復活祭の後の23日の主日ミサは、東京に用事があって上京していたので、四谷の若葉修道院でのUVJが関わる特別形式ミサに久しぶりに与った。

しばらくご無沙汰になっているうちに、ミサに与る人が、また少し若くなっているような気がする。

ネットで告知している効果だと思うが、トリエントミサを経験してみたいと思う人が少しづつ増えていることは素直に喜ばしいことだと思った。

もしトリエントミサの魅力に魅せられたならば、その体験を契機に、よかったら伝統のミサの保護促進を目的とするUVJの運営に参加してもらえたらさらに嬉しい。

かつて「ミサに対する信徒の能動的で意識的な参加」ということが、よく言われて時期があった。
そのときの説明では「昔のミサは、会衆に対し司祭が背中を向けて・・・」
というトリエントミサを否定するネガティブな印象操作的発言が頻繁にされていたことが記憶にある。

実際には、特別形式ミサ(トリエントミサ)は何かと人手が必要になる。

侍者は標準で6名必要。
オルガン、聖歌の係も必要。ミサ前のロザリオの先唱もある。
祭壇まわりのセッティングでも、通常形式から特別形式に変える準備がいろいろ多い
ロウソクも蜜蝋のためメンテがいるし香炉の準備もある。

なかなか忙しい。

しかし、この準備やセッティングで学べることも多い。

バチカンの指針「あがないの秘跡」で言われた「能動的で意識的な参加」の真意は、なにも、珍奇な聖歌を創作したり、何かミサに新しい要素を盛り込むというようなことではなく、受け継がれてきた典礼の意味を細部にわたって学び、その意味を深く知ることではないだろうか?

日本で特別形式ミサに与れるのは、本当に偶然と言ってもいいことで、そこで典礼を学べる幸せがあり、その幸せを共有しているという自覚が、UVJメンバーのモラール(士気)の源泉になっている感じがする。


先日の30日は、2週連続して所属小教区のミサを留守にしてしまうことになったが、いつもとは違うところのミサに与った。

全く想定していなかったのだが、関西方面の小教区ではほとんど滅多にない天使ミサ(カトリック聖歌503番のグレゴリオ聖歌によるミサ)だったので、あまりの偶然に驚いてしまった。
2週連続でラテン語ミサ、しかもそのうち一回は関西で与れたということに、なんとも言えない充実感がある。

場所を書かないのはブログを読んでくださる方には申し訳ないのだけれども、関西、特に大阪教区では、グレゴリオ聖歌排除を公言する聖職者もいてグレゴリオ聖歌を疎んじる風土があり、変な横槍が入って迷惑がかかってはいけないので申し訳ないけれども控えたいと思う。

説教は、エマオへの道、晩餐をテーマに「主に気づいていない弟子たちのほうへ、キリストの方から歩み寄ってきた。」という見方から、弟子たちの存在を私たちに置き換えて考えるという中身の深い濃い話だった。
何回か反芻しているのだが、メモ用紙を持ってくることを忘れてメモをとれなかったのが、ちょっと失敗だった。

しかしこういう場所が、まだ関西にあることを幸せに思う。

私自身、「何を求めているのか?」「何処に行こうとしているのか?」というのは、まだまだ曖昧な旅路ではあるけど、一歩一歩、歩いていくうちに、私の求めた聖域のようなところが一つ二つと見つかり始めた手応え、幸せを、神様の与えてくださったお恵みとして、ぼんやり想った。