昨日は、仕事を早く終えることができたので、所属教会とは異なるところで、聖金曜日の「主の受難の祭儀」になんとか与ることができた。

聖金曜日に祭儀に与れると、やはり復活徹夜祭が自分にとって、より良いものになる感じがする。


ブログ更新のタイミングを逸してしまったが、ちょうどいま読んでいるベネディクト16世の一般謁見講話で、「最後の晩餐」についてのとても印象深い話があったのでブログに書きとめたい。

この一般謁見講話は、教会の起源をテーマに「使徒たちについて」語られている講話である。
ベネディクト16世は、テーマをしっかり定めて、一つのシリーズとして成り立つ連続した講話をされるので、知識が深まるし、想像するイメージが面的な広がりがでてくるような感じがする。

ちょうど聖週間のこのタイミングで読めたことはよかった。

以下引用したい。 (※最後の晩餐における主イエズスとトマスとの会話について)
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【以下引用 】
(前略 )
このとき、イエスは、ご自分が間もなく去っていくことを予告しながら、こう言います。

わたしは弟子たちのために場所を用意しに行く。
それは、わたしのいるところに、彼らもいるようにするためである。

そしてイエスははっきりと言います。

「私がどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14.4)

するとトマスがイエスを遮って、こう言います。

「主よ、何処に行かれるのか、私たちにはわかりません」(ヨハネ14.5)

現実に、トマスはこの言葉で、自分が極めて低い理解しかしていないことを示します。
けれども、トマスのこの言葉は、イエスが次のような有名な宣言を行うきっかけを与えました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14.6)

したがって、この啓示はまずトマスに示されました。
しかし、それは、わたしたちすべてと、すべての時代に当てはまります。
わたしたちはこの言葉を聞いたり、読んだりするたびに、自分たちがトマスのそばにいると考えることができます。
そして、主は、トマスに語られたように、私たちにも語っておられると想像することができるのです。

同時に、トマスの問いかけは、私たちに、いわば、イエスに説明を求める権利も与えます。
私たちはしばしばイエスのいうことがわかりません。
私たちはイエスに次のように言う勇気を持たなければなりません。

主よ、私たちはあなたの仰せになることがわかりません。わたしに耳を傾け、私が理解できるように助けてください。

こうして、私たちは包み隠さずにイエスに語りかけます。

これが真の祈り方です。

こうして、私たちは、自分たちの理解力が乏しいことを明らかにします。

しかし、同時に私たちは、光と力の与え主が光と力を与えてくださることを期待する者の、信頼に満ちた態度をとることになるのです。

(後略)
【引用終わり 】
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「ああ、そういうふうに読んだらよかったのか」と素直に感心してしまう。

何げない会話から、どういう意味を見いだせるのかは、まさに信仰のセンスによるものなのだろう。

「主よ、何処に行かれるのか、私たちにはわかりません」というこの理解力の乏しさの話から、ベネディクト16世の講話は、この後、有名な「トマスの不信」の話に展開していく。

トマスは、ある意味とても人間的というか、等身大な感じがする人物だが、もっとも生々しく主の復活を直視することになった。

引用が少し長くなるので次回もこの話を続けたい。

ベネディクト16世は「トマスの不信」の話から私たちが何を学んだらよいかを示唆してくれるのである。

(つづく)