日曜日に、菊池大司教の配信ミサを見る日が続いている。

菊池大司教様の説教は、現在の私たちの置かれている状況の中で、
神のいつくしみについての意味を説かれた。

閉祭の歌は、グレゴリオ聖歌のレジナチェリだった。

緊急事態宣言の全国拡大の中、東京教区だけでなく日本の各地で
この菊池大司教様のこの配信ミサを見た人が多いであろうと思うと、このことも良かった。

復活節第二主日
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年4月19日 

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と福音には記されていました。

そして今おなじように、わたしたち現代に生きる弟子たちも、感染症拡大の直中で恐れをいだいて、閉じこもっています。

その日、弟子たちは頼るべきで師であるイエスを失った喪失感と、自分たちもまた同じようにいのちを奪われるのではないかという恐れにとらわれていました。

そして今おなじように、わたしたちは、感染症の拡大の中で、それがいのちを奪ってしまう可能性が少なくない事実を目の当たりにして、恐れています。

恐れおののく弟子たちにそうされたように、今日またわたしたちは、主ご自身がわたしたちと共におられて、「あなた方に平和があるように」と語りかけてくださることを信じています。

それは例えば、いのちの危機に直面する人たちをひとりでも救うために、日本で、そして世界中で、日夜懸命に働いておられる医療関係者の方々の存在を通じて、いのちの与え主である主は、「あなた方に平和があるように」と語りかけておられるように感じています。困難な事態の中で、希望と平和をもたらす医療関係者の働きに感謝すると共に、その健康のために祈ります。

教皇ヨハネパウロ二世は、二千年に行われた聖ファウスティナの列聖式の説教で、復活された主が弟子たちに現れたこの出来事を取り上げ、「人類は、復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んでいただかなければなりません。心の傷を癒やし、わたしたちを神から引き離しわたしたち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻してくださる方は、聖霊です」と述べています。

復活節第二主日は、教皇ヨハネパウロ二世によって、「神のいつくしみの主日」と定められました。「人類は、信頼を持ってわたしのいつくしみへ向かわない限り、平和を得ないであろう」という聖ファウスティナが受けた主イエスのいつくしみのメッセージに基づいて、神のいつくしみに身をゆだね、それを分かちあうことの大切さを、あらためて黙想する日であります。

2005年4月2日に帰天された教皇は、その翌日の神のいつくしみの主日のために、メッセージを用意されていました。そこにはこう記されていました。

「人類は、時には悪と利己主義と恐れの力に負けて、それに支配されているかのように見えます。この人類に対して、復活した主は、ご自身の愛を賜物として与えてくださいます。それは、ゆるし、和解させ、また希望するために魂を開いてくれる愛です。」

1980年に発表された回勅「いつくしみ深い神」で、教皇はこう指摘されています。
「愛が自らを表す様態とか領域とが、聖書の言葉では「あわれみ・いつくしみ」と呼ばれています」(いつくしみ深い神3)

その上で、「この愛を信じるとは、いつくしみを信じることです。いつくしみは愛になくてはならない広がりの中にあって、いわば愛の別名です」(いつくしみ深い神7)と言われます。

すなわち、「悪と利己主義と恐れの力に負けて」いる人類に、「ゆるし、和解させ、また希望するために」心に力を与えてくれるのは、神の愛であり、その愛が目に見える形で具体化された言葉と行いが、神のいつくしみであると指摘されています。

同時に教皇は、「あわれみ深い人々は幸いである、その人たちはあわれみを受ける」という山上の垂訓の言葉を引用しながら、「人間は神のいつくしみを受け取り経験するだけでなく、他の人に向かって、『いつくしみをもつ』ように命じられている」と、神のいつくしみは一方通行ではなくて、相互に作用するものだとも語ります。(いつくしみ深い神14) 

信仰における同じ確信を持って、教皇フランシスコは、「福音の喜び」にこう記していました。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。」(114)

誰ひとり排除されてもいい人はいない。誰ひとり忘れ去られてもいい人はいない。それは、神がすべてのいのちを愛しておられ、そのいつくしみの心で包んでくださっているからだ。

そこで2015年12月に、教皇フランシスコは、「いつくしみの特別聖年」を始められました。

いつくしみの特別聖年公布の大勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」には、こう記されています。
「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命があります。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。・・・したがって教会のあるところでは、御父のいつくしみを現さなければなりません」(12)

いのちの危機に直面して、恐れに打ち震えている現代社会に、常に共にいてくださる主イエスは、その直中で、『あなた方に平安があるように』とあらためて告げようとされています。

多くの方々の具体的な愛の行動を通じて、平和と希望を告げしらせようとしています。

世界で進む連帯への動きを通じて、和解を告げしらせようとされています。

恐れている人類は、「復活のキリストがお与えになる聖霊に、触れてもらい、包んで」いただくことによって、「心の傷を癒やし、わたしたちを神から引き離しわたしたち自身を分断する壁を打ち壊し、御父の愛の喜びと兄弟的一致の喜びを取り戻」すことができるようになる。

復活された主イエスの弟子として、神のいつくしみを受けたわたしたちには、その受けた愛を、さらに他の人たちへと分かち合っていく務めが与えられています。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命が」あるからです。

不安に打ち震える社会の中で教会が希望の光となるためには、キリストの体である教会共同体を形作っているわたしたち一人ひとりが、いつくしみに満ちあふれた存在となる努力をしなければなりません。

使徒言行録には、初代教会の理想的な姿が描かれていました。信仰共同体は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と記されています。

復活された主イエスの新しいいのちに生かされた共同体は、互いに「学び合い、支え合い、分かち合い、祈りあう」ことに熱心でありました。「心を一つにし」「喜びと真心を持って」いた共同体は、神の愛といつくしみに満たされたものとなりました。神の愛といつくしみを、あかしするものとなりました。神の愛といつくしみを、分かち合うものとなりました。

だからこそ、「民全体から好意を寄せられた」と使徒言行録は記します。社会の中で、希望の光となったのです。

いま、困難に直面する世界の直中にあって、わたしたち自身がまず、神の愛といつくしみに身をゆだね、それをあかししなければなりません。分かち合うものとならなければなりません。

主ご自身が、この時代の直中で、「平安があるように」と告げることができるように、弟子であるわたしたちは、「心を一つにし」「喜びと真心を持って」信仰共同体を育み、希望の光となりましょう。