キリストご降誕について福音書では、ルカ福音書では「ベツレヘムの羊飼い」、マタイ福音書では「東方の三博士」が御降誕の馬小屋を訪れている。

ベツレヘムに、もともといる羊飼いと異郷にいる三博士では居る場所が違うから 、最初に訪ねた方は羊飼いだと思うが、天使が現れて知らされなければ羊飼いは何も知らなかった事になるので、羊飼いについては「天使のお告げで招かれた」ことがポイントになってくるような気がする。

一方、三博士の方は「兆しを見つけて、捧げ物を用意し、遥かに遠い国へと旅立つ」という行動をとったことで、神様に会おうとする信仰者としての積極的な強い意思があったと見なされてきたのかもしれない。

なぜならば、三博士にはメルキオール、バルタザール、カスパールという名前が残っている。

それぞれ、青年、
壮年、老人の姿の賢者の姿だったとされる。
この三博士は、三種の肌の色(褐色、白色、黄色)だったという話もある。

その
捧げ物は「黄金」「乳香」「没薬」で、それぞれ「王権の象徴」「神性の象徴」「将来の受難である死の象徴」を神さまに奉納した。

この三博士の目線で見つめていくと主の御降誕という物語はどう見えてくるのだろう。
「神様に出会うための旅」というドラマは、聖クリストフォロスの話をチラッと想ったりもする。

私もまた、ぼんやりしながらも人生の歩みの中で
神様に出会う旅をもしかしたら続けているのかもしれないけれども、「お捧げするもの」を準備するという自覚には乏しいかもしれない。

「兆しを見つけて、捧げ物を用意し、遠いところへ旅立つ」ということを「信仰」と考えると、当たらずとも遠からずというような気がしたりもする。