列福式も終わり、2週連続の特別形式ミサも終わって、大きな行事の後の寂しさもあって、昨年末の待降節の黙想会で関心を持った「十字架の聖ヨハネ」について買っていた本を読み始めた。

しかしどうも黙想会の時の話と内容が一致しない。

何かおかしい。変だ変だと思っていたら、なんと私が買った本は「十字架の聖パウロ」についての本で、別の聖人と間違えて買っていた。

とはいえ、こうした買い間違いも不思議な出会いで、十字架の聖パウロが御受難修道会の創立者であることを知った。

「主イエス・キリストの御受難(を想うこと)は、霊的完徳に達する最短の道」
「十字架に釘付けられたイエスの足跡をたどるべきことをしっかりと肝に銘じておきなさい」

という感じの、どちらかというと厳しい話が続く。

十字架の聖パウロは、幼い頃に十字架につけられたイエスの絵の意味について母親に尋ねたとき「神様があなたをとても愛していらっしゃるから、私たちのために苦しみを受け死んでくださった。」という答えを受けた。
その答えによって「神のものに全くなりきってしまいたいという強い願望を生じさせ、自分はいつでもこのこと記憶していた」と語っている。

十字架の聖パウロは「わたしの望みはイエスと共に十字架に釘付けられること」という言葉をしるし、御受難とは現実の全てを見る光として近づく。

「十字架の聖パウロ」は、18世紀の聖人であって教会の歴史のうえではそれほど昔の人ではない。

十字架の聖パウロを魅了した「磔刑のキリストの御絵」だが、最近の新しい教会(聖堂)では、「磔刑のキリスト像」が少しづつ消えていて「復活のキリスト像」になってきている。

このことについて、仲間と話題になったとき、「磔刑のキリスト像の酷たらしい姿を見るだけで拒絶してしまう人がいるかららしい」という話を聞いた。

そういう変化は、教会のながい歴史の中でも近年というか現在になってからの変化で、かつその変化の大きさというのは、とても大きな変化であるということを感じた。
「磔刑のキリスト像」を「復活のキリスト像」に変えていくというのもアジョルナメント(現代化)の一つなのだろうか?


ところで、少しここで話が逸れてしまうが、「十字架の聖パウロ」で、ネット検索を続けていたら「聖パウロ」繋がり検索結果で、予期せぬホームページに出会えた。

教会関係ではちょっと珍しい(?)おしゃれで美しい魅力的なホームページで、話題にイマドキ感があって見て読んで楽しくおもしろい。

管理人の聖パウロ修道院の修道士TomaPさんの素直でやさしい人柄も伝わってくる。
http://www.tomap.info/

良いホームページだと思った。

上記の「磔刑のキリスト像」のような話や、典礼についてのことでは疑問に思うアジョルナメントも、TomaPさんのイマドキのおしゃれなHPを見て、宣教においては重要で必要なことのようにも思う。

アジョルナメントが必要なところが、現在の日本の教会は少しズレているのかもしれない。