが9世親善の名が目に留まった。

親善とは親次の別名である。

同性同名かもしれないが、長崎浦上淵村の庄屋の一族の墓・・・・
長崎の浦上と聞いて、激しく心が揺さぶられる・・・・

この19基の墓には江戸後期明治初期に活躍されたロシア通詞の志賀親という人物の墓もある。明治天皇と露国アレクセイ親王の通訳も務めたらしい。
ロシア通詞志賀親はロシア正教の洗礼を受けている。

1592年より始まった文禄の役において、大友家も太閤秀吉から出兵を命じられている。黒田長政麾下の第三軍に編入され朝鮮の奥深くまで進むが明軍の大反撃の報を知り一気に敗走・・・
この敗走は親次の進言によるとされている。
親次にとってはこの異国での戦いは何の意義も持てなかったのかもしれない。
もっとも大友興廃記などでは他の人物が進言したとの異説もある。親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高いという説である。こちらももっともな感じがする、

この敗走は大友家にとって大きな分水嶺となった。
太閤秀吉は「大友勘当の朱印状」という沙汰を出し、鎌倉時代より続いた大友家は豊後を召し上げられ終焉を迎える。
敗走したのは大友だけではないのに大友だけが処罰を受けたのは何故か?
結局のところ豊後一国は朝鮮出兵のための戦費として当てられたのである。
大友義統の人物を見限っていた秀吉にとってはどのみち召し上げるものであり、早いか遅いかの違いだった。

大友義統のその後については、当方のブログの「大友吉統編」で既に書いた。

志賀親次はいったん浪人となるが、福島正則、小早川秀秋、細川忠興につかえたとの記録がある。
その後は不明である。

その後の親次については誰も知らない・・・・・・・・・

豊臣側の圧倒的兵力の前に当初は抵抗を続けた島津もついに恭順し、九州では太閤に歯向かえるものはいなくなった。伴天連追放令が発令された中、絶対権力者である太閤がキリシタンを棄てよと言えば言われるままに棄てるかか処罰されるか・・・
親次にとっては大友義統の嫡子塩法師丸の後見としての上洛だが、太閤に謁見すれば間違いなく覚悟を決めなければならない状況である。
そのうえあの田原紹忍もまるで親次を監視するかのごとく随行に加わる。
絶体絶命のなかでの太閤への謁見。

しかし太閤は親次のキリシタン信仰については驚く事に全く不問にし、それどころか岡城での親次の勝利について大いに褒めて塩法師丸と親次のみを昼餐の場に招くというもてなしで報いた。
田原紹忍が千利休に「それがしは供衆では一番の年寄にござりますれば」と抗議するが「すべて太閤殿下のご指図にござります」と一蹴される。
役に立つものはとことん使うという織田信長仕込みの秀吉の現実的な人材活用術である。役立たずとされた田原紹忍の屈辱は義統の屈辱となった。

親次の信仰は親次を見捨てず、激闘の上での勝利が再び彼を救った。

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