コロナで大変な時に、重なるように大雨による大災害が起きてしまっている。

特に人吉は、私の両親が一時期住んでいてどういうところか話を聞いたことがあって、地名に親しみがあったので、災害によって悲嘆する人が多くでてしまった現実に心が沈む。

読んでなかった酒井司教の説教集を読んでみた。

「エマオへの道」について語られているところがある。

聖書世界の初代教会の弟子たちにおいても「見えない」「気づかない」という描写されていることに、自分自身の姿を弟子たちに重ね合わせることができるような気になるところが「エマオへの道」の話に惹きつけられる理由なのかもしれない。

酒井司教は、疑うということについて率直に踏み込んで語っている。


(以下青字部引用)
 それにしても、よく知っているイエス様を、なぜこの二人は最初にはわからなかったんでしょうか。そこのところが、このお話から私たちが学ぶべき最初の点だと思います。なぜ二人には、目の前にいるのに、一番見るべき人だったのに、見えなかったのか。
この疑問に対して、6世紀の教皇様、グレゴリウス1世は、こう解説しています。

「主は、ご自分が主であるとわかるような姿を示されなかった。それは、主が外見上彼らの目に示された姿は、ちょうど彼らの心の状態に似ていたのである。 (略)主は、ご自分について語り合っている人のそばにおられたが、主について疑っている人には、主と認めることのできるような姿を隠された」

弟子たちの心がそのまま反映されていた、投影されていたということなんですね。だから、疑っているものですから、イエス様の姿とは見えなかった。 (略)
このことは私たちにも耳の痛い ことです。なぜ私たちは、山を動かすような信仰(マタイ17/20)が持てないのか。それはひとえに、山が動くということに疑いがあるからです。
(つづく)