本日は天皇誕生日。
天皇陛下のお誕生日をお祝い申し上げます。
ということで今回は「日本の伝統」と「カトリックの伝統」とについての雑感です。
最近「教会ラテン語への招き」という本を読んでいるのですが、うるおぼえですが次のような感じの事が書いてあってちょっと印象に残りました。
「カトリックはヨーロッパにおいて2000年の歴史によって育まれて来た。日本におけるカトリックも、ヨーロッパからもたらされてその影響を強く受けている。日本では400年前に宣教された歴史があるものの一度断絶したため実際は明治期からの100年ぐらいの歴史しかない。日本のカトリックはまだ草創期にあり何かを生み出すにはまだ歴史が浅すぎる」
というような内容でした。
日本の伝統聖堂を調べたとき、ゴシックのようなカトリックとしての伝統的な様式と、和風の伝統様式があったのですが、和風の伝統様式の場合はどうしても寺社風であったり武家屋敷風であったりして教会ではなく別の建築物を想起させ、教会としての「らしさ」が感じにくいところがありました。
もちろん和風聖堂は、日本の情景に非常に馴染み易いところがあって否定する気持ちはないのですが、やはりまだ典型として完成されたものではないように感じます。
特に内側の祭壇の姿を見た時にそれを強く感じました。
(事例 秋田聖体奉仕会聖堂。http://www.geocities.jp/seitaihoshikai/)
「教会ラテン語への招き」に書いてあったことに「ふむふむ」と納得です。
これは、よくよく考えれば聖堂のことだけでなく典礼やお祈り、聖歌においてもきっと同じなんでしょうね。
神道にしても仏教にしても、それぞれの伝統と「日本の伝統」はぴったり同軸になりますが、キリスト教の場合はまだ同軸にはなりきれてないから、日本的なものに合わせたくなるのは仕方ない面もあるのですが、無理に合わすと本質的なものから離れる危険性もはらんでいる気がします。
だけどここで焦ってはいけない。
時間の力だけれども、明治期の宣教初期の聖堂が、ヨーロッパのカトリックの様式を受継ぎながら100年の年月を超えて、ゆっくりと日本の情景になじみ始めたように感じます。
「日本は飛鳥時代などの黎明期より海外の良いものを受け入れ自分達のものにしてきた。」
日本の伝統美である仏像が、その姿をよく見た時に、インドなどの南アジアの衣装をまとっているのを見るにつけ、その思いが強まります。
「キリシタン時代の事でも、明治期の宣教初期からの聖堂もお祈りも変えてはいけない。変えない事で伝統となりうる。「未来の日本」から見たときにラテン語の祈りが伝統的であるがゆえに、日本的であると思えるのではないか?」
ここらへん逆説的というかねじれがあって自分でも混乱するのですが・・・・
「カトリックの伝統を次の世代につなぎ、少しづつ『日本の伝統』にしていくこと。これが私たちの使命、役割。変えないことがカトリックの普遍性。直近(20〜30年)の教会の変化はおかしい。もとに戻るべきだ」と私は強く思い始めています。
そのカトリックの普遍性の象徴は、空間軸でも(外国でミサに与っても)時間軸でも(キリシタンの事を考えても)きっとラテン語の祈りなんです。
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※何か同じ事くどくど書いてる。今回、自分の文章力のなさ痛感・・・・
天皇陛下のお誕生日をお祝い申し上げます。
ということで今回は「日本の伝統」と「カトリックの伝統」とについての雑感です。
最近「教会ラテン語への招き」という本を読んでいるのですが、うるおぼえですが次のような感じの事が書いてあってちょっと印象に残りました。
「カトリックはヨーロッパにおいて2000年の歴史によって育まれて来た。日本におけるカトリックも、ヨーロッパからもたらされてその影響を強く受けている。日本では400年前に宣教された歴史があるものの一度断絶したため実際は明治期からの100年ぐらいの歴史しかない。日本のカトリックはまだ草創期にあり何かを生み出すにはまだ歴史が浅すぎる」
というような内容でした。
日本の伝統聖堂を調べたとき、ゴシックのようなカトリックとしての伝統的な様式と、和風の伝統様式があったのですが、和風の伝統様式の場合はどうしても寺社風であったり武家屋敷風であったりして教会ではなく別の建築物を想起させ、教会としての「らしさ」が感じにくいところがありました。
もちろん和風聖堂は、日本の情景に非常に馴染み易いところがあって否定する気持ちはないのですが、やはりまだ典型として完成されたものではないように感じます。
特に内側の祭壇の姿を見た時にそれを強く感じました。
(事例 秋田聖体奉仕会聖堂。http://www.geocities.jp/seitaihoshikai/)
「教会ラテン語への招き」に書いてあったことに「ふむふむ」と納得です。
これは、よくよく考えれば聖堂のことだけでなく典礼やお祈り、聖歌においてもきっと同じなんでしょうね。
神道にしても仏教にしても、それぞれの伝統と「日本の伝統」はぴったり同軸になりますが、キリスト教の場合はまだ同軸にはなりきれてないから、日本的なものに合わせたくなるのは仕方ない面もあるのですが、無理に合わすと本質的なものから離れる危険性もはらんでいる気がします。
だけどここで焦ってはいけない。
時間の力だけれども、明治期の宣教初期の聖堂が、ヨーロッパのカトリックの様式を受継ぎながら100年の年月を超えて、ゆっくりと日本の情景になじみ始めたように感じます。
「日本は飛鳥時代などの黎明期より海外の良いものを受け入れ自分達のものにしてきた。」
日本の伝統美である仏像が、その姿をよく見た時に、インドなどの南アジアの衣装をまとっているのを見るにつけ、その思いが強まります。
「キリシタン時代の事でも、明治期の宣教初期からの聖堂もお祈りも変えてはいけない。変えない事で伝統となりうる。「未来の日本」から見たときにラテン語の祈りが伝統的であるがゆえに、日本的であると思えるのではないか?」
ここらへん逆説的というかねじれがあって自分でも混乱するのですが・・・・
「カトリックの伝統を次の世代につなぎ、少しづつ『日本の伝統』にしていくこと。これが私たちの使命、役割。変えないことがカトリックの普遍性。直近(20〜30年)の教会の変化はおかしい。もとに戻るべきだ」と私は強く思い始めています。
そのカトリックの普遍性の象徴は、空間軸でも(外国でミサに与っても)時間軸でも(キリシタンの事を考えても)きっとラテン語の祈りなんです。
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※何か同じ事くどくど書いてる。今回、自分の文章力のなさ痛感・・・・