来住神父の「目からウロコ」シリーズを気に入って読み続けている。
このシリーズが良いのは、どうしたら良いのかということが具体的に書かれているところで、信仰生活をおくるうえで実践的な内容になっているところがいい。
例えば「目からウロコ 聖書の読み方」という本は、「レクチオ・ディヴィナ入門」という副題がついていて、「レクチオ・ディヴィナという聖書の読み方」がひとつの手法として説明されている。
このレクチオ・ディヴィナという聖書の読み方は、ひとつひとつの単語を「触る」ようにゆっくりと反芻するように読むらしい。
例えば
「打ち砕かれた心をつつみ、とらわれ人に自由を、つながれている人には解放を告知させるために」
という聖書の箇所を
「打ち砕かれた」「心」「つつみ」「とらわれ人」「自由を」「つながれている人」「解放」「告知させるために」
というように区切りながら、単語の持つ意味のイメージを膨らませるようにして読む。
区切らずにさらっと読めば、特に腹に落ちるほどのこともなく、「ああ、この内容はおそらくバビロン捕囚のことなんだろう」という具合に、独り合点しながら軽い受け止め方をしてしまうが、ひとつひとつの単語にこだわって読むと「とらわれる」とか
「つながれる」という意味についてイメージがグッと膨らむ感じになる。
つまり「とらわれていて、つながれているのは、世俗的な価値や欲望に縛られる私自身ではないか?」というように、自分のこととして、この言葉を当て始めたりするのである。
カトリック的には、聖書の読み方は、教会の教えに沿って読むべきだし、聖職者との対話で独りよがりな解釈にならないような補整は必要と思うが、ある意味、聖書の言葉を「腹落ちさせる」ために、こういう冒険的な手法があるという事がとても新鮮だった。
レクチオ・ディヴィナもカトリックの歴史の中での伝統的な財産の一つで、知らない財産がまだまだ多いということをあらためて知った。
御降誕祭も終わり今年もそろそろ暮れようとしている。
一年間、駄文をお読みいただきお付き合いいただきました方々に御礼申し上げるとともに、今年の最後の更新になることをお知らせして今年のブログを終えたいと思う。
お読みいただいている皆様方。
どうぞ良いお正月をお迎えください。