久しぶりに、カトリック夙川教会のミサに与った。

カトリック夙川教会は、作家の遠藤周作さんが幼少の頃に通っていた教会ということで知られている。

立派なゴシックの聖堂なので、いかにもカトリック教会という感じ。

神戸市内の伝統様式の教会がいずれも神戸の震災で被災してしまったので、
今では、伝統的な建築様式ですぐ思いつくのは夙川の教会という感じがする。

夙川教会外






















夙川教会内












外観も凄いが、やはり内部がいい。

御聖櫃は、旧祭壇の中央。コミュニオンレールがあって内陣がしっかり区切られている。
立派な御像がありステンドグラスも美しい。
伝統の様式が、キチンと残されていて、もうこういう聖堂でミサに与れるだけで、気持ちがかなり高まる。

ミサの雰囲気もとても良かった。

バチカン基準で見てせっかくならばという点はいろいろあるのだけれども、日本の司教団の定めるジャパンスタンダードに沿う形としては、良識ある姿というか、そういう感じがした。

聖歌は、典礼聖歌とカトリック聖歌が2曲。フォーク調聖歌無し。

参列者は、2〜300人はいる感じだった。

これだけ人数が多いと、やはり御聖体拝領では信徒の聖体奉仕者が出てくるのだろうと思ったら、聖体拝領の時だけもう一人の司祭が出てこられて、拝領する人は全員、二人の司祭からの拝領だった。

こういうところは大教会の余裕というか、正直、本当に羨ましい。

ただし信徒の聖体奉仕者がいないわけではない。
この聖体奉仕者は両形態のための奉仕者。つまり「御血」の奉仕者としてだった。

私の経験では、参列者が多くて聖体奉仕者がいるときは、聖体奉仕者が司祭の横に並び立って「御体(ホスチア)」を配るというスタイルが多かったが、ここでは「御体(ホスチア)」は拝領者全員が司祭から拝領できる。

そういう恵まれた環境の中で、聖体奉仕者にも立ってもらって、より充実した形式として両形態拝領にしようという心意気はわかるような気もする。

ただ少し望ましくない光景も目に付いてしまった。

両形態拝領の場合、「御体(ホスチア)」のみの拝領も可とされているから、聖体奉仕者の持つ「御血」の前を通る時、御聖体(御血)を意識せずに、素通りしてしまう信徒が少なくないのである。

「御血」の拝領をしなかったとしても、どうして礼も跪きもしないで素通りできるのか理解に苦しむ。
正直、これはちょっと「御聖体」に対する姿勢が未熟で、意識が低すぎるのではないのか?

より充実した聖体拝領の形式とされているが、意識が低いと両形態拝領はリスクがある。
私自身が、両形態拝領の意義をよく知らないこともあって、そんなことを思った。

自省をこめて書くならば「全実体変化」がカトリックの教えである限り、御聖体」に対する態度、姿勢、所作については、すべてのカトリック信者は、もう少し意識を高め、注意深く、どういう所作が必要なのか自覚するべきだろう。

書き進めるうちに、ぼやきのような、少し重箱の隅をつつくような、文句を垂れるような内容になってしまったが、夙川教会を非難しているわけではない。
聖堂だけでなく、ミサもオーセンティックで素晴らしいと思う。
群を抜いていると言っていい。
惜しいのは一部の「御聖体」に対する意識が低さで、そこだけは惜しい。

しかしこの御聖体」に対する意識が低さは、おそらく夙川教会だけでなく日本のカトリック教会全体で目にする光景だろう。

こういう意識にしてしまったのは、「日本でのミサでは、聖変化のときは跪きではなく立つ」というような不可解な指針を出してしまう司教団の姿勢が根底にある。


来住神父が書かれている。

「私たちがミサを祝うとき、聖堂全体が深い「祈りの空間」になっていてほしいと思います。それは、たまたま訪問した人にも、教会の子供たちにも「神はおられる」ことを感じさせる宣教的な場となるでしょう。しかしそれを「あの人たちは信仰が深いから」というように、内面だけの問題にしてはならないと思います。」

私は、某所の聖体賛美式で、ほぼ土下座に近い姿勢をとるかたを目の当たりにして、その衝撃的な事実に自分の信仰の未熟さを思い知らされたことがある。

所作、姿勢もまた、共同体の信仰を強める大切な要素で、カトリック教会ならば、姿勢を正す目線の先には、御聖体がある。はずだ。