サラリーマンの場合、一つの小教区に所属し続けるというのはなかなか難しい。

若いときは、転勤による中距離の異動で引っ越しがあったので、そのたびに、私は小教区を変えてきた。

最初の異動では、あまり深く考えずに、新しい引越し先に一番近い教会を選んだら、初日にいきなりフォークミサに遭遇する羽目になった。

その次の教会もどうも按配が良くない。臨時の聖体奉仕者が、いつもミサの時に前に出てくる。

ついてないというか、なぜか移り変わった小教区は、典礼刷新がかなり進んだ教会ばかりだった。

時代の流れなのか地域のカラーだったのかはわからない。
その両方だったのかもしれない。

多かれ少なかれ日本のカトリック教会は、ミサの形式が変わった第2バチカン公会議以降にも、典礼刷新よって、様々なことが少しづつじわじわと変わってしまっているのだけれども、やはり程度の問題というものがある。

1.祭壇周囲に御聖櫃、聖体ランプが見当たらない。
2.聖体拝領のときに、臨時の聖体奉仕者(一般信徒)が司祭の横に「必ず」立つ。
3.俗化聖歌を歌う。しかしカトリック聖歌やグレゴリオ聖歌は「全く」歌わない。

この3条件をすべて満たす教会というのは、やはりちょっとつらい。

子供の頃に通っていた教会の思い出との断絶を感じたまま、そういう教会に通っても、なかなか愛着が湧かない。

こういうことの繰り返しだったので、このころの教会遍歴のなかでは、信仰の熱意も冷めて、全く教会に行かなくなってしまう空白期間ができてしまった。

今になっていろんな教会のミサに与ってみれば、日本の教会における典礼の刷新というのは微妙な地域差があったみたいで、節度が保たれているところもまだあるということもわかり、ちゃんとした教会にもっと早く出合えていれば、私も空白期間を空けずにすんだのかもしれないだろうなということを時折思う。

現在の所属教会は、近隣の小教区の中で、よりマシなところをあらためて選ぶという選びなおしをして、その中で折り合いをつけた教会なので、今は少しは落ち着いたような気もしなくもない。
しかしそれでも「ここが最後の死に場所」と思えるほどの定着感があるかといえば、ちょっと自信はない。


こういった刷新系教会での不遇な環境だった時分に、初めて特別形式ミサと出合ったときのことをよく覚えている。

違和感は全くなくて、神秘的で本当のミサという感じがした。

ミサの形式が変わった第2バチカン公会議の時の変化より、それ以降の日本の教会における、少しづつじわじわと変わった様々な典礼刷新の変化度のほうがボリュームが大きかったのではないか?

はっきり言って「この変更、刷新は良かった」と思ったことは一つもなく、少しづつ確実に、ミサ聖祭の神秘性を薄めただけの無意味な刷新だったと思う。

特別形式ミサに惹かれたのは、カトリックらしさが凝縮されているミサだったからで、その根底には、刷新系の珍奇なミサに対する反発、反動があることは自分でもよくわかっている。

カトリックの教義に対する知見であるとか、地道な信心業の実践からすれば、私なんかとんでもないダメダメ信者だ。
今日何気なくカルメル会の祈祷書の「祈りの友」をめくっていたら「全免償がついている祈りと信心業」というページがあって、
「1.少なくとも30分間、御聖体の前で礼拝し黙想する。」
「2.少なくとも30分間、聖書を読み黙想する。」
「3.少なくとも三日間の黙想会に参加する。」
というような13の項目が列記されていてタジタジとなってしまった。

こういう地道な信心ということでは、私の日常は全く深みに欠ける。
典礼に対してだけ、特別形式ミサに憧れるというのは、バランスが悪いのかもしれない。

しかし与れば与るほど特別形式ミサの神秘性には惹かれる。
私の信仰のレベル的にはハードルが高いミサであることは承知の上だが、もう与ってしまったのだから後には戻れない。

私は、そもそも以前からラテン語やグレゴリオ聖歌にそれほど想いがあったというほどでもなかった。
特別形式ミサは、グレゴリオ聖歌を歌うことができる典礼というだけではなく、伝統の典礼の姿で、ミサ聖祭の神秘が体感しやすい場所なのだと思う。
ラテン語、グレゴリオ聖歌は伝統の典礼の一要素であって、そのことが目的ではなく、そのこと以上に大切なのはミサ聖祭の神秘が保たれ凝縮されているということだ。


様々な典礼刷新の過程の中では、「聖体拝領の時に跪いた信徒には拝領させない」というようなパワハラもあったという話を聞いている。
私はそこまでの酷い経験はしていないけれども、ショックを受けた信徒が「ここでは安心して跪いてご聖体を拝領できる」と思える最後の聖域が、特別形式ミサであっても不思議ではない。

典礼刷新の前の神秘さが色濃く残っていた御ミサに想いを持ち続けている人は、特別形式ミサに与ってみて欲しい。最後の聖域であることがわかるはずだ。

特別形式ミサは、名誉教皇ベネディクト16世の回勅によって守られている。

私にとっても、ここまで来てしまった以上、もう終着駅で最後の居場所なのは間違いない。