遠藤周作さんの「外国文学におけるキリスト教」という連続講演を収録した本を読んでいたら、少し気になる箇所を見つけた。

遠藤さんのこの類の講演の場合、必ずといっていいほどに例にあげるのが、フランソワ・モーリヤックの「テレーズ・デスケルー」で、この講演で遠藤さんは、アビラの聖テレジアが書いた「霊魂の城」が、この物語のネタ本になっているという仮説を立てて話していた。

「テレーズ・デスケルー」は、一言で言えば「夫を毒殺しようとして失敗する女の話」であり、かたや「霊魂の城」は、神秘体験に基づく「七つの神の城についての霊的黙想」なのだから、全く方向性が違って関連性など無いようにも思える。

しかし遠藤さんは「テレーズ・デスケルー」は「キリスト教における黙想という形式を、取り入れた構成になっている」という読み解き方をしている。

聖テレジアの「霊魂の城」では、「霊魂の暗夜」という神が見えず遠ざかる危機を経ながらも、神の城を一つ一つ訪ねながら、心の奥底にある神に向かっていく。

かたや「テレーズ・デスケルー」では、主人公のテレーズが、真っ暗な汽車の中で自分のしてきたことを一駅ごとに反芻しながら、まさに「暗夜」である闇の中に入っていく。

心の奥底に一歩一歩進んで行くという構造が、聖テレジアとテレーズは相似形になっていて、確かに似ているという見方ができるのかもしれない。

そのうえで遠藤さんは、「なぜ毒をもったのかが、自分でもわからないテレーズの、心の動き、衝動の中に、生ぬるい状態から熱い状態に踏み出す無意識の心の動きがあり、その無意識の中で、神様が自分の存在を裏返しで証明しようとしたのではないか?」という具合に解釈する。

遠藤さんは「無意識」の存在に、かなり関心を寄せていたので、遠藤さんらしい解釈のような気がする。

私のような凡人は、アビラの聖テレジアのような熱い想いを信仰に持てている自信はないし、かといって、テレーズのような自分でも理解できない破滅的な衝動を持っているとも思えない。

生ぬるい状態で漂っているといえばそうなのかもしれない。

「霊魂の城」では、霊的旅路のなかで、7番目の城にたどり着いた時に、神と霊魂との一致する段階にたどり着くことができるとされている。

1番目の城の段階では、魂が自我の汚れを知るが神の現存に気づいていない。
2番目では、神の呼びかけに応えて神に近づいていく。
3番目で、神でないものから離れることができる。

自分も含め、3番目までたどり着けるかどうかという人は多いかもしれないが、それでも神を求める旅路をトボトボと歩いていることには違いないのだろう。


テレーズが毒殺しようとした夫ベルナールもまた、順応主義的な道徳観で固まっている凡庸な男として描かれている。

しかし遠藤さんは、「テレーズ・デスケルー」では、ベルナールのいつもとは違う姿が描かれた良い部分が二行だけあって、テレーズはその姿に気づかなかったと解説している。

その二行というのは、キリストの受難、十字架の道行きにおけるキレネのシモンを思わせる場面で、「テレーズ・デスケルー」にはそういったキリスト教のメタファーが多く埋め込まれているのは間違いないのだろう。