イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、「何を求めているのか」と言われた。
彼らが、「ラビ(先生)どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
イエスは「来なさい そうすればわかる」と言われた(ヨハネ1:38−39)

「何を求めているのか」という言葉が、人生の最終的な目的への問いだったとするならば、「あなた(神様)はどこにおられるのですか?」という想いが湧くのは自然な感じがする。

求道者だけではない。
既に洗礼を受けている信者であっても、正直なところ「どこにおられるのですか?」と想わない日は無い。

主キリストは来なさい そうすればわかる」答えている。


話が変わるが、カトリックアクション同志会の荘厳司教ミサも、どういうミサなのかを知るためには、話を聞くより体験した方が早い。
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今まで教会に縁がなかった人にカトリック教会のミサに初めて与ってもらう場合、最初に体験するミサがどういうミサになるのか、その経験によってカトリック教会の印象はかなり違ってくると思う。

キリスト教がなかなか浸透しない日本に住んでいる限り、。私にも未信者であっても大切な友人というのは当然いるのだが、私の場合、そういう友人を誘いたいのは、荘厳司教ミサのようなミサだ。

ラテン語ミサは難しいミサと思われがちだけれども、神様と対話するための荘厳さを持ったミサという視点では、大変わかり易いミサだと思う。
「この人たちは、今、祈っている」ということがハッキリわかるミサだからだ。

御受難会の来住神父が次のように言っている。

私たちがミサを祝うとき、聖堂全体が深い「祈りの空間」になっていてほしいと思います。それは、たまたま訪問した人にも、教会の子供たちにも「神はおられる」ことを感じさせる宣教的な場となるでしょう。しかしそれを「あの人たちは信仰が深いから」というように、内面だけの問題にしてはならないと思います。司祭(奉仕者)と会衆がそれぞれの役割を果たす、という行動の問題でもあるのです。「祈りの空間」は共に創造するものです。

荘厳司教ミサは、福音宣教の視点でも、大いに意味があるミサだと、やはり思う。