書名は忘れたが、以前読んだ曽野綾子さんの本で、「聖書のヨハネ福音書21章の『愛』という言葉は、本来のギリシア語の聖書では「アガペー」と「フィリア」という二つの言葉で書き分けられている。」というようなことが書かれてあった。

曽野さんの解説では、「アガペー」というのは「理性的な愛」で、「フィリア」は「好き」というような感情的な愛というような感じだったように思う。

ヨハネ福音書21章は、師と弟子の会話が、かみあわないというか微妙にずれる場面だが、そのとき持った私の印象は、師の言葉にこめられた想いに対するペトロの理解力が足りなかかったのが原因(最近の注目ワードを使えば「忖度」できなかった?)と思ったことを記憶している。

ところが、このヨハネ福音書21章ついて、ベネディクト16世名誉教皇の2006年5月24日の講話を知って、どうやら理解力が足りなかったのは私のほうだったことに気づかされた。

サン・ピエトロ大聖堂での一般謁見での講話である。
https://www.cbcj.catholic.jp/2006/05/24/2718/

以下一部を引用する。
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【以下引用】

(前略)
完全な忠実を約束していたペトロは、主を否んだことの辛さと恥ずかしさを味わいました。
高ぶる者は、その代償として、辱めを味わいます。

ペトロも、自分が弱く、ゆるしを必要とする者であることを学ばなければなりませんでした。
ついに仮面がはがされ、信じる者であると同時に罪人である、自分の真の意味での心の弱さを知ったとき、ペトロはひたすら後悔の涙を流しました。
この涙の後、ペトロはようやく自分の使命を果たす準備ができたのです。

 ある春の朝、復活したイエスによって、この使命がペトロに委ねられます。
イエスとの出会いはティベリアス湖畔で行われました。

このときイエスとペトロの間で交わされた対話について述べているのは、福音書記者ヨハネです。そこではきわめて意味深いことば遣いが行われていることに気づきます。

ギリシア語で「フィレオー(愛する)」は友愛を表します。
この愛は優しい愛ですが、完全な愛ではありません。これに対して、「アガパオー(愛する)」は、制約のない、完全で無条件の愛を表します。

 イエスは最初、ペトロにこう尋ねます。「シモン、・・・・わたしを愛しているか(アガパース・メ)」。すなわち、完全かつ無条件に愛しているかと(ヨハネ21・15参照)。

裏切りを経験していなければ、使徒ペトロは、もちろんこう答えたことでしょう。

「わたしはあなたを――無条件に――愛しています(アガパオー・セ)」。

今、ペトロは、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみを知っています。そこで彼は謙遜にこう答えます。

「主よ、わたしはあなたを愛しています(フィロー・セ)」。

すなわち、「わたしはわたしの人間としての貧しい愛をもってあなたを愛しています」。

キリストはなおも尋ねます。
「シモン、わたしが望むこの完全な愛をもってわたしを愛しているか」。

ペトロは、人間としての謙遜な愛をもって愛していますと答えます。

「キュリエ・フィロー・セ」。

すなわち、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。

 三度目にイエスはシモンにただこう尋ねます。

「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)」。

シモンは理解しました。イエスにとっては、自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだということを。

にもかかわらずシモンは、主がこのようないいかたをしなければならなかったことを悲しく思いました。それでシモンはこう答えました。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していること(フィロー・セ)を、あなたはよく知っておられます」。

 イエスは、ペトロが自分をイエスに合わせようとした以上に、ご自分をペトロに合わせようとしたように思われます。このように、神がご自分を人に合わせてくださったことが、忠実に従わなかった苦しみを知るこの弟子に希望を与えました。そこから信頼が生まれ、この信頼によって、この弟子は最後までイエスに従うことができました。 

(後略)
【引用終わり 】
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「ペトロの『フィロー・セ』という返答には、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみがある。」

3度目の「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)」という主イエスの問いかけによって、「『自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだ』ということをシモン(ペトロ)は理解した。」


かみ合っていない会話と思っていた会話は
、かみ合わないどころか極めて意味の深い会話だったのである。

こういう感動的な深い解釈があるということに、私は気づかなかった。

「人間としての謙遜な愛」「人間としての貧しい愛」という解釈によって「フィリア」という言葉の味わい深さを感じたような気がした。


「アガペー」の愛は、キリストの教えの根にあるものだけれども「わけへだてなく愛する」という教えに対し、時に困難さをおぼえることは少なくない。

度々、罪をおかす自分の未熟さも実感する。

しかしそういう不完全な貧しい愛(フィリア)であっても、主は受け入れてくださるというところは、キリスト教の良さだろう。


この「二つの愛」という概念は、曖昧な日本人の感覚では理解が難しいところで、キリスト教の宣教においては、ポイントになるところなのかもしれない。